呪われた悪女は獣の執愛に囚われる

藤川巴/智江千佳子

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 この世に、ソフィア・フローレンスを知らぬ者はいない。

 上質な蜂蜜を垂らしたかのような艶めく長髪に、見る者全てを魅了する赤い瞳。胸元はほっそりとした華奢な手足にはアンバランスなほどに豊かで、抜けるように白い肌は、頬と唇だけが薔薇色に淡く色づいている。ぷっくりと膨らんだ唇は蠱惑的な印象を与え、彼女がひとたび微笑めば、たちまちあたり一面に妖艶な色香が散らばった。欲望を誘うには充分なほど端正な容姿をしている。

 彼女がソフィア・フローレンスその人でなければ、男はこぞってデートの誘いを持ち掛けたはずだ。

 だが、彼女をそのような目で見る者はいない。

 ソフィア・フローレンスを知らぬ者はいない。誰もが口を揃えて言うのだ。彼女は稀代の悪女である、と。


「あらいやだ。ドレスデン子爵でしたの? ごめんあそばせ。あんまりにも臭うものですから、ケモノかと思いましたわ」

 ——口元を扇子で覆い隠すことを忘れない。

 彼女はわずかな綻びも許されない。ソフィア・フローレンスは常に完璧であることを求められている。

 ソフィアがゆるりと眦に嘲笑の形を浮かべれば、ダニエル・ドレスデンは、顔色を失くして唇を震わせた。怒りに震えているわけではない。恐ろしさで、謝罪の文句を告げることもできないのだ。

「こ、こ、これは……」
「あらあら。そんなに冷たかったかしら? けれど貴方、とっても臭いんですもの」

 真夏のロクサス地方は温暖な気候に恵まれている。少しばかり冷たい水魔法を降らされたとしても、ここまで震えあがることはないだろう。

 今この場で尻餅をつきながら身体中をしとどに濡らしているダニエルは、魔術師団の中でも気の小さい男だ。

 野花を愛でることを趣味とするような凡庸かつ取るに足らぬ男ではあるが、魔術師団の中堅の団員や幹部にも可愛がられる素朴な魅力を持った魔術師だ。

 まさか、彼自身もソフィアのような派手な悪女と会話する危機に瀕するなど、想定もしていなかっただろう。

「ふ、フローレンス、様、その……」
「もしかして貴方、言葉をまともにお話になることができないのかしら? そうよね。こんなにもケモノ臭い人間が存在するはずがないのだもの。ねえ、モリスさん? そう思わない?」
「……え、ええ。全くですわ」

 唐突に話題を振られた魔術師マリア・モリスが、ダニエルと同じく青い表情で、必死に笑みを取り繕っている。

 ——いっそ愉快なほど、顔色が悪いわ。

 ソフィアは心中に浮かんだ言葉を扇子で扇ぎ隠しつつ、誰よりもこの場で身体を小さくして息を潜めている子どもを見下ろした。

 祖先は猫だろうか。

 少女は両手で頭の両脇をひた隠しているが、俯きながらも震える臀部から、尻尾が見えていた。不安を示すようにぴたりと足の間に隠れているが、はっきりとソフィアの目には見えてしまったのだ。

 おそらく少女のその頭には、可愛らしい猫耳がついているのだろう。

 獣人も、成人を迎えるまでに耳や足、尻尾等の人間とは異なる特徴が徐々に消えていくものなのだが、幼少期はやはり、人との違いが際立つ。

 魔術師団と獣軍の合同訓練場に顔を出してしまった少女は、残念ながら運が悪かったとしか言いようがない。

 ソフィア・フローレンスは稀代の悪女と囁かれている。その名の由来は、彼女の尋常ならざる獣人への振る舞いにあった。

 ソフィアが少女を一瞥したことに気付いたダニエルが、転げそうになりながらも慌てて立ち上がった。

 ダニエルは、言わずとも知れた穏健派の生まれの者だ。

「フローレンス様、も、うしわけございません。ぼ、私は、その、野山を調査することの多い身ですから、それできっと、臭うんです。申し訳ありません。今すぐに身体を洗ってまいります」

 ソフィアの目から何か少女を隠そうとしているのは一目瞭然だ。予想だにしないダニエルの勇敢な姿に、マリアが密かに息をのんだ。

 ソフィアの前で獣人を庇う行動を取るのは、自死を望んでいるようなものだ。

 実際にダニエルは、彼の周囲だけ地鳴りが起っているのだろうかと勘違いしてしまいそうなほどに全身を震わせている。それほどの覚悟で小さな命を守ろうとしているのだ。

 ソフィアはそのことを確認し、いっそう眦の笑みを深めて言った。

「そうね」

 寛大な言葉に、ダニエルはあからさまなほど、肩から力を抜いた。

 ソフィアはこっそりと思う。その仕草がまた、実に嘘を吐くには適さない者らしい、と。

「では、そこにあるゴミも貴方の自室に備え付けられた洗濯機で、綺麗に・・・洗ってきてくださいまし」

 ぱちんと音を立てながら扇子を閉じ、冷ややかに微笑むソフィアを見つめるまま、ダニエルは声を失ってしまった。

 場が凍り付く。

 マリアはとうに呼吸を忘れていそうだ。

 哀れではあるが、彼女はソフィア・フローレンスの側を離れることができない。ソフィアの暴走を宥めるという至難と向き合うことのできる知性を持ち合わせている魔術師が、今のところマリアくらいしか居ないためだ。

「ご、ごめんなさい」

 誰一人言葉を発しない場で、か細い謝罪の言葉が響き渡った。

 この声に、誰よりも表情を凍り付かせたのはダニエルだろうか。

 この場でその者が発言することがどれほど危険なことか、ダニエルはよくわかっているらしい。彼は、ソフィアがいかに残虐な悪女であるのかを理解したうえで、嘘を吐いたのだ。

 ソフィアは淡々と事実を確認し、微笑みたくなるのを堪えつつ、あえて全ての表情を取り払った。

 美しい者の無の表情ほど恐ろしいものはない。マリアは常々ソフィアに思わされていることをもう一度思い返し、震えあがりそうな己の心を叱咤した。

 このままでは、少女が口に出すことさえも憚られるような悍ましい目に遭う。

「なぜ、ゴミが人の言葉を発するのかしら」
「ソフィア様。このような場にいると、御身が穢されてしまいますわ。あとのことはドレスデン卿にお任せいたしましょう」

 マリアらしからぬ緊張感の孕んだ声が、ソフィアの寒々しい声の後に続いた。その心が全くソフィアに寄り添っていないことが察せられてしまうような形式的な物言いだが、目の前の少女の行く末を思えば、声をあげずにいられなかったのだろう。

 マリアにしては珍しい悪手だ。

 ソフィアはその振る舞いにわずかに眉を顰めそうになりながら、小さくため息を吐く。

 もっと完璧に演じる者でなければ失敗する。

 悪態をつきたくなりつつ、致し方なく少女に制裁を加えようと口を開きかけたその時、大袈裟なほど緊張感に欠ける声が、ソフィアの真横に響いた。

「きゃあ! ぶつかっちゃう!」

 ソフィアが能天気な声に振り返った瞬間、ブロンドの猫毛を両端で束ねた愛らしい恰好の女性が、ソフィアに向かって倒れてくる。

 手には大量の書類を持っているようだ。ソフィアは一瞬呆気に取られ、その身体が己に触れようとしたその時、慌てて身体を引いた。

 激しく倒れ込んだ女性は、手に持っていた書類をその場に盛大にまき散らし、視界が白に覆い隠される。

 その紙吹雪の混乱の中で、秘密裏に少女が助け出されているのだと理解するまでに、若干の時間を要した。それほどまでに、ソフィアは内心怯えていたのだ。紙吹雪がなければ、ソフィアがみっともなく獣人に怯えている表情が晒しだされていたことだろう。

「ご、ごめんなさい。私ったらつい!」

 全ての紙が地面に散らばり落ちたとき、間髪入れずにツインテールの女性が頭を下げた。気持ちが良いほどに心を込めて謝罪してくる。

 彼女はシェリーと呼ばれている獣騎士だ。

 ソフィアが不在の間には、魔術師たちとも親交を深めているほど、人懐こい性格の獣人だ。

 同じブロンドヘアの女性同士でも、こうも周囲に抱かせる印象が違う。シェリーの薄らと日に焼けた肌は健康的で、騎士らしく鍛え抜かれた身体は見ていて清々しい。

 彼女はソフィアの怒りを買うとわかっていて、少女を救おうとするお人好しでもある。

 死地に単騎で乗り込むような無謀さではあるが、シェリーが戻ってきたということはつまり、ソフィアの暴走を唯一諫めることのできる者が共に帰り着いているということだ。ダニエルとマリアがひっそりと安堵のため息をついた。

 ソフィアも内心ため息を吐きそうになりながら、努めて冷ややかにシェリーを睨みつける。

 悪女らしい言葉なら、するすると唇からこぼれ落ちてくる。

「よっぽど死にたいのかしら」
「フローレンス総司令官殿」

 ソフィアが皮肉に微笑んだそのとき、背後から低い声が響き渡った。
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