不埒に溺惑

藤川巴/智江千佳子

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STEP 1 「どうやる?」

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「はい、終わり。……明菜ちゃん?」

 すべての工程を終えた八城が、ぱっと身体を離して、横から覗き込んでくる。悪戯な瞳だ。綺麗に頬を持ち上げて笑っている。吐息がかかってしまいそうなくらいに近い距離に顔を寄せられて、思わず目をそらしてしまった。

 心音がうるさい。動揺しないようにとたくさん考えているはずが、この人の前に来ると、全ての準備が砕けて消えてしまう。

「かーわい」

 くしゃり、と髪を撫ぜられて、無意識にそらしてしまった視線が、ようやく八城へと戻った。どこまでも楽しそうな顔をしている。八城はいつもそうだ。どんなときにも豊かな表情で、感情表現している。前向きで、向上心があって、つねに道を切り拓いていく人だ。

 乱れた私の髪を柔らかく撫ぜて、整えてくれる。二人で会う時の八城の瞳は、どろどろに煮詰めたカラメルみたいだ。いつも思う。目が合うと、強烈な引力に惹かれて、こころの音が、鳴りやまなくなる。

「ソファでイチャイチャする?」

 とんでもなく甘い、危険な提案を仕掛けてくる。八城の営業センスの前で、私はどうやって太刀打ちするつもりだっただろう。今日、どうやって八城のこころを掴もうと思ってこの部屋に訪れたのか、もう分からない。

 ただ、八城の瞳に囚われて、考えることもできずに小さくうなずいた。

「よし。断られなくてよかった」
「ことわるはず、ないのに」
「そう? もう、食われる前のウサギみたいで、逃げられないか不安になる」

 八城がしたように私も手についた泡を水で流して、タオルで拭う。単純な作業をできるだけ丁寧に行って、一つ息を吐いた。

 逃げてどうする。自分で望んでここに来た。俯いた顔をあげて、目のまえで待ってくれている人をもう一度見上げた。

 八城は背の高い人だ。体育会系だろうことが容易に想像できるくらい逞しい体つきで、ますます自分とは違う生き物なのだと自覚させられる。八城の言う通り、捕食者と被食者に分けるならば、間違いなく八城が捕食者で、私が被食者にしか見えない。私は、そんな人に交渉を仕掛けてしまったわけだ。

「にげない、ですよ」
「そう? まあ逃がさないけど」

 八城がけろりと危険な言葉を吐きながら、手を伸ばしてくる。言葉の意味を知らしめるかのように、私の指先が握られた。

 確かめるように私の手に触れる指先は、すでに熱い。すこし前まで水仕事をしていた人のものとは思えない。皮はすこし厚くて、ごつごつしている感じがする。その手に握られるだけで、強烈に動揺してしまうからだめだ。

 八城の側にいる間、私はつねに熱中症になってしまっている気がする。ふらふらと夢見心地の足で八城の後ろについて、八城が横になっても十分ゆったりとくつろげそうな広いソファに座らされる。私の左側に座った八城の身体は、私の身体にぴったりとくっついていた。

 手加減を、してくれている気がしない。

「なんか観る?」
「なんか、というのは、」
「明菜ちゃんの好きなの」

 ぽんぽんと言葉が繰り出されるから、振り落とされないように必死だ。隣り合った手は繋がれたままで、空いた手で八城がリモコンを触っている。繋がれている指先を遊ぶように撫でられるから、本当に落ち着かない。

 ずっと落ち着かない。この部屋のドアを見た瞬間から、私は落ち着きをなくしていると思う。

「明菜ちゃん?」
「あ、はい」
「上の空?」
「あ、ううん。そうじゃないです」
「ん? 何考えてんの」
「いえ、そんな、」
「俺には言えない悪いこと?」

 私の手に触れる八城の手が、するすると動いて指先を絡めてくる。恋人繋ぎというものが、こんなにも心臓に悪いものだとは知らなかった。視界に入るだけで、胸が壊れそうになる。まるで、私の手が、八城のものに食べられてしまっているみたいに見える。

「明菜?」

 咎めるような声が、耳元に吹き込まれる。横から覗き込む男の顔を見つめることはできない。本当に前途多難だ。この人を、誑かす方法が分からない。

「っ、八城さんのこと、考えていて」

 どうにでもなればいい。半分やけくそになって口に出したら、情けなく小さな声が出た。私の言葉で、八城が息を吐くようにゆるく笑った。その音さえも、心臓に響くから悪い。

「ん、知ってる」

 全部、見透かされている。八城の全ての行動に翻弄されている。混乱しすぎて、どうにかなってしまう。男女の秘め事とは、どうしてこうも難しいのだろうか。ここまでずっと、避け続けてしまったから、今更分かるはずもない。

「いきなり取って食ったりしないから、もうすこし安心していいよ」
「くわないって」
「やっとこっち見た」

 八城の聞き捨てならない言葉に、どうにか抗議しようと慌てて顔をあげれば、したり顔の人と、真っ直ぐに目が合ってしまった。もうずっと私の顔を見ていたのだろうか。急激に恥ずかしくなって、また顔をそらしてしまった。二人しかいない。逃げ場もない。逃げるつもりなんてないのだから、それでいいはずだ。

『取って食わない』なんて、私は、食べてもらわなくては困る。

「八城さん」
「ん?」
「まだ、その、だめですか」
「うん? 何が」

 色気もへったくれもない誘い文句になってしまった。

 私の言葉はだいたいそうだから、どうにかしようと策を練っているはずなのに、結局八城の手のひらの上では作戦なんてどうにもならない。恨めしい気持ちで、何とかもう一度顔をあげた。今にも八城の手に食べられてしまいそうな指先に力を込めて、楽しそうに笑んでいる瞳を見つめる。

 私は、この人を誘惑するために、この場に座っている。八城もそのことをよくわかっている。だから、『何が?』なんて愚問だ。

 私にそれを言わせようとしているだけなのだろう。わかっているのに、まんまと嵌ってしまう。顔が熱い。直接的な言葉を口にする勇気がない。

「……わかっているのに、言わせないでください」

 かろうじて悪態をついて声に出したら、私の限界を悟ったのか、八城が小さく笑った。

「あはは、ごめん。何か可愛く照れてるから、いじめたくなって」

 八城は常に余裕だ。私の言葉なんて、効いているのかもわからない。かろうじて、じっと見つめてくる八城の目を見上げている。私の一生懸命など簡単に飛び超えてくる恋愛経験豊富な男性が、からりと笑って繋がれていないほうの手で私の髪に触れた。

「やしろ、さん」

 遊ぶように私の髪の先まで指を通して、くるくると毛先を丸めている。まるで、八城のものになってしまったような気分だ。

「んー?」

 熱心に毛先で遊んでいた大きな指先が、整えるように頭のてっぺんから髪に触れて、耳にかけてくれる。八城が私の顔を覗き込んでくる視線の熱に、くらくらと眩暈のような落ち着かなさが襲い掛かってきた。

「八城さんは、どきどきさせる天才です」

 敵いっこない。降参したくなってつぶやけば、八城がまた、空気を吐くように小さく笑った。いつも、会社では快活に笑う人だと思う。こんなふうに、色気たっぷりに微笑む人だとは知らなかった。

 本当に、彼のすべてが心臓に悪い。どきどきしすぎて心臓が止まってしまいそうだ。全部が胸に突き刺さって、拍動が乱れてしまう。ゆるりと笑った唇が、静かに口遊むさまを、ただ、逃げることもできずに見つめていた。

「どきどきしてんの」

 その音にすら、胸が軋んでしまう。八城が弾きだす声のトーンに合わせて、拍動がリズムを変えてしまいそうだと思う。真剣に悩んでいるのに、八城はどこか楽しそうだ。すこしも、手加減してくれている気がしない。もうずっと。この関係が始まってから、ずっと思っている。

「してま、すよ」
「マジで? 聞かせてよ」
「どう、やって」

 口先だけが喋っているみたいに、頭が回らない。色気にあてられるというのは、本当にあることなのだろうか。まるで、頭が酩酊しているみたいに、何も考えられない。ただ、どうしたら良いのかも分からずに、縋るようにどうすればいいのか、問いを立てていたような気がする。

 八城は、迷子の子どものような私を見下ろして、たっぷりと笑っていた。わざわざ私の耳に唇を寄せて、私だけに囁いてくる。唆しているようにも聞こえた。

「どうやる?」

 今日も多分、私の負けだ。

 何も言えずに押し黙る私に、とどめをさすような声が囁かれた。
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