不埒に溺惑

藤川巴/智江千佳子

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prologue

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 どうして、こんなことになってしまったのだろうか。

 ものすごいスピードで、胸が煩く騒ぎだして、止まってくれない。言われた言葉の意味が分からず呆然とする私を見つめるその人は、どこまでも楽しそうに笑っている。

 まさか、こんなことになるとは思ってもいなかった。あり得ないことが起こっている。私、小宮こみや明菜あきなは玉砕前提の、一世一代の告白をしたつもりだった。玉砕覚悟だったのだ。それが、まさかこんな返事が来るとは思ってもいない。

「しばらくの間、小宮さんの交際相手みたいに振る舞っても良いですか」
「え?」

 微笑みを湛えるその人は、首を傾げて私の言葉を待っている。待ちの姿勢を取っているのに、どうして攻められているような気分にさせられるのだろう。

「小宮さんの誘惑に耐えられなくなったら、抱きます」
「ゆ、うわく」

 そのようなことをすることになるとは、思ってもいなかった。言われた言葉の意味を噛み砕くこともできずに復唱する私を見おろす彼は、いっそう楽しそうに口角をあげた。ゆるりと弧を描く唇に視線が釘付けになる。

 どうしよう。どうしたら。どうしてこうなってしまった。疑問ばかりが頭の中をぐるぐると巡り巡って、結局私は、目の前のうつくしい男性を呆然と見つめていた。

 シャープな印象を抱かせる輪郭に、意志の強そうな目力のある瞳が輝いている。鼻筋は綺麗に通っていて、横顔のラインもまたうつくしい人だと知っている。真剣な顔つきで資料と向き合う姿は、いつ見ても惚れ惚れしてしまうほどだけれど、実は人懐こい男性で、笑うと実際の年齢よりも五歳は歳下に見える気がする。

 魔力のある人だ。顔をくしゃくしゃにして笑うところを目撃するたびに、胸が甘くざわめいて仕方がない。遠くから見ているだけでも、十分すぎるような人だ。到底手の届かない人。

「できない?」

 それなのに、どうして私を真正面から見つめてくれているのか。普段はあんなにも可愛らしく笑うのに、今、私の目の前で色気たっぷりに笑う人は、どう見ても歳上の男性だ。大人の、男の人。獰猛な獣のように笑ったその人は、狼狽えきった私の目を見て、不埒な誘惑を仕掛けてくる。

 営業部の頼れるエースこと、八城やしろ春海はるうみは——。

明菜あきなちゃんは、どうやって誘惑してくれんの」

 なかなか手ごわい、人のようです。


 ◇ ◇ ◇


 ぺろり。

「うわ、これめちゃくちゃうまい」
「本当ですか。良かったです」
「ん、店出せるよ、これ」
「八城さん、いつも褒めすぎです」
「はは、本気なのに」

 八城の一口は、おどろくほどに大きい。大きめに作ったハンバーグをたったの三口で食べてしまう。いつ見ても豪快な食べっぷりで、自分の作るものが、世界一美味しい料理になってしまったような錯覚に陥る。

 八城は今日もほんの少しの時間で、ぺろりとお皿に盛りつけた全てを食べ終えてしまった。食欲旺盛な肉食獣みたいだ。

「ごちそうさまでした」
「はい。綺麗に食べてくださって、ありがとうございます」
「うん、めちゃくちゃうまいから、がっついて食っちゃった」
「あはは。食べっぷりが豪快で、男の人って感じがします」
「これくらいで?」

 小さく笑った人が、テーブルの脇に置いたグラスを手に取って、喉仏を上下に動かしながら麦茶を飲みほした。

 水分を摂取しているだけで、絵になる気がする。

 ラフなティシャツに着替えた八城の魅力は普段の割り増しだ。本当に見ているだけで、眩しい気持ちになる。目を眇めてしまいたくなる。八城は私の心など知るはずもなく、くしゃくしゃに破顔している。

 子どもみたいに笑うのに、その中身はしっかりと年上の男性だ。そのギャップに触れるたび、くらくらと眩暈のような感覚にのぼせ上って胸が煩く高鳴ってしまう。彼の一挙手一投足に反応してしまう自分が恥ずかしい。

「男性に慣れていなくて、お恥ずかしいです」
「可愛いから、そのままでいいよ」
「かわ、」
「俺以外の男にこんなうまい飯作ってほしくないし」

 八城は、驚くほど簡単に人を褒めたり、好意を示したりすることができる人だ。対するこちらは言葉が喉元につかえてしまった。うまく反応できずに、隠すように立ち上がる。

「お皿、洗います」

 宣言して、いそいそとプレートを片付けてから、キッチンに移動する。

 八城春海という男性は何でもできるスーパーマンのように見えて、意外に家事が苦手なのだと聞いていた。

 信じがたい気分でいたけれど、彼の部屋のキッチンがまるで新品かのように綺麗なまま、使われた形跡がないのを見て、嘘ではないのだと気づいた。私が来ているとき以外には、本当にほとんど使われていないのだろう。

 電子レンジとコーヒーメーカーが心強い味方だと笑っていた。飾らない言葉もすてきに思えてしまうから不思議だ。八城は自分の料理がそんなに好きではないから、時間がある時くらいしか作ったりしないらしい。

 シンクに水を流して、スポンジを手に取る。例のごとく、新品のようなスポンジに洗剤を垂らして泡立てたあたりで、ふと後ろから香水の匂いが香った。

「明菜ちゃん」
「は、い」
「照れてんの?」

 嘲るよりも、可愛いものを愛でるような笑い方をする人だ。一瞬で胸を掴まれて、指先が固まってしまう。

 ——私が誑かされて、どうする。

「照れ……、て、ます、ね」

 誑かされてどうする、と思いながら、八城の魅力に心臓を掴まれて、手元が狂った。手に取っていたプレートを落としかけると、すかさず後ろから逞しい腕が伸びてきた。大きな手でしっかりとプレートをキャッチした男が、もう一度小さく笑っている。

「ごめん、ビビらせた?」
「もう、いつもびびっています」
「明菜ちゃんがビビるって言葉使うの、新鮮」
「私も、初めて使った気が、します」
「へえ、かわいい」

 彼の言葉の脈絡が分からない。分らないのに、どうしようもなく動揺して指先が震えた。視線を向けることはできない。見てしまったら、あらゆる墓穴を掘ってしまうことを知っている。この人に、太刀打ちできたためしがない。

 できるだけ、背中に触れる熱が何なのか、誰なのかを意識しないように視線を手元に向けて、大きな手がもう一つ後ろから伸びてきたのが見えた。

「や、しろさん」
「ん?」
「洗い物」
「うん、食わせてもらったから、俺がやります」
「じゃなくて、」

 私の手から簡単にスポンジを抜き去って、掴んだプレートをくるくると洗っている。私よりも手が大きいから、なんだかままごとをしているみたいにも見える。左右から腕を伸ばされているから、ただ、見ているしかできない。逃げ場のない私の両手が、おろおろと彷徨っているのが見えた。

 まるで、八城といる時の私みたいだ。私の一部なのだから、当然なのにおかしなことを思う。

「八城さん」
「んー?」

 後ろから抱きしめる形で作業を続けられるから、ひどく落ち着かない。シンクと八城の身体に挟まれて、右も左も腕で封じ込まれている。完全に拘束された状態だ。

 どうしようもなく狼狽えてもう一度名前を呼べば、耳もとで、低い笑い声が響いた。

「このくらいでギブアップしちゃうんだ?」
「このくらいって、すごい、もう、すごいことになってる」
「すごいこと?」
「耳元で囁かないでください」
「あれ、だめだった?」

 何度か手加減をお願いしているのに、まったく聞く気がない。八城の声は、胸に響くような音だと思う。会社や電話越しで聞いているときは元気をもらえるような、すこし落ち着く気分にさせられるような声色なのに、どうしてか二人の時の八城の声は、ひどく落ち着かない気分にさせられる音だ。

 私が混乱している間に、八城は一枚ずつプレートを水で流して、脇の台に置いて行く。こんなにも私は動揺しているのに、八城には全く緊張している素振りもないから、どうしようもない。

 ひどく、無謀な時間だ。

「前途多難だな」

 私が思うこととほとんど同じことを考えているらしい八城の声で、ぴくりと肩が動いてしまった。
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