不埒に溺惑

藤川巴/智江千佳子

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STEP 1 「ずっとくっついてしまう感じだし」

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「明菜ちゃんは、どうやって誘惑してくれんの」

 お腹の奥に響くような声だ。ずくりと粟立って、何一つ、反抗する言葉が浮かばなくなる。誘惑する暇を与えてくれない。顔を寄せて、キスでもできてしまいそうな距離で私を見下ろしてくる。八城の匂いが香って、ひどく酩酊した気分にさせられる。

 落ち着かない。本能的に、逃げ出したくてたまらなくなる。けれど、八城に手を握られているうちは、絶対に逃げ出せない。八城の遊びに触れるだけで落ち着かなくて、どうにか逃げようと思っているようでは、とても誘惑なんてできるわけもない。

 私が、誘惑などできないことを知っている人が笑っていた。

 その唇に、キスでもしてみればいいのだろうか。それとも今すぐここで、八城をソファに押し倒せばいいのだろうか。誘惑というのもののやり方を、長らく考え続けている。この完璧な男性を陥落させられるものなど、私にあるのだろうか。

「明菜?」
「八城さんは、ずるい」

 突然呼び捨てで呼んできたりする。私の乏しい男性経験では、太刀打ちできない。名前を呼ばれるだけで、こんなにも動揺してしまう。動揺する私を見下ろす人が、なおも楽しそうに笑いながら髪を撫でてくる。どうやったら、この人から主導権を奪えるのだろうか。一生できない気がする。

「ずるいか? 結構手加減してるよ」
「どこがですか」

 心底驚いて、声が出てしまった。間髪入れずに尋ねれば、八城がすこし目を見張ってから、いっそう楽しそうに頬を緩めた。

 八城の視線が、私の瞳から下にそれる。その視線の先に何があるのか、考えなくとも分かってしまった。まるで、食らい尽くしてしまいそうな目で見ている。

「や、しろさ……」
「キスしないように我慢してるし」

 私の唇を見おろして、静かに笑っていた。まるで、本当に我慢している人みたいな飢えた目をする。どうしたら良いのか分からない。何を言えば誘惑できるのか分からない。

 ただ、頭に浮かぶ言葉を譫言のように口に出していた。

「が、まん、して、ますか」
「してないように見えんの?」
「わかん、ない」

 視線が痛い。落ち着かなさで、とうとう目を背けてしまった。見ているだけで、八城の色気にあてられてしまう気がする。俯いた視界の端に、八城に握られた自分の手が見える。それだけでもまた落ち着かなくて、ぎゅっと目を瞑った。

 私の抵抗なんて、八城にとっては赤子の遊びのようなものだ。

 俯いた顔は、八城の手に簡単にあげさせられた。あごの下に触れる指先は、優しい力なのに、どこか抵抗させる気がないことを理解させられてしまうような熱を孕んでいる。

「俯いちゃダメだろ」

 二人きりでいる間、八城のまなざしはいつもあつくるしい。

「なんで、ですか」
「わかんない?」
「わか、らないで、す」
「噛みつきたくなるから」

 誘惑勝負は、いつも私の負けだ。

「……それは、もうもらって、くださる、なら」
「ん~、でも、このまま食ったら、明菜ちゃんガチガチになっちゃいそ」
「……噛まれたら、心臓は爆発しちゃいそう、です」

 しどろもどろも良いところだ。私の声で、八城がふっと私のあごを拘束していた指先の力を抜いた。

「それは困る」
「わたしはもう、こまってます」
「はは、可愛いな」
「誘惑が、難しいんです」
「ん、頑張ってるけどね」
「がんばれてます、かね?」
「結構」

 その、結構というのは、どれくらい誘惑されてくれているという意味なのだろうか。何一つわからなくて、途方に暮れている。ぱっと私のあごから手を離した八城が、いつも通り爽やかに笑ってもう一度リモコンを取った。

「恋愛映画でも観ようか?」
「恋愛映画ですか」
「ん、それで男の誘惑の仕方、勉強でもする?」
「……八城さんは、映画よりもどきどきさせるかっこいい人だから、参考にならない気がする」

 正直に告げたら、八城はすこし目を大きくしてから私の髪を大げさに撫でた。

「……無自覚が一番厄介だと思うけど」
「八城さん、何か言いましたか?」
「いや? じゃあ、今日もこの間観たシリーズにしようか」

 静かに笑った八城が、軽く提案してくれる。提案してくれた作品は、先週この部屋に来た時に八城に勧められて観たものの続編だった。先週観たのが三部作もある映画の第一部だったから、今度また観ようと言われて頷いたことを思い出す。

 内心、かなりほっとしてしまった。誘惑モードの八城には全く歯が立たない。それも、突然スイッチが切り替わるから、私から仕掛ける暇もない。その点、八城が好きだと言っている作品のシリーズは、かなりシリアスなファンタジーもので、誘惑するような気分になるようなものではない。

 本当は一刻も早く八城を誘惑したいはずなのに、対面すると逃げ腰になってしまうから駄目だ。

「明菜ちゃん」
「ん、はい?」
「始まるよ」
「はい」

 気持ちを落ち着けてディスプレイを見上げると、すでに映画は導入部に入っているようだった。ずっと私の指先を握っていた八城の手がやんわりと離れて、部屋の照明のリモコンを取った。

 八城の熱が奪われた指先が寂しい。すでに八城中毒になっている自分に気づいて、小さく首を振った。

 照明が暗くなって、映画館さながらの雰囲気になる。迫力ある映画だから、かなり驚かされる場面も多い。気合いを入れようとソファに座りなおして、横から声が飛んできた。

「明菜ちゃん」
「は、い?」
「こっち、おいで」

 ぽんぽん、と叩かれているのは確かに八城の足と足の間だ。思わず絶句してしまった。唖然として見つめていれば、八城が小さく笑ってもう一度甘く誘ってくる。

「こない?」
「それは、ずっとくっついてしまう感じですよね」
「ずっとくっついてしまう感じだね」
「恋人は、そういうことを、します?」
「うん、俺はしたい」

 再び絶句してしまった。確かにかなりの体格差があるから、私の身体は八城の足の間にすっぽりと嵌ってしまいそうな気がする。恋愛偏差値最底辺の私には、それがどれくらいの緊張感を伴うものなのか、まったく想像できない。

「明菜ちゃんはもう、誘惑してくれないんですか」
「あ、誘惑……」

 忘れていなかったのか。もうすっかり私は、今日の誘惑ゲームは終わりだと思い込んでいた。

「頑張れない?」
「……がんば、りたい、です」
「じゃあ、おいで」

 上手く口車に乗せられてしまっている気がしないでもない。私が誘惑するはずが、八城にやられっぱなしだ。小さくうなずいて、ゆっくりと身体を移動させる。片足を跨いで躊躇っていれば、あっけなく腕を引かれて、ぽすりと八城の身体に吸い込まれた。

「八城さん」
「うん?」
「これは、けっこう、はずかしいです」
「そう? 俺は好きだけど」
「すき、ですか」
「ずっとくっついてしまう感じだし」
「それ、ちょっと茶化してますね」
「気づかれたか」

 後ろから回ってきた両手が、お腹の前で絡まっている。ひどく落ち着かないのに、背中に感じる八城の熱は気持ちが良い。

「怖かったら、俺の手握ってどうぞ」
「怖いのバレてました?」
「ん、明菜ちゃんは分かりやすい」
「すみません。あの怪物が、結構怖くて」
「迫力あるよね」
「そうなんです。心臓に悪くて」
「なんか、俺と扱い一緒だ」
「あ……」

 ドキドキの質が全く違うものだけれど、それをうまく説明することができなかった。何も言っていないのに、八城の手が、膝の上に置いていた私の指先を握ってくる。

「じゃあ、俺が握っとけば、明菜ちゃんの心臓はずっと俺にどきどきしてくれるんですか」
「それは、もう」
「もう?」
「すでに大変です」
「あはは。たいへんだ」
「大変なんです」
「あ、明菜ちゃんの苦手な奴出てくるよ」
「ええ、何で先に言うんですか」
「心構え?」
「逆に心臓に悪い」

 毎週金曜日、私たちはお互いの部屋でこうして二人で過ごしている。手を繋いで、ぴったりと身体を寄せ合って、恋人のような時間を過ごす。

 ――けれど実のところ、八城春海は、私の交際相手ではない。
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