不埒に溺惑

藤川巴/智江千佳子

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STEP 12 「俺以外、全部忘れていい」

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「もう、裸見られんの、慣れてきた?」
「……心臓は、爆発寸前です」
「マジ?」
「すごい、まじです。でも、我慢して、ます」
「明菜も我慢してんの」
「うん、そりゃ、もう」
「あ。真似してんな」

 ちゅう、と音を立ててもう一度唇に触れられる。

 背中に回っていた八城の指先が、優しく肌をなぞって、胸元にたどりつく。感触を確かめるように左胸に触れられて、たまらず抱き着いた。

「やっぱドキドキ言ってんの、わかんねえな」
「いまの、そういう触り方じゃ、なかった、気がします」
「あ、邪なのばれた?」
「……よこしまだったの?」
「あ、やべ」

 茶化した声のトーンと同じくらい甘いキスが、優しく降ってくる。どうしようもなく胸が疼いてとまらない。

 一緒に身体の泡を洗い流して、今度は髪を洗った。私の髪に泡をたくさんつけて遊ぶ八城がおかしくて、二人で笑っていた。八城の髪は硬いから、うまく形にならない。二人で試行錯誤しながら笑って、静かに瞼に焼き付けた。


 一つのシャワーで、くっつきながら髪を洗い流す。シャワーの雨の中で、八城が額にこぼれ落ちた髪を気だるげにあげている姿をじっと見上げた。

 ただ見惚れている私に気づいた八城が、そっと近づいてきて、もう一度私の唇に口づけてから「風呂入るか」と囁いた。あんなにもがちがちに緊張していたのに、今では、八城と向き合ってお風呂に浸かっている。

 この間教えてもらったように手で水鉄砲を作って、あまりにもうまく行かなくて笑ってしまった。

「ぜんぜんうまく行かない」
「明菜」
「きゃっ」

 一生懸命しているのに、呼ばれて顔をあげたら、八城の手に飛ばされたお湯が顔面にぶつかる。私の悲鳴を聞いて、八城が盛大に笑った。むっとして睨みつければ、どうしようもなく優しい顔をされてしまう。

「もう、怒りました」
「お?」

 けらけら笑っている八城に向かって、両手でお湯を掬い上げて飛ばしたら、避けることなく八城がお湯を浴びた。綺麗に整えられていた髪がこぼれ落ちて、ぱらぱらと水滴を落としていく。どんな姿でもかっこいいから、困ってしまった。

「やったな?」
「おかえし、です」
「よし、受けて立つ」
「わ、」

 すこしも怒っていなさそうな人の大きな手にお湯をかけられて、八城と同じように頭から水をかぶってしまった。お互いに水浸しだ。

 笑いながらまた水を掛け合って、バスルームに熱気がこもる。端と端で向かい合っていたはずが、いつの間にか目の前に八城の胸が見える。

 優しい指先に手首を掴まれて、ぷつり、と笑い声が止まった。

「捕まえた」
「あ、」

 不敵な笑みに見えたけれど、確認している暇なんてなかった。腰を抱かれて、ただ八城の思うままに激しく口づけられる。さっきまで一緒に遊んでくれていた人とは思えないような力強い熱で、息が続かなくなりそうになった。

 離れた唇が、唆すように私の下唇を噛んだ。腰を撫でていた指先がお腹に回って、くるくるとお湯の中で皮膚をなぞってくる。

「っ、ん」
「明菜」
「ん、」

 至近距離で、黒い髪からぽたぽたと水滴をこぼす八城が見える。色気をまとった表情に呑み込まれて、とろけてしまいそうになる。

「明菜の話が聞きたい」

 私の髪を撫ぜた人に囁かれて、ぼんやりと口を開く。

「わたし、のですか」
「明菜はあんまり喋ってくれないから」
「喋ってます、たくさん」

 八城の話術の前で、私はいつも浮かれている。たくさん知ってほしくて、たくさん知りたくて、誰といる時よりも饒舌になっているだろう。真剣に囁いたら、八城の目が楽しそうに細められた。唇が薄く開かれる。

「もっと」
「もっと?」
「もっと明菜が知りたい」
「私のこと」

 私のことなら、もう、誰よりも八城が知っている。すべてを暴かれてしまった。今もそうだと思う。こんなに無防備な姿で、男性に抱きしめられていたことなんて一度もない。

「好きな男の話、聞かせてよ」
「ええ? すきな?」
「明菜は誰が好きなの」

 八城の声で、一瞬、バスルームが静まり返った気がした。八城の髪から零れ落ちた水滴がお湯に弾かれる音と、自分の鼓動しか、聞こえない気がする。八城の瞳はまっすぐだった。

 私が好きな人は、ただ一人、八城春海だけだ。

『八城くん、今後も期待している』
『身に余るお言葉です』

 ふいに、耳元で、誰かの声が聞こえた。

 かなしい言葉だった。

 ここで、八城が好きだと言ったら、八城の人生が、ぐちゃぐちゃになる。可哀想だからと私のことを大切にしてくれるかもしれない。今日みたいにたくさん笑わせて、大事にしてくれるだろう。けれど、八城のこころは、私のものではない。そんな日常がつづくくらいなら——。

「は、なおかくん、」
「花岡のどこがいいわけ」

 はじめに吐いた嘘をなぞって口にすれば、八城からすぐに言葉が返ってくる。こころなしか私の腰を掴む指先に力が込められたような気がした。

 眩暈がしそうだ。

「花岡くん、ですか」
「ん」

 すこし前まで笑っていた人とは思えないほど、八城は真面目な顔をしている。すこし不機嫌そうな表情にも見えた。今から八城に抱かれるはずなのに、こんなことを話していいのか分からない。


「好きな、ところは」

 八城の好きなところは、数え上げることもできない。あまりにも多すぎて、考えているうちに、また好きが大きくなってしまう。困り果てて小さく笑ったら、八城が慰めるように優しいキスをくれた。

「……優しくて」
「ん」
「頼れる人で、……お話が上手で、そばに居ると、緊張するのに、安心できて」
「うん」
「尊敬できる人です。……すこしでも、力になれたらいいなって、私が頑張れる、理由です」

 すべて、八城のことだ。

 八城の姿があったから、今の私がいる。口に出すことは出来なくて、静かに笑った。八城は私の目を見て、優しく頬を撫でてくれる。慰めるような、熱を移すような指先だった。

「そんなに好きなんだ」
「は、い」
「忘れてえの」
「え?」
「花岡のこと」

 八城を忘れることができるなんて、すこしも思えない。けれど、私の想いは、八城には邪魔でしかないだろう。今日、八城に抱いてもらう。そうしたら、全部が終わりだ。

「そ、う、です、ね」

 猛烈なくるしみで、声が突っかかってしまった。私の答えを聞いた八城が、優しい両腕で、体温を確かめるように真正面から抱きしめてくれる。

「はる、」
「わかった」

 八城春海は、優しい人だ。

「忘れさせる。何もかも。全部。――俺以外、全部忘れていい」

 残酷だと思ってしまうくらい、優しい。何も言えずにしがみついたら、優しく私を抱きしめていた腕に抱き起されて、バスルームから脱衣所に連れられた。

 移り変わる景色に吃驚して、ただじっとしがみついていれば、優しい仕草で地面に下ろされる。

「やし、」
「名前で、呼んで」
「はる、うみ、さん」
「ん」

 ラックからバスタオルを引っ掴んで取り出した八城が、私の頭に優しくかけてくれる。すこしだけ乱暴に髪の水気を取った八城が私の身体にタオルを巻き付けて、タオルごともう一度私の身体を抱き上げた。

「はるうみさん、身体、拭かなきゃ」
「我慢できねえわ」
「きゃ、」

 慌てているうちに一度も入ったことのない部屋に押し込まれて、柔らかいリネンのうえに転がされた。
「明菜」

 暗い部屋で八城の手が私の肩を押して、身体に乗り上げてくる。薄らと見える八城が、簡単に私の唇を探し当てて、深く口づけてくる。ただ翻弄されているうちに、手を伸ばした八城がベッドサイドランプに光を灯した。

「あ、」

 暗がりに見える八城は、私の上に乗り上げて、まっすぐに私の瞳を見下ろしていた。昼に見る快活で爽やかな瞳ではない。

「明菜」

 私を見つめる八城の瞳は、欲に溺れた男の人みたいなどろどろの熱を孕んでいた。

 お風呂で触れられたものと同じ手なのに、どこまでも熱い指先に熱を移されて、暑さに喘いでいる。

「んん、ぅ、あ、つ……い」
「ん」
「やし、ろさ」
「なまえ」
「んんっ、あっ、」

 全身に触れると言った通り、八城の唇が身体中に触れる。

 爪先から、肩も、お腹も、太ももも、全部に口づけられて、ぐずぐずにとろけてしまう。訳も分からずに縋りついたら、熱を持った八城の手に身体を抱き起された。

「ん、は、る、……、はる」
「ん」
「もう……、ど、したら、いいか」

 何もできずに、ただ熱に溺れている。私が必死に訴えかけている間にも八城は熱心に首筋に口づけて、燃えそうな背中を撫でては、私の身体を後ろから抱き直した。

 今度は丁寧に私の背中の皮膚に口付けて、愛でてくる。

「ん、」
「ずっと見ていてくれればいい」

 私の身体中に八城の熱を覚え込ませてくる。何度も根気強く触れて、八城の唇の温度を刷り込んでいるようだった。

 マーキングと言われていたことをはっきりと思いだした。自覚できる。こんなにも愛されたら、もう、すべてが八城のものだ。
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