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7 憎悪
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ルーカスは侯爵家で書生として働きながら、学園に通っていた。空いた時間はわずかだったが、彼はそのほとんどを創作活動に費やしていた。
ヘイウッド家の人々や、共に働く使用人たちは、ルーカスの作品と人柄に魅せられ、家族のように温かく支えてくれていた。ルーカスの周囲には好意的な空気が満ちていた。
ただ一人──マーガレットの婚約者であるミハエルだけが、その例外だった。
ミハエルは、マーガレットの傍にルーカスがいることが気に入らなかった。侯爵に直談判してまで、彼女がルーカスのパトロンとなった経緯も、気に食わなかった。
14歳で婚約してから2年。16歳となった2人は、今年デビュタントを控えていた。18歳での正式な結婚も既に決まっている。
それまでの交流は、週に一度のお茶会や手紙のやり取りが中心だった。学園内では、それぞれの友人もいたため、会えば挨拶を交わしたり、時折昼食を共にする程度で、それほど頻繁に接していたわけではなかった。
週に一度のお茶会で、マーガレットは常に淑女の微笑を絶やさず、完璧な礼儀作法で接した。会話も型通りで、まるで感情を排した儀式のようだった。
ミハエルは、美しい婚約者に夢中であるがゆえに、その瞳に自分への熱情が一切宿っていないことを、痛いほど自覚していた。けれど──「いずれ結婚すれば、自分を見てくれるはずだ」と希望を抱き続けていた。
ある日のこと。
マーガレットとのお茶会にミハエルは約束の時間よりも早く、ヘイウッド家に到着してしまった。先触れは出していたものの、予定よりかなり早い訪問であった。
執事は客間に案内しようとしたが、ミハエルはそれを断り、庭園を散策することにした。
庭の入り口には、侯爵家自慢のバラ園が広がり、見事に咲き誇っていた。
(我が家にも引けを取らぬ広さだ。手入れも見事だな)
感心しながら庭を奥へ進むと、東屋が目に入った。そして──そこに誰かの姿があった。
キャンバスを広げ、熱心に絵筆を走らせている。横顔だけでも、少年の美しさがひと目で分かる。
(……あれが、噂のルーカスか)
ミハエルとルーカスは直接の面識はなかった。彼にとってルーカスは「侯爵家が拾った平民の使用人」であり、学園でも学科が違うため、接点はない。ルーカスは美術科、ミハエルは普通科だった。
絵に集中するその姿に、ふと興味を引かれたミハエルだったが──キャンバスの向こうに見えたのは、自身の婚約者、マーガレットだった。
彼女は椅子に腰かけ、ルーカスとテーブルを挟んで向かい合っていた。どうやら、ルーカスは彼女をモデルに絵を描いているらしい。
会話は交わしておらず、マーガレットの侍女と護衛が控えており、2人きりというわけではなかった。
だが──ミハエルの目には、2人だけの世界に見えた。
自分と会う時のマーガレットは常に仮面のような笑みだったというのに、今はどうだ。
頬をほんのり染め、ルーカスをじっと見つめている。無表情を装ってはいるが、その視線には熱がこもっていた。まるで──恋する少女のような顔。
(……そんな馬鹿な)
足が地面に縫い付けられたように動かない。ショックで、全身の血が逆流するのを感じた。
ルーカスは横顔だけだったが、確かに彼もまた、マーガレットを真っすぐ見つめていた。
(……学園でも評判の、あのルーカス)
絵の才能に恵まれ、容姿にも恵まれ、ただ出自だけが恵まれなかった孤児院出身の平民──その存在に、ミハエルは自分でも驚くほど強い嫉妬を覚えた。
(俺は、この国でも屈指の公爵家の嫡男だぞ。なぜ、こんな平民に──)
強く握りしめた両の掌に、痛みが走る。気づけば、爪が食い込み、手のひらに血が滲んでいた。
その痛みがきっかけで、硬直していた身体がようやく動き出す。フラフラと、東屋を背にしながら庭を後にした。
胸の奥にこみ上げる、どうしようもない激情。歪んだ顔を必死に押し隠しながら、ミハエルは家令に「体調がすぐれない」と告げ、そのままマーガレットに会わずに帰った。
馬車に揺られながら、2人の姿が脳裏に焼きついて離れない。
激しい嫉妬が、次第にルーカスへの憎しみへと変わっていった──。
***
翌日。
「ミハエル様」
学園の廊下で、マーガレットに呼び止められた。
「体調はいかがですか?」
学園内でマーガレットから声をかけてくることは珍しい。ミハエルは一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐに笑みを作って答えた。
「……ああ。昨日はすまなかったね」
「当家にいらしてから、具合が悪くなったと伺いました」
「寝不足だっただけだ。もう平気さ」
「そうですか……せっかくいらしてくださったのに、至らぬ対応となり申し訳ありませんでした」
「……君が気にすることではないよ」
マーガレットの気遣いが、かえって胸に突き刺さる。丁寧で優しい言葉なのに、そこに感情はなかった。どこか機械的で、まるで業務連絡のようだった。
──あの瞳は、ルーカスを見ていたときとはまるで違う。
これまでも、ずっとこうだったのだ。
だが、ルーカスを見つめるあの眼差しを知ってしまった今、もう知らなかった頃には戻れない。
気づいてしまったからこそ、ミハエルの心には、燃えるような憎悪が渦巻いていた。
ヘイウッド家の人々や、共に働く使用人たちは、ルーカスの作品と人柄に魅せられ、家族のように温かく支えてくれていた。ルーカスの周囲には好意的な空気が満ちていた。
ただ一人──マーガレットの婚約者であるミハエルだけが、その例外だった。
ミハエルは、マーガレットの傍にルーカスがいることが気に入らなかった。侯爵に直談判してまで、彼女がルーカスのパトロンとなった経緯も、気に食わなかった。
14歳で婚約してから2年。16歳となった2人は、今年デビュタントを控えていた。18歳での正式な結婚も既に決まっている。
それまでの交流は、週に一度のお茶会や手紙のやり取りが中心だった。学園内では、それぞれの友人もいたため、会えば挨拶を交わしたり、時折昼食を共にする程度で、それほど頻繁に接していたわけではなかった。
週に一度のお茶会で、マーガレットは常に淑女の微笑を絶やさず、完璧な礼儀作法で接した。会話も型通りで、まるで感情を排した儀式のようだった。
ミハエルは、美しい婚約者に夢中であるがゆえに、その瞳に自分への熱情が一切宿っていないことを、痛いほど自覚していた。けれど──「いずれ結婚すれば、自分を見てくれるはずだ」と希望を抱き続けていた。
ある日のこと。
マーガレットとのお茶会にミハエルは約束の時間よりも早く、ヘイウッド家に到着してしまった。先触れは出していたものの、予定よりかなり早い訪問であった。
執事は客間に案内しようとしたが、ミハエルはそれを断り、庭園を散策することにした。
庭の入り口には、侯爵家自慢のバラ園が広がり、見事に咲き誇っていた。
(我が家にも引けを取らぬ広さだ。手入れも見事だな)
感心しながら庭を奥へ進むと、東屋が目に入った。そして──そこに誰かの姿があった。
キャンバスを広げ、熱心に絵筆を走らせている。横顔だけでも、少年の美しさがひと目で分かる。
(……あれが、噂のルーカスか)
ミハエルとルーカスは直接の面識はなかった。彼にとってルーカスは「侯爵家が拾った平民の使用人」であり、学園でも学科が違うため、接点はない。ルーカスは美術科、ミハエルは普通科だった。
絵に集中するその姿に、ふと興味を引かれたミハエルだったが──キャンバスの向こうに見えたのは、自身の婚約者、マーガレットだった。
彼女は椅子に腰かけ、ルーカスとテーブルを挟んで向かい合っていた。どうやら、ルーカスは彼女をモデルに絵を描いているらしい。
会話は交わしておらず、マーガレットの侍女と護衛が控えており、2人きりというわけではなかった。
だが──ミハエルの目には、2人だけの世界に見えた。
自分と会う時のマーガレットは常に仮面のような笑みだったというのに、今はどうだ。
頬をほんのり染め、ルーカスをじっと見つめている。無表情を装ってはいるが、その視線には熱がこもっていた。まるで──恋する少女のような顔。
(……そんな馬鹿な)
足が地面に縫い付けられたように動かない。ショックで、全身の血が逆流するのを感じた。
ルーカスは横顔だけだったが、確かに彼もまた、マーガレットを真っすぐ見つめていた。
(……学園でも評判の、あのルーカス)
絵の才能に恵まれ、容姿にも恵まれ、ただ出自だけが恵まれなかった孤児院出身の平民──その存在に、ミハエルは自分でも驚くほど強い嫉妬を覚えた。
(俺は、この国でも屈指の公爵家の嫡男だぞ。なぜ、こんな平民に──)
強く握りしめた両の掌に、痛みが走る。気づけば、爪が食い込み、手のひらに血が滲んでいた。
その痛みがきっかけで、硬直していた身体がようやく動き出す。フラフラと、東屋を背にしながら庭を後にした。
胸の奥にこみ上げる、どうしようもない激情。歪んだ顔を必死に押し隠しながら、ミハエルは家令に「体調がすぐれない」と告げ、そのままマーガレットに会わずに帰った。
馬車に揺られながら、2人の姿が脳裏に焼きついて離れない。
激しい嫉妬が、次第にルーカスへの憎しみへと変わっていった──。
***
翌日。
「ミハエル様」
学園の廊下で、マーガレットに呼び止められた。
「体調はいかがですか?」
学園内でマーガレットから声をかけてくることは珍しい。ミハエルは一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐに笑みを作って答えた。
「……ああ。昨日はすまなかったね」
「当家にいらしてから、具合が悪くなったと伺いました」
「寝不足だっただけだ。もう平気さ」
「そうですか……せっかくいらしてくださったのに、至らぬ対応となり申し訳ありませんでした」
「……君が気にすることではないよ」
マーガレットの気遣いが、かえって胸に突き刺さる。丁寧で優しい言葉なのに、そこに感情はなかった。どこか機械的で、まるで業務連絡のようだった。
──あの瞳は、ルーカスを見ていたときとはまるで違う。
これまでも、ずっとこうだったのだ。
だが、ルーカスを見つめるあの眼差しを知ってしまった今、もう知らなかった頃には戻れない。
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