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31 冷たい雨
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夜が明けた。二人は、それぞれの場所で“いつも通り”の日常を演じた。
アリシアは商会での仕事をこなし、笑顔で「お疲れさま」と言ってハンナと別れた。ルーカスも、倉庫番としての最後の務めを果たしてから、ひっそりと屋敷を後にする。
──そして、夕刻。
待ち合わせの時計台。人の往来が多い時間をあえて選び、目立たぬように紛れ込むようにして。
大きな針が午後六時を指したとき。
アリシアは、小さな鞄を肩にかけて、寮を後にし、時計台に向けて出発をした。
その目には、強い決意と、消しきれない不安と、そして──愛する人への信頼が宿っていた。
~~~~~~~~~~~~
港町の時計台が見える坂道を、アメリアは息を荒くしながら駆けていた。
片手には小さな鞄。夜明け前、まだ真っ暗な時間から馬車を乗り継ぎ、つい先ほど目的地近くで降りたばかりだった。
(――あと少し……!)
石畳の坂道は、穏やかな傾斜だった。手入れの行き届いた道は、薄底の靴でも難なく歩けるはずだったが、彼女はもう歩くことすらもどかしく、まるで追い立てられるように足を速めていた。
冷たい風がコートの裾をあおり、肌を刺すような寒気が容赦なく吹きつけてくる。けれど、その痛みに気を取られる余裕はなかった。
(ルーカス、もう着いてるよね……)
時計台での待ち合わせの時刻は、すでに過ぎている。
彼なら、早めに来ているはず。そう信じて疑わなかった。無頓着で、自分のことを後回しにするような人だから、きっと寒さをものともせず、じっと待っていてくれている。そうに違いない。
(……右手、痛くなってないといいけど)
古傷が、寒さで疼いているかもしれない。
心配になって、アメリアはポケットから手袋を取り出す。彼のために持ってきた、自分の手袋。
(どうせ、持ってないだろうから……私のを使ってくれたらいい)
でも、彼はきっと遠慮する。そう思うと、胸の奥がくすぐったく、苦しくなる。
そんな些細なことを考えて、アメリアは一瞬だけ唇をゆるめた。
彼女にとって、ルーカスは――何にも代えがたい存在だった。
貴族の令嬢ではない自分。物欲もなければ、執着するものもなかった。
けれど、たった一つだけ、どうしても欲しいと願ったものがある。
――それが、ルーカスだった。
たとえ彼の心に、他の誰かの面影があったとしても。
彼が「一緒に行こう」と言ってくれた、その言葉だけで、アメリアはどれだけ救われたか知れない。
ただ、隣にいられればよかった。一緒に歩ければ、それだけでよかった。
彼の傷も、過去も、痛みも――全部まるごと抱えて生きていこうと、そう決めた。
その覚悟を胸に、彼女はこの場所に来た。
そして――その瞬間、冷たいものが頬を打った。ぽつり、ひとしずく。
空から落ちてきた雨だった。まだ小雨。けれど、その冷たさが、胸の奥をそっと湿らせる。
(お願い……本降りにならないで)
祈るように、最後のカーブを駆け抜ける。
そこにあるはずの、懐かしい姿を信じて――。
(……あれ?)
視界の先に、目的の時計台が見えた。けれど、そこにあるべきはずの姿が――なかった。
広場は静まり返っていた。人影が、ない。
(どうして……?)
心臓が、ひときわ大きく脈打つ。
走りながら荒れていた呼吸とは違う、別の苦しさが胸を締めつけた。
一歩、また一歩。近づくほどに、現実が冷たく迫ってくる。
「……ルーカス?」
誰に届くでもない声が、雨音にかき消された。
辺りを見回しても、あの人の姿はどこにもない。
(遅れてるだけ、そう。きっとそう……!)
必死にそう思い込もうとする。けれど、時計台の針は、無情にも時を示していた。
もうとっくに、待ち合わせの時間は過ぎている。
(迷った? 馬車が遅れた? それとも……)
胸の奥が、じわじわと冷たくなっていく。
(――まさか、何かあったの?)
考えたくない。でも、どうしても頭をよぎってしまう。
悪い予感が、しんしんと降り積もる雨のように、静かに心を侵していく。
(そんなはず、ない。絶対に来るって……言ってたじゃない)
信じていた。いや、信じたかっただけかもしれない。
涙ではないはずの雫が、頬を伝った。
冷たい雨なのか、自分の体温が失われているのか、もうわからなかった。
(早く来てよ、ルーカス……お願いだから、ここにいて)
でも――どれだけ祈っても、ルーカスは現れない。
雨は静かに、その事実だけを告げていた。
アメリアは、声もなくその場に立ち尽くした。
薄暗い空の下で、ただひとり。冷たい風と雨に打たれながら。
アリシアは商会での仕事をこなし、笑顔で「お疲れさま」と言ってハンナと別れた。ルーカスも、倉庫番としての最後の務めを果たしてから、ひっそりと屋敷を後にする。
──そして、夕刻。
待ち合わせの時計台。人の往来が多い時間をあえて選び、目立たぬように紛れ込むようにして。
大きな針が午後六時を指したとき。
アリシアは、小さな鞄を肩にかけて、寮を後にし、時計台に向けて出発をした。
その目には、強い決意と、消しきれない不安と、そして──愛する人への信頼が宿っていた。
~~~~~~~~~~~~
港町の時計台が見える坂道を、アメリアは息を荒くしながら駆けていた。
片手には小さな鞄。夜明け前、まだ真っ暗な時間から馬車を乗り継ぎ、つい先ほど目的地近くで降りたばかりだった。
(――あと少し……!)
石畳の坂道は、穏やかな傾斜だった。手入れの行き届いた道は、薄底の靴でも難なく歩けるはずだったが、彼女はもう歩くことすらもどかしく、まるで追い立てられるように足を速めていた。
冷たい風がコートの裾をあおり、肌を刺すような寒気が容赦なく吹きつけてくる。けれど、その痛みに気を取られる余裕はなかった。
(ルーカス、もう着いてるよね……)
時計台での待ち合わせの時刻は、すでに過ぎている。
彼なら、早めに来ているはず。そう信じて疑わなかった。無頓着で、自分のことを後回しにするような人だから、きっと寒さをものともせず、じっと待っていてくれている。そうに違いない。
(……右手、痛くなってないといいけど)
古傷が、寒さで疼いているかもしれない。
心配になって、アメリアはポケットから手袋を取り出す。彼のために持ってきた、自分の手袋。
(どうせ、持ってないだろうから……私のを使ってくれたらいい)
でも、彼はきっと遠慮する。そう思うと、胸の奥がくすぐったく、苦しくなる。
そんな些細なことを考えて、アメリアは一瞬だけ唇をゆるめた。
彼女にとって、ルーカスは――何にも代えがたい存在だった。
貴族の令嬢ではない自分。物欲もなければ、執着するものもなかった。
けれど、たった一つだけ、どうしても欲しいと願ったものがある。
――それが、ルーカスだった。
たとえ彼の心に、他の誰かの面影があったとしても。
彼が「一緒に行こう」と言ってくれた、その言葉だけで、アメリアはどれだけ救われたか知れない。
ただ、隣にいられればよかった。一緒に歩ければ、それだけでよかった。
彼の傷も、過去も、痛みも――全部まるごと抱えて生きていこうと、そう決めた。
その覚悟を胸に、彼女はこの場所に来た。
そして――その瞬間、冷たいものが頬を打った。ぽつり、ひとしずく。
空から落ちてきた雨だった。まだ小雨。けれど、その冷たさが、胸の奥をそっと湿らせる。
(お願い……本降りにならないで)
祈るように、最後のカーブを駆け抜ける。
そこにあるはずの、懐かしい姿を信じて――。
(……あれ?)
視界の先に、目的の時計台が見えた。けれど、そこにあるべきはずの姿が――なかった。
広場は静まり返っていた。人影が、ない。
(どうして……?)
心臓が、ひときわ大きく脈打つ。
走りながら荒れていた呼吸とは違う、別の苦しさが胸を締めつけた。
一歩、また一歩。近づくほどに、現実が冷たく迫ってくる。
「……ルーカス?」
誰に届くでもない声が、雨音にかき消された。
辺りを見回しても、あの人の姿はどこにもない。
(遅れてるだけ、そう。きっとそう……!)
必死にそう思い込もうとする。けれど、時計台の針は、無情にも時を示していた。
もうとっくに、待ち合わせの時間は過ぎている。
(迷った? 馬車が遅れた? それとも……)
胸の奥が、じわじわと冷たくなっていく。
(――まさか、何かあったの?)
考えたくない。でも、どうしても頭をよぎってしまう。
悪い予感が、しんしんと降り積もる雨のように、静かに心を侵していく。
(そんなはず、ない。絶対に来るって……言ってたじゃない)
信じていた。いや、信じたかっただけかもしれない。
涙ではないはずの雫が、頬を伝った。
冷たい雨なのか、自分の体温が失われているのか、もうわからなかった。
(早く来てよ、ルーカス……お願いだから、ここにいて)
でも――どれだけ祈っても、ルーカスは現れない。
雨は静かに、その事実だけを告げていた。
アメリアは、声もなくその場に立ち尽くした。
薄暗い空の下で、ただひとり。冷たい風と雨に打たれながら。
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