【完結】時計台の約束

とっくり

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30 密かな決意

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 夜も更けたある晩、アリシアは再びルーカスの部屋にいた。

 一度は「一緒に暮らそう」という提案を保留にした彼女だったが、あまりに続く不穏な気配と、怖い思いをしたことが決定打となった。心の奥に残る不安をぬぐいきれず、気づけば彼の元へ避難していたのだった。

 夕食も喉を通らず、ただソファで肩を寄せ合っていた二人。静寂の中、またしても部屋の外をかすめる気配があった。

窓辺に立ったルーカスが、低く呟く。

「……今夜も、いた」

アリシアは息を呑む。

「間違いない。張り付かれてる。家を知られてる以上、いつ何をされてもおかしくない」

彼の声は静かだったが、張り詰めた緊張がにじんでいた。アリシアの手を握る彼の指先は、小さく震えている。

「ルーカス……私、もうこれ以上、周りの人に迷惑をかけたくないの。会長にまで、あんな……」

 彼女が勤める商会には、ここ数日、嫌がらせのような嫌味な書状や無言電話が届き始めていた。誰がやっているかは明らかだが、証拠はない。アリシアはそれを「自分のせいだ」と自責し、押し潰されそうになっていた。

ルーカスは目を細め、そっと頷く。

「……僕もだ。君の無事が保証されない場所で、普通に暮らすなんて、もう無理だ。誰かに頼っても、法にすがっても、あいつの手はすり抜けてくる」

 アリシアは、これまでに味わった恐怖を思い返した。寮の扉に刻まれた傷、壊された私物、匿名の怪文書。そして、あの夜道で掴まれた冷たい腕の感触──。

「逃げるって……こと?」

ルーカスは、真っ直ぐに彼女を見つめた。

「この街を出よう。名前も、過去も、全部捨てて……新しい場所で、やり直すんだ」

それは駆け落ちの提案だった。

 アリシアは目を伏せ、唇を噛む。逃げることは、負けることだと思っていた。ずっと、そう教えられてきた。でも──

「……そうね。もうここじゃ生きていけない。どこまで行っても、ミハエルの影に怯えながら暮らすのは……限界」

彼女の瞳から、ひとすじ涙がこぼれた。ルーカスはその頬をそっと撫で、静かに抱きしめる。

「僕は、君と一緒にいられればそれでいい。だから、どこへでも行こう。今度は、君を絶対に守る」

アリシアは、彼の胸に顔を埋めて頷いた。

「……ありがとう、ルーカス。私、あなたと一緒なら……きっと、大丈夫」

──そうして二人は、密かに決意を交わした。

 明日からは、普通の日常を装いながら準備を進める。誰にも告げず、ただ二人きりで、生き延びるために。

計画はこうだった。
お互いに、夜中に馬車を乗り継ぎ、街から離れた丘の上の時計台の前で──港が見えるその場所で合流する。
そこで再会できたら、港へ向かい、船に乗ってさらに遠い土地へ逃れる。追手の目を欺くために、昼間は別々に行動し、何食わぬ顔で日常を演じる必要があった。


~~~~~~~~~~~


 その夜、アリシアの部屋には小さな灯りが灯っていた。


 表向きはいつも通り。だが心は千々に乱れていた。荷物は最低限。愛用のノート、万年筆、そしてハンナにもらった髪飾り──全部は持っていけなかった。けれど何かを残さなければ、本当に“消える”ことなどできない気がしていた。

鏡の前に立ち、深く息をつく。

(明日から、違う名前で、違う場所で生きていくんだ)

 それは新しい人生の始まりでもあり、大切な人たちとの別れを意味する。
そして、もう一つ──彼の過去との距離を受け入れることでもあった。

 ルーカスの心のどこかには、今もマーガレットがいる。忘れられるはずがない。忘れてほしいとも、思っていない。ただ、彼の目が今、まっすぐに自分を見ていることだけは、確かにわかっていた。

(あの人が過去を抱えたままでも、私は、これからの時間を生きていける。私が愛していれば、それでいい)

アリシアは静かに頷いた。

(ずっとそばにいられたら、いつか──いつか、彼の未来になれるかもしれないから)

そして、涙をひとすじだけぬぐって、鞄の口を閉じた。



~~~~~~~~~~~

  

 同じ頃、ルーカスも静かに準備をしていた。

 引き出しから革袋を取り出し、中の硬貨を確かめる。右手は完全には治らず、もう本当の意味で絵を描くことはできないかもしれない。だが、それでも。

「アリシアと共に生きていく」

 つぶやくように呟いたその声には、切実な決意がにじんでいた。

 右手が不自由になり、画家としての未来が奪われた彼は、もはや夢にしがみついてはいなかった。
 今はただ、彼女の無事を願い、共に生きる未来を選びたいと心から思っていた。

 そんなとき、ふと脳裏をよぎったのは――マーガレットの面影だった。

 貴族の令嬢として凛とした気高さをまといながらも、時折見せるあの優しい眼差し。
 彼が絵筆を握っていたころ、モデルとして何度も向き合ったその横顔。
 交わした言葉は多くなかったが、互いに踏み込めぬ距離の中で、どこか淡く胸に残る感情があった。

(もし違う世界に生まれていたなら……)

 ほんの一瞬、そんな思いがよぎる。
 けれど、それはもう、手を伸ばすことすら許されない幻想だ。

 マーガレットは、彼の人生とは別の場所に生きる人。
 ルーカス自身もまた、過去のままではいられない。
 右手が不自由になり、夢を手放し、何もかもを見失いかけた彼を、アリシアだけが見てくれていた。

 恐れや傷を隠さずにいても、そばにいてくれる存在。
 心の暗闇に差す、確かな灯火。

(俺が守りたいのは、彼女だ)

 そう思った瞬間、ルーカスの表情に迷いはなかった。

 いつか、家族を持てたら。
 アリシアと二人で、生まれてくる命を守っていけたなら。
 あたたかい家と、小さな笑い声の満ちる暮らし。
 そんな未来を想像するたびに、彼の胸には、今までにない静かな熱が灯った。

 マーガレットへの想いは、記憶の奥に静かに沈めよう。
 それは過去のこと。
 今、自分が選ぶのは――これからの人生だ。
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