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32 時計台の約束
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その頃、まだ夜の名残を残す路地裏。
ルーカスはフードを深く被り、濡れた石畳を踏みしめながら、アリシアの待つ時計台を目指して、足早に歩いていた。
(もうすぐだ……アリシア。あと少し)
息を切らしながら、まっすぐ前を向いて歩く。もう迷わない。彼女と――未来を生きていく。
雨に煙る街の輪郭が、少しずつ明け方の光ににじんでいく。
その中に、見覚えのある屋根が見えた。
(あの坂を上れば――時計台だ)
そのときだった。
背後に、明らかな“意志”を持つ気配。
足音を忍ばせながらも、確かにこちらに向かってくる――。
ルーカスは咄嗟に振り返った。だが、その刹那。
「っ……!?」
硬い何かが背中に激突した。
呼吸が詰まり、視界が揺れる。
膝が崩れ、雨に濡れた石畳が乱反射する。
そこへ、轟音。
荷車の車輪が、唸りを上げて目の前を横切った。
身体が浮き、空中で時が止まったような感覚。
世界が無音になり、ただひとつ、アリシアの名が心を突き破った。
「ア……リ……シア・・・」
(ーー時計台の前で・・・)
(や……くそく…)
唇が動いたそのときには、もう意識の淵に沈んでいた。
冷たい石畳に叩きつけられた身体。
雨粒が無数に降り注ぎ、血に混じって流れていく。それはまるで、彼の最後の痕跡を押し流すかのようだった。
しばらくの沈黙のあと、細い路地の奥に黒い影が差す。闇に紛れるように現れた二つの人影は、濡れた石畳を踏みしめ、音もなく近づいてきた。
「……確認しろ」
一人が小さく言い、もう一人がしゃがみ込んで動かぬ身体を確かめる。胸に手を当て、目元を覗き込み、浅く息を吐いた。
「終わってる」
「馬車を寄せろ。長居は無用だ」
指示を受けた男が、狭い道に無理やり入ってきた粗末な馬車に合図を送る。
帆布のかけられた荷台は、血を吸わないように敷かれた古びた麻袋がいくつも重ねられていた。
手際は慣れていた。
まるで人ではなく“物”を扱うかのように、彼らは躊躇いもなく、ルーカスの身体を抱え上げる。
「……チッ、濡れてやがる。跡が残るかもな」
「気にするな。どうせ捨てるんだ。人目にさえ触れなきゃそれでいい」
ごとり、と音を立てて遺体が荷台に積まれる。
雨の音が、その音をすぐに飲み込んだ。
そのとき、一人の男――まだ若い手下が、ふとルーカスの胸元に目を留めた。
ずぶ濡れになった上着の内側に、微かに金属の光が覗いていた。
(……これは)
手を伸ばして拾い上げる。
それは、蓋の壊れた古い懐中時計だった。指先に重く冷たい。
「……何をしてる」
仲間の声に、男は肩を揺らしつつ、背を向けて小さく言った。
「いや……何でもない。落ちただけだ」
その手に握られた懐中時計を、そっと懐へと押し込む。それがこのまま捨てられることだけは、どうしても看過できなかった。
馬車は再び軋みを上げながら動き出す。
その車輪は、彼の血を薄く広げながら、雨に流される道をゆっくりと走っていく。
あとに残ったのは、雨に濡れた石畳だけ。彼がいたことを証明するものは、もうどこにもなかった。
~~~~~~~~~~~~
――任務を終えた直後の夜。ミハエルの私室。
雨に濡れたコートのまま、手下の男は無言で室内へと足を踏み入れた。薄暗い部屋の奥で、ミハエルは酒のグラスを傾けていた。
「終わりました」
男が短く報告すると、ミハエルはちらりともこちらを見ず、窓の外に目を向けたまま口を開く。
「そうか。実に愉快な朝だったな」
グラスの中で赤い液体が静かに揺れる。その表情は、まるで一匹の虫が踏み潰されたことに満足する子供のようだった。
「で? 事故に見えたか?」
「誰も気づいていません。路地裏で、馬車に轢かれたという形で処理しました」
「くだらん夢を見る平民に相応しい最期だ」
ミハエルはふふんと鼻で笑うと、デスクの引き出しから小さな革袋を取り出した。
「報酬だ」
その言葉と同時に、袋が男の足元へと無造作に投げつけられた。
――床に落ちた音が、妙に大きく響く。
中に入っているのは、一般の労働者が何ヶ月働いても手にできないような金額だった。
だが男の瞳に映ったのは、金ではない。あくまで、それを“拾わせる”意図で床に放った、この男の態度だった。
ゆっくりとしゃがみ込み、革袋を拾い上げる。濡れた手のひらで握った瞬間、ミハエルの声が鋭く突き刺さった。
「平民一人を始末して得た金だ。……お前らのようなクズが、何年駆けずり回っても届かない額だ。ありがたく思えよ」
男のこめかみに、静かな怒りが浮かぶ。
ミハエルはその表情を楽しむように、わざと椅子から身を乗り出した。
「なあ、どんな気分だ? 平民が、同じ平民を殺すってのは。自分の境遇を守るために、同類を犠牲にする。滑稽だろう? 哀れだと思わないか?」
言葉の一つ一つが、まるで針のように男の胸を刺す。
それでも、男は何も言わず、金の袋を握りしめたまま立ち上がる。押し殺した感情が、かすかに震える唇の端に滲んでいた。
「……失礼します」
「おい」
背を向けた男に、ミハエルがにやりと笑って呼び止める。
「虫ケラが怒りを抱いたところで、踏み潰される運命に変わりはない。……忘れるなよ」
男は振り返らない。だが、扉の前で一度だけ、拳をぎゅっと握りしめた。
その手には、濡れた金の袋。
――ルーカスの命の価値として投げ捨てられた、穢れた金。
静かに扉が閉まり、部屋に再び静寂が戻る。
ミハエルは満足そうに笑い、グラスを傾けた。まるで、自分がすべてを手中に収めたと信じて疑わない支配者のように。
だが気づいていなかった。
その金が、男の中に深く――消えぬ怒りと疑念の火を灯したことを。
それが、やがて自らを地に引きずり下ろす裏切りの火種になることも。
ルーカスはフードを深く被り、濡れた石畳を踏みしめながら、アリシアの待つ時計台を目指して、足早に歩いていた。
(もうすぐだ……アリシア。あと少し)
息を切らしながら、まっすぐ前を向いて歩く。もう迷わない。彼女と――未来を生きていく。
雨に煙る街の輪郭が、少しずつ明け方の光ににじんでいく。
その中に、見覚えのある屋根が見えた。
(あの坂を上れば――時計台だ)
そのときだった。
背後に、明らかな“意志”を持つ気配。
足音を忍ばせながらも、確かにこちらに向かってくる――。
ルーカスは咄嗟に振り返った。だが、その刹那。
「っ……!?」
硬い何かが背中に激突した。
呼吸が詰まり、視界が揺れる。
膝が崩れ、雨に濡れた石畳が乱反射する。
そこへ、轟音。
荷車の車輪が、唸りを上げて目の前を横切った。
身体が浮き、空中で時が止まったような感覚。
世界が無音になり、ただひとつ、アリシアの名が心を突き破った。
「ア……リ……シア・・・」
(ーー時計台の前で・・・)
(や……くそく…)
唇が動いたそのときには、もう意識の淵に沈んでいた。
冷たい石畳に叩きつけられた身体。
雨粒が無数に降り注ぎ、血に混じって流れていく。それはまるで、彼の最後の痕跡を押し流すかのようだった。
しばらくの沈黙のあと、細い路地の奥に黒い影が差す。闇に紛れるように現れた二つの人影は、濡れた石畳を踏みしめ、音もなく近づいてきた。
「……確認しろ」
一人が小さく言い、もう一人がしゃがみ込んで動かぬ身体を確かめる。胸に手を当て、目元を覗き込み、浅く息を吐いた。
「終わってる」
「馬車を寄せろ。長居は無用だ」
指示を受けた男が、狭い道に無理やり入ってきた粗末な馬車に合図を送る。
帆布のかけられた荷台は、血を吸わないように敷かれた古びた麻袋がいくつも重ねられていた。
手際は慣れていた。
まるで人ではなく“物”を扱うかのように、彼らは躊躇いもなく、ルーカスの身体を抱え上げる。
「……チッ、濡れてやがる。跡が残るかもな」
「気にするな。どうせ捨てるんだ。人目にさえ触れなきゃそれでいい」
ごとり、と音を立てて遺体が荷台に積まれる。
雨の音が、その音をすぐに飲み込んだ。
そのとき、一人の男――まだ若い手下が、ふとルーカスの胸元に目を留めた。
ずぶ濡れになった上着の内側に、微かに金属の光が覗いていた。
(……これは)
手を伸ばして拾い上げる。
それは、蓋の壊れた古い懐中時計だった。指先に重く冷たい。
「……何をしてる」
仲間の声に、男は肩を揺らしつつ、背を向けて小さく言った。
「いや……何でもない。落ちただけだ」
その手に握られた懐中時計を、そっと懐へと押し込む。それがこのまま捨てられることだけは、どうしても看過できなかった。
馬車は再び軋みを上げながら動き出す。
その車輪は、彼の血を薄く広げながら、雨に流される道をゆっくりと走っていく。
あとに残ったのは、雨に濡れた石畳だけ。彼がいたことを証明するものは、もうどこにもなかった。
~~~~~~~~~~~~
――任務を終えた直後の夜。ミハエルの私室。
雨に濡れたコートのまま、手下の男は無言で室内へと足を踏み入れた。薄暗い部屋の奥で、ミハエルは酒のグラスを傾けていた。
「終わりました」
男が短く報告すると、ミハエルはちらりともこちらを見ず、窓の外に目を向けたまま口を開く。
「そうか。実に愉快な朝だったな」
グラスの中で赤い液体が静かに揺れる。その表情は、まるで一匹の虫が踏み潰されたことに満足する子供のようだった。
「で? 事故に見えたか?」
「誰も気づいていません。路地裏で、馬車に轢かれたという形で処理しました」
「くだらん夢を見る平民に相応しい最期だ」
ミハエルはふふんと鼻で笑うと、デスクの引き出しから小さな革袋を取り出した。
「報酬だ」
その言葉と同時に、袋が男の足元へと無造作に投げつけられた。
――床に落ちた音が、妙に大きく響く。
中に入っているのは、一般の労働者が何ヶ月働いても手にできないような金額だった。
だが男の瞳に映ったのは、金ではない。あくまで、それを“拾わせる”意図で床に放った、この男の態度だった。
ゆっくりとしゃがみ込み、革袋を拾い上げる。濡れた手のひらで握った瞬間、ミハエルの声が鋭く突き刺さった。
「平民一人を始末して得た金だ。……お前らのようなクズが、何年駆けずり回っても届かない額だ。ありがたく思えよ」
男のこめかみに、静かな怒りが浮かぶ。
ミハエルはその表情を楽しむように、わざと椅子から身を乗り出した。
「なあ、どんな気分だ? 平民が、同じ平民を殺すってのは。自分の境遇を守るために、同類を犠牲にする。滑稽だろう? 哀れだと思わないか?」
言葉の一つ一つが、まるで針のように男の胸を刺す。
それでも、男は何も言わず、金の袋を握りしめたまま立ち上がる。押し殺した感情が、かすかに震える唇の端に滲んでいた。
「……失礼します」
「おい」
背を向けた男に、ミハエルがにやりと笑って呼び止める。
「虫ケラが怒りを抱いたところで、踏み潰される運命に変わりはない。……忘れるなよ」
男は振り返らない。だが、扉の前で一度だけ、拳をぎゅっと握りしめた。
その手には、濡れた金の袋。
――ルーカスの命の価値として投げ捨てられた、穢れた金。
静かに扉が閉まり、部屋に再び静寂が戻る。
ミハエルは満足そうに笑い、グラスを傾けた。まるで、自分がすべてを手中に収めたと信じて疑わない支配者のように。
だが気づいていなかった。
その金が、男の中に深く――消えぬ怒りと疑念の火を灯したことを。
それが、やがて自らを地に引きずり下ろす裏切りの火種になることも。
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