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28 小さな祈り
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ある日の午後、祈祷を終えたリリエルは、古びた帳簿を抱えて修道院の一角にある小さな書庫へ向かっていた。
薄陽が射し込む回廊を抜け、応接室の前を通り過ぎようとしたそのとき――扉の向こうから、突き刺すような甲高い声が響いた。
「――いつまでも、ままごとのような生活に耽っていただくわけにはまいりませんぞ、第五王子殿下」
思わず足が止まり、抱えていた帳簿を胸元にぎゅっと引き寄せる。突然耳にした言葉が、彼女の鼓動を乱した。
リリエルは廊下で立ち尽くし、震える睫毛を伏せる。
応接室の扉は閉ざされている。それでも、その向こうから漏れ聞こえる声は、まるで鋭い刃のように胸に突き刺さってくる。
「ここは修道院です。あなたのような方が居座るには、あまりに……不釣り合いだ。まったく、御身を何と心得ておいでか」
その言葉に、リリエルの指先がかすかに震えた。修道女としての平穏な日々の裏に、こんな世界が広がっていたのかと、胸の奥にじわりと冷たいものが滲む。
やがて応接室から、ユリアンの声が低く、凍てついた調子で響いた。
「口を慎め」
その静けさの中に潜む怒気は、普段の彼からは想像もつかぬほどの冷厳さを帯びていた。リリエルの胸にかすかな戦慄が走る。
「慎むべきはどちらか……。殿下、あなたが血を引いているのは王家です。お忘れか?」
「……忘れたいと願ったことはあるな」
返されたその言葉には、呟きのようでありながら、血を吐くような重さがあった。
「哀れなことだ」
使者は鼻先で笑い、なおも言葉を続ける。
「どれほど御自身を否定されようと、殿下。あなたは“予備の王子”として生を受けたのです。都合のよいときに表へ出て、望まれぬ時は隠れていればよい。それがあなたの役割だ――お忘れなく」
まるで人間ではなく、備品か何かを語るような口ぶりだった。その冷酷な言葉に、リリエルの胸がきつく締めつけられた。
(ユリアンさんが……そんな……)
これまで曖昧だった彼の過去が、今まさに目の前で輪郭を得てゆく。その姿は、哀れみなど寄せ付けぬほどの孤独をまとっていた。
「……これ以上の無礼を続けるなら、出て行ってもらおう」
ユリアンの声はなおも静かだったが、その奥に宿る怒りは烈火のごとく、凍てついた空気を打ち破っていた。
「ならば、せめて答えを。明朝までには御決断を。さもなくば、王家の名のもとに力ずくでもお連れいたします」
その言葉を残して、使者の足音が廊下に響いた。確かな敵意を刻むように、石床を叩いて去っていく。
扉の向こうには、もはや声も気配もない。ただひとつ、ユリアンの沈黙だけが、重く、静かに残されていた。
リリエルは動けなかった。
視界がかすむほどに、胸が詰まっていた。彼女の中で、世界がひとつの軸をもって崩れていくような感覚があった。
(第五王子……)
それは、知らなかった彼の顔。
知ってしまったことで、二人の関係が変わるかもしれない現実。
――それでも。
リリエルのまなざしは、震えながらも静かだった。
驚きもあった。動揺も、恐れもあった。けれど、それ以上に胸の奥に浮かび上がった感情――ユリアンという人の痛みを知って、なお寄り添いたいという想いが、確かにそこにあった。
(ユリアンさんが、誰であっても)
彼の孤独が、ほんの少しでも和らぐのなら。その傍に、自分の場所があるのなら。
そっと目を閉じ、リリエルは揺れる胸の内に、小さな祈りを捧げた。
それは、誰にも届かぬかもしれない、けれど確かな祈りだった。
薄陽が射し込む回廊を抜け、応接室の前を通り過ぎようとしたそのとき――扉の向こうから、突き刺すような甲高い声が響いた。
「――いつまでも、ままごとのような生活に耽っていただくわけにはまいりませんぞ、第五王子殿下」
思わず足が止まり、抱えていた帳簿を胸元にぎゅっと引き寄せる。突然耳にした言葉が、彼女の鼓動を乱した。
リリエルは廊下で立ち尽くし、震える睫毛を伏せる。
応接室の扉は閉ざされている。それでも、その向こうから漏れ聞こえる声は、まるで鋭い刃のように胸に突き刺さってくる。
「ここは修道院です。あなたのような方が居座るには、あまりに……不釣り合いだ。まったく、御身を何と心得ておいでか」
その言葉に、リリエルの指先がかすかに震えた。修道女としての平穏な日々の裏に、こんな世界が広がっていたのかと、胸の奥にじわりと冷たいものが滲む。
やがて応接室から、ユリアンの声が低く、凍てついた調子で響いた。
「口を慎め」
その静けさの中に潜む怒気は、普段の彼からは想像もつかぬほどの冷厳さを帯びていた。リリエルの胸にかすかな戦慄が走る。
「慎むべきはどちらか……。殿下、あなたが血を引いているのは王家です。お忘れか?」
「……忘れたいと願ったことはあるな」
返されたその言葉には、呟きのようでありながら、血を吐くような重さがあった。
「哀れなことだ」
使者は鼻先で笑い、なおも言葉を続ける。
「どれほど御自身を否定されようと、殿下。あなたは“予備の王子”として生を受けたのです。都合のよいときに表へ出て、望まれぬ時は隠れていればよい。それがあなたの役割だ――お忘れなく」
まるで人間ではなく、備品か何かを語るような口ぶりだった。その冷酷な言葉に、リリエルの胸がきつく締めつけられた。
(ユリアンさんが……そんな……)
これまで曖昧だった彼の過去が、今まさに目の前で輪郭を得てゆく。その姿は、哀れみなど寄せ付けぬほどの孤独をまとっていた。
「……これ以上の無礼を続けるなら、出て行ってもらおう」
ユリアンの声はなおも静かだったが、その奥に宿る怒りは烈火のごとく、凍てついた空気を打ち破っていた。
「ならば、せめて答えを。明朝までには御決断を。さもなくば、王家の名のもとに力ずくでもお連れいたします」
その言葉を残して、使者の足音が廊下に響いた。確かな敵意を刻むように、石床を叩いて去っていく。
扉の向こうには、もはや声も気配もない。ただひとつ、ユリアンの沈黙だけが、重く、静かに残されていた。
リリエルは動けなかった。
視界がかすむほどに、胸が詰まっていた。彼女の中で、世界がひとつの軸をもって崩れていくような感覚があった。
(第五王子……)
それは、知らなかった彼の顔。
知ってしまったことで、二人の関係が変わるかもしれない現実。
――それでも。
リリエルのまなざしは、震えながらも静かだった。
驚きもあった。動揺も、恐れもあった。けれど、それ以上に胸の奥に浮かび上がった感情――ユリアンという人の痛みを知って、なお寄り添いたいという想いが、確かにそこにあった。
(ユリアンさんが、誰であっても)
彼の孤独が、ほんの少しでも和らぐのなら。その傍に、自分の場所があるのなら。
そっと目を閉じ、リリエルは揺れる胸の内に、小さな祈りを捧げた。
それは、誰にも届かぬかもしれない、けれど確かな祈りだった。
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