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29 脅し
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静かな夜だった。
修道院の廊下に灯された蝋燭の炎が、石壁に揺れる影を落とす。リリエルは祈りを終え、自室へと静かに歩いていた。
石造りの回廊は冷たく、足音さえ凍てつくような静けさが支配していた。──だが、その静寂のなかに、何かが違った。
「……誰か、いらっしゃいますか?」
異様な空気を感じて足を止める。返事はない。ただ蝋燭の炎がひときわ大きく揺れ──次の瞬間。
背後から荒々しい力が伸び、リリエルの口を塞ぎ、体を引き寄せた。
「ん、ん──!」
「悪いな。あんたに罪はない。だが……ユリアン殿下と関わった、それが運の尽きだ」
「……!!」
もがくが、女の力では到底敵わない。腕を押さえ込まれ、身体を強く拘束される。
「無駄な抵抗はやめろ。お前は“交渉材料”なんだよ」
(──交渉材料?)
混乱する思考のなか、布が頭から被せられ、視界が閉ざされる。縛られた手足が石床に打ちつけられ、痛みに息を呑む。その瞬間──意識がふっと遠のいていった。
⸻
──目覚めたとき、そこは修道院ではなかった。
冷たい石の床。粗末な蝋燭が一本だけ灯る、窓のない狭い部屋。重い鉄の扉には外から鍵がかけられている。
(ここは……どこ……?)
身体の痛みと共に、拐われたという現実が突きつけられる。あのときの男の声が蘇る──
【ユリアン殿下】【交渉材料】
──そして。
「ユリアンさん……」
彼の名を、震える唇が呟いた。
そのとき、扉の向こうから重たい足音が響く。鍵が外され、一人の男が姿を現した。
リリエルは恐怖に駆られ、壁際まで身を引いた。だが男は動じず、無表情で一礼すると、無機質な声で告げた。
「ご安心ください。現時点ではあなたに危害を加える意図はありません。殿下に“伝えるべきこと”がございます」
男の手には封書があった。厚手の紙に重厚な印が押された封筒を差し出され、リリエルは震える手で受け取った。
「あなたの身の保障は、殿下の返事次第になります」
「・・・どういうことでしょうか」
使者はリリエルの問いには答えず
扉の向こうに消えた。
受け取った封書を見つめる。
(何が書いてあるの・・・?)
震える指で封を切り、広げた紙に目を通した瞬間──その場に膝をつきそうになる。
《第五王子・ユリアン殿下へ
王となる責務を拒むのならば、お前が庇護する娘の命は保証できない。
国に必要なのは、確固たる王と民心の安定。
選ぶがいい、王冠か──あの娘の命か》
「……脅し……っ」
震える手で手紙を胸に抱え、リリエルは呆然と呟いた。
(ユリアンさんを・・・王に?)
昨日、応接室の扉越しに耳にした会話がよみがえる。
【――いつまでも、ままごとのような生活に耽っていただくわけにはまいりませんぞ、第五王子殿下】
【慎むべきはどちらか……。殿下、あなたが血を引いているのは王家です。お忘れか?】
ユリアンがあの日、苦しげに吐き出した言葉が、今になってリリエルの胸を深く刺す。
【…… 忘れたいと願ったことはあるな】
(ユリアンさんは──望んでなんていなかった。あの立場も、名も、何ひとつ……)
彼はただ、穏やかな日々を願っていた。
修道院に通い、子どもたちと笑い合い、どんな力仕事にも嫌な顔ひとつせず──
ときには泥だらけになって、それでも楽しげに笑っていたあの人の姿が、鮮やかに脳裏に浮かぶ。
(どうして……そんな彼に、またあの世界へ戻れだなんて……)
(王になれ、だなんて──私を人質にしてまで)
悔しさと悲しみが胸にこみ上げる。けれど、それ以上に、今はただ彼の身が心配だった。
──あのやさしい人が、苦しまされてはいないか。
──無理やり、過去と向き合わされてはいないか。
リリエルは目を閉じ、胸の前でそっと両手を組む。
「……どうか、ユリアンさんが……ご無事でありますように……」
今いる場所がどこかもわからない。暗く閉ざされたこの部屋には、窓ひとつない。
それでも、彼女の祈りは夜空の彼方へ届くことを願っていた。
(神様……ユリアンさんを、どうか……お守りください)
修道院の廊下に灯された蝋燭の炎が、石壁に揺れる影を落とす。リリエルは祈りを終え、自室へと静かに歩いていた。
石造りの回廊は冷たく、足音さえ凍てつくような静けさが支配していた。──だが、その静寂のなかに、何かが違った。
「……誰か、いらっしゃいますか?」
異様な空気を感じて足を止める。返事はない。ただ蝋燭の炎がひときわ大きく揺れ──次の瞬間。
背後から荒々しい力が伸び、リリエルの口を塞ぎ、体を引き寄せた。
「ん、ん──!」
「悪いな。あんたに罪はない。だが……ユリアン殿下と関わった、それが運の尽きだ」
「……!!」
もがくが、女の力では到底敵わない。腕を押さえ込まれ、身体を強く拘束される。
「無駄な抵抗はやめろ。お前は“交渉材料”なんだよ」
(──交渉材料?)
混乱する思考のなか、布が頭から被せられ、視界が閉ざされる。縛られた手足が石床に打ちつけられ、痛みに息を呑む。その瞬間──意識がふっと遠のいていった。
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──目覚めたとき、そこは修道院ではなかった。
冷たい石の床。粗末な蝋燭が一本だけ灯る、窓のない狭い部屋。重い鉄の扉には外から鍵がかけられている。
(ここは……どこ……?)
身体の痛みと共に、拐われたという現実が突きつけられる。あのときの男の声が蘇る──
【ユリアン殿下】【交渉材料】
──そして。
「ユリアンさん……」
彼の名を、震える唇が呟いた。
そのとき、扉の向こうから重たい足音が響く。鍵が外され、一人の男が姿を現した。
リリエルは恐怖に駆られ、壁際まで身を引いた。だが男は動じず、無表情で一礼すると、無機質な声で告げた。
「ご安心ください。現時点ではあなたに危害を加える意図はありません。殿下に“伝えるべきこと”がございます」
男の手には封書があった。厚手の紙に重厚な印が押された封筒を差し出され、リリエルは震える手で受け取った。
「あなたの身の保障は、殿下の返事次第になります」
「・・・どういうことでしょうか」
使者はリリエルの問いには答えず
扉の向こうに消えた。
受け取った封書を見つめる。
(何が書いてあるの・・・?)
震える指で封を切り、広げた紙に目を通した瞬間──その場に膝をつきそうになる。
《第五王子・ユリアン殿下へ
王となる責務を拒むのならば、お前が庇護する娘の命は保証できない。
国に必要なのは、確固たる王と民心の安定。
選ぶがいい、王冠か──あの娘の命か》
「……脅し……っ」
震える手で手紙を胸に抱え、リリエルは呆然と呟いた。
(ユリアンさんを・・・王に?)
昨日、応接室の扉越しに耳にした会話がよみがえる。
【――いつまでも、ままごとのような生活に耽っていただくわけにはまいりませんぞ、第五王子殿下】
【慎むべきはどちらか……。殿下、あなたが血を引いているのは王家です。お忘れか?】
ユリアンがあの日、苦しげに吐き出した言葉が、今になってリリエルの胸を深く刺す。
【…… 忘れたいと願ったことはあるな】
(ユリアンさんは──望んでなんていなかった。あの立場も、名も、何ひとつ……)
彼はただ、穏やかな日々を願っていた。
修道院に通い、子どもたちと笑い合い、どんな力仕事にも嫌な顔ひとつせず──
ときには泥だらけになって、それでも楽しげに笑っていたあの人の姿が、鮮やかに脳裏に浮かぶ。
(どうして……そんな彼に、またあの世界へ戻れだなんて……)
(王になれ、だなんて──私を人質にしてまで)
悔しさと悲しみが胸にこみ上げる。けれど、それ以上に、今はただ彼の身が心配だった。
──あのやさしい人が、苦しまされてはいないか。
──無理やり、過去と向き合わされてはいないか。
リリエルは目を閉じ、胸の前でそっと両手を組む。
「……どうか、ユリアンさんが……ご無事でありますように……」
今いる場所がどこかもわからない。暗く閉ざされたこの部屋には、窓ひとつない。
それでも、彼女の祈りは夜空の彼方へ届くことを願っていた。
(神様……ユリアンさんを、どうか……お守りください)
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