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しおりを挟むトマは出会った時に戻ったように、泥だらけだった。
三年前の痩せっぽちの少年ではなくなっているけれど。
「お呼び止めして、申し訳ありません。」
頭を下げた時、黒髪に泥が飛び散っているのが見えた。
「トマ。────」
耳も目も元に戻って、セシリアはやっとビョルンの支えから身を起こした。
「どうしてしまったの、トマ──今は訓練中ではなかったの?」
「はい、訓練中です。」
変わらず穏やかで、優しい話し方がセシリアを安心させた。
あの頃とは全く別人のように低い声になっているのに。
「セシリア様、ニワトコの花が咲き始めました。」
今、セシリアがいる場所からは、ニワトコの甘い香りも感じられないけれど、トマと出会った時ちょうど盛りを迎えていたニワトコが葡萄のような香りを漂わせていたことを、セシリアははっきり憶えていた。
「ふふっ───あなたはニワトコが好きだったわね。」
「もう食ったりしてないだろうな?」
ビョルンがトマの頭の泥を、ガシガシと乱暴にはたき落としながら言う。
流浪の民の孤児だったトマは、ニワトコの甘い香りに魅せられて、花をちぎり取って食べようとしたことがあった。
生のニワトコには毒があり、慌ててオラフとビョルンが止めたのだ。
「もう、あのようなことは致しません。」
冷静な彼には珍しく、少し慌てたように言い返した。
「───セシリア様、あなた様が、お越しになってはいけない場所などありません。」
「───トマ。伯爵様には考えがおありなのよ。意見をするようなことを言ってはいけないわ」
トマはセシリアの言葉には答えなかった。
「嬉しかったんだろ、トマ。セシリア様のお姿を見られて。そう言いたかったんだよな?」
ビョルンはトマの頭を乱暴に撫でた。
「はい。───お顔を拝見できて嬉しゅうございました。」
トマは穏やかに笑った。
「ありがとうトマ。私も、久しぶりに話せて嬉しかったわ。───さあ、戻って。叱られてしまうわよ。」
「はい。」
やはりトマは、追いかけて来た時のように、足音も砂埃も立てずに訓練所に戻って行った。
「やるなあいつ。」
トマの後ろ姿に、ビョルンが呟いた。
「やるって、何が?」
「優しいやつだ、ってことですよ。」
「そうね、トマは優しいわね。」
「俺も優しいですよ。」
「ええ、優しいわね。───ありがとう。あなたがいてくれて、よかったわ。」
セシリアの声は小さかった。
でも、ビョルンにはちゃんと聞こえたようで、わずかに表情が翳った。
「トマの言う通りですよ。あなたが立ち入ってはいけない場所なんて、そうはない。特にここには、エルムンドにはあっちゃいけないんですよ。」
セシリアが何か言おうとしたのを、ビョルンは遮るように口を開いた。
「戻ったら、イニゴさんに文句言ってやりましょうか?『お前のせいでドレスが汚れた』って。」
ビョルンが真面目な顔をして言うので、セシリアは声をあげて笑った。
目の前でのびた兵士に木刀を投げつけて、口の中に入った砂を地面に吐き捨てた。
アンネと一緒になってセシリアを嘲笑していた兵士を、ニールスは三人まとめて木刀で打ちのめした───
「そこの三人、相手をしてやる。来い!」
ニールスが声をかけると、せせら笑っていた兵士たちは、伯爵自ら訓練をつけてもらえる、と喜色を浮かべて駆け寄り、ニールスの前に並んで木刀を構えた。
「一斉に来い!」
ニールスの言葉に三人は逡巡の後、木刀を振りかざしかかってきた。
「うぉーっ‼︎」
三人が言われた通り一斉に声を上げて切りかかる。
ニールスが木刀を一振りすると右と中央の兵士は腹を押さえて転がった。
残った左の兵士は一瞬たじろぎ出遅れる。その隙にニールスの木刀が返す刀で兵士の木刀を叩き落とす。
兵士は腕が痛いのか、右腕を左手で庇いながら呻き声をあげて転がる。
「終わっていないぞ、立て!」
勝負にもならない。
その後も兵士達は、打ち込むたびにものすごい力で叩きのめされた。
それでもニールスは兵士を立たせて、打ち込んだ。
兵士が立てなくなると、ニールスは兵士達を掴み上げて素手で殴りつけた。
「軍曹!」
青い顔をして見ていた男に、ニールスが怒鳴る。
「たるんでいるようだな、準備運動にもならんぞ。鍛え直せ!」
三人の両目は開かぬほどに腫れ上がり、口元からは泡を吹いている。
「はっ‼︎ 」
軍曹は、倒れた三人を運び出させて、他の隊員達に号令をかけた。
ニールスは真っ青になり震えているアンネと彼女を宥めるようにして隣に立つカールに近付いた。
アンネの顔は恐怖で引き攣り、さっきまでの下品な笑みは消え失せている。
「ここは誰でも気ままに遊びに来ていい場所ではない、分かったな?」
アンネは何か言い募ろうと口を開いたが、カールがアンネの肩に置いた手に力を込めて、それを制した。
「副官、よく言い聞かせておけ。」
ニールスは幼馴染を名前で呼ばず、あえて階級で呼んだ。
苛立ちは収まらず、ニールスは訓練所から立ち去りながら自分自身に舌打ちをした。
久しぶりに顔を見た。
背の高い、若い護衛に微笑みを向けながら、やはり金の髪は柔らかそうに揺れていた。
いつからセシリアに会っていなかったのか、ニールスははっきり思い出せなかった。
帰還以来、セシリアに会わずに済むように、忙しくするためにわざと仕事を増やした。
早朝から夜半まで、軍務に明け暮れ、その仕事も手空きになれば、領地の仕事を詰め込んだ。
ほんの、一週間ほど顔を会わせていない、そんな認識だった。セシリアを見るまでは。
どれほど彼女を捨て置いたのだろうか。思い出そうとしていると、周りの兵士の目線に気が付いた。
若い兵士達が、セシリアの姿に一瞬で頬を赤らめ、あるものは目を逸らし、あるものはだらしなく口を開いて彼女を見つめている。
「へへっ…」小さく笑う声も聞こえてくる。こそこそと何か話しながら下卑た笑みを浮かべ、セシリアを舐めるように見ている。
考えるより先に体が動いた。「ここへは来るな。」気付けばそう口にした後だった。。
セシリアの目が色をなくすのが分かった。
(しまった。───何か言わなければ。)
そう思ったが、彼女はすぐに踵を返して訓練所を出て行ってしまった、護衛にかかえられるようにして。
追いかけようとした時、泥だらけの背中が後を追うのが見えた。
「どこへ行く!訓練中だぞ、戻れ!」
古参の兵士の声も無視して、訓練生の少年はセシリアが出て行った後を追いかけた。
あちこちから、冷やかすような声が上がった。
『犬っころがご主人様のご機嫌とりか!』
『がきんちょ同士で傷の舐め合いか。』
『がきとはいえ、やることはやってんじゃないのか?』
『夜の特訓ってことか?』
いやらしく「くくっ」と喉を鳴らして笑う声が聞こえる。
ニールスには聞こえないと思っているのか、聞こえても彼も一緒に笑うと思われているのか。
ニールスは自分への不甲斐なさも相まって、我を忘れた。
アンネと一緒になって笑っていた兵士達を槍玉にあげて打ちのめす間、ニールスは泥だらけの少年を、セシリアが連れ帰った日のことを思い出していた。
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