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しおりを挟む「奥方様…あなた様はこのようなところにいてはいけません───」
意識のある兵士に水を飲ませてやると、兵士は苦しそうに声を絞り出した。
「私は、赤痘にはもう罹りません、心配ご無用ですよ。」
セシリアは布巾で兵士の口元を拭った。
「あなた様がこんなに…慈悲深い方だと…知らなかった…」
セシリアは答えず、兵士の額の汗に濡らした布巾をそっと当てがった。
「どうしてですか…どうして、あんなヒュドラのガキなんかを構うんです…」
セシリアはやはり答えずに、兵士の手をとって拳の傷を布巾で拭いた。
「あのガキ…呪いなんか…かけやがって──ゲホッ!」
兵士は気持ちが昂ったのか、激しく咳き込んだ。
セシリアは兵士の背中をさすった。
「奥方様…あのガキとは、関わらんでください…呪いの民なんかと…」
兵士は苦しそうに息をしながら、セシリアの手を取り切実に訴えた。
「この手の傷、誰を殴ったの?」
セシリアの声は、おだやかで優しく慈愛に満ちたものだった。
「人を殴ると、こういう風になるのよね?───私がそんなこと知っていて驚いたでしょう?」
楽しい世間話でもするように、セシリアは兵士に微笑んだ。
「王宮にいた頃、見たことがあるの。女官をめぐって殴り合いになる騎士が時々いたのよ。」
おかしいでしょう?と、セシリアは小さく笑った。
「でも、その騎士は手だけではなくて、顔もあざだらけで酷いものだったわ───それはそうよね、殴り合いなんだもの。あなたの顔には、殴られた跡はないのね。」
兵士はセシリアの手を慌てて振り解こうとして、また激しく咳き込んだ。
「自分より力の弱い者が相手だったのかしら?」
セシリアは兵士の背中を優しくさすった。
「それとも、大勢で一人を殴りつけたの?──あちらの方にも、同じような傷があったわ。」
セシリアが窓際の兵士を見ながら言うと、咳き込んでいた兵士は彼女を見た。
「お…奥方様…」
「怖いのは、呪い?───」
セシリアの言葉に、兵士は喉からゼェーゼェーとおかしな音を立てながら、目を見開いてセシリアを見た。
「自分より力の弱い者を、寄って集っていたぶって、楽しかった?」
「奥方様…やめてください…」
「トマは言わなかったの?痛い、苦しい、やめてくれ、と。」
兵士は首を振り、はくはくと口を開くだけだった。
「呪いだなんて、まるであなた方が被害者のように振る舞うのね…神は、あなた方の行いを、お許しになるのかしら?」
明日は晴れるかしら、とでも言うように楽しそうに語りかけるセシリアに、兵士は掠れる声で叫び声を上げた。
他の兵士を看ていた手伝いの女が、部屋から駆け出していった。
「やめてくれ!」「悪いのは俺じゃない!」
兵士はセシリアを、化け物を見るような目で見ながらまだ叫んでいる。
兵士は咳き込みながら叫び続けた。
廊下に出ていたオラフがセシリアを部屋の外に連れ出した。
ニールスが病院に着いた頃には、セシリアの姿はなかった。
「病室で兵士が暴れ出した。」
連絡を受けたニールスは、兵士たちに広がり出した病が赤痘ではなく、他の病気の可能性が出たかと慌てて病院へ駆けつけた。
病院に着いてラースに聞けば、兵士はもう落ち着き他に変わったところはないという。
「赤痘で間違いないんだな?」
「ああ、発熱から二日ほどで皆、発疹が全身に出ている。赤痘で間違いない。」
「暴れた兵士は?」
「赤痘だ」
では、なぜ呼んだ。口に出そうとした時、先にラースが話し出した。
「セシリア様とは話せているのか?」
「なんの関係がある?」
一番痛いところを突かれてニールスはぶっきらぼうな物言いになった。
「兵士が暴れたのは、セシリア様が原因のようなんだ───」
ラースが病室に駆け付けた時、セシリアは廊下でオラフに支えられるようにしてぼんやりと立っていた。
「やめてくれ」「呪いなんだ」「俺のせいじゃない」
そう繰り返し叫ぶ兵士を数人がかりで押さえつけ拘束すると、兵士は熱のせいもありたちまち気を失うように静かになった。
兵士は熱のせいで譫妄状態になったと判断し、病室を出ようとしたラースに手伝いの女が、兵士はセシリアと何か話していて突然暴れ出した、と耳打ちしてきた。
いつもの診察室の奥の椅子に座り、セシリアにお茶を出す。
ラースは茶器を受け取るセシリアの手が震えていることに気がついた。
カチャカチャと音を立てる茶器をオラフがセシリアの手から受け取り、小さな食卓に置いた。
「セシリア様、あの兵士と何があったか、お話しくださいますか?」
セシリアは食卓についた傷を指でなぞっていた。
「あの兵士の他にも、手に傷のある人が何人もいました───」
「セシリア様?」
「そのどなたにも、顔に傷がなかった───あの者達が、トマをあのような目に合わせたのでしょう?あんなに大勢で…」
「それで、兵士に復讐を?」
「復讐?」
「兵士は何かに怯えていました、セシリア様が何か仰ったのでは?」
ふふふっ、とセシリアは笑った。
「皆さん、ずいぶん臆病なのね、そう思わない?」
セシリアがオラフを見ると彼は静かにうなずいた。
「呪いだなんて騒いだかと思えば、兵士が暴れたら今度は私のせい?───呪いのせいで暴れたのではないですか?」
セシリアは鼻白んで、お茶の入った器を手にした。
彼女の手は、もう震えてはいなかった。
「セシリアが?」
「ああ、なんだか人が変わって見えた───修道女達に任せっぱなしにして、あの異端の孤児を診に行かなかったんだ。」
赤痘と思われる患者が出始め、あわただしかったのは事実だった。
でも、混乱の元凶の少年がいなくなりほっとした、ほっとして頭の中から消し去っていたかもしれない。
「セシリア様が来た時、ちょうど手伝いの女と話し込んでいた。あれも良くなかったかもしれない。───女と話す暇があるのに、ってな。」
「トマというんだ───」
ニールスの声があまりにも小さくて、ラースは聞き返した。
「あいつはトマという名だ。」
「そうだったな───」
ラースは気まずそうな顔をした後、額を乱暴に手で擦った。
「手伝いの女には口止めをしておいてくれ。」
そう言い残して、ニールスは病院を後にした。
セシリアをこれ以上騒動に巻き込みたくなかった。
この封建的な土地で、異端の者と親しくすることは禁忌である。
セシリアがトマを連れ帰った時に、きちんと話しトマをもう少し偏見の少ない地に送るべきだった。
あの頃も分かってはいた。でもニールスは言えなかった。
たった十歳で見知らぬ土地へ送られてきた少女に、君が友人のように振る舞うその少年はこの土地では偏見と差別の対象だなどと。
幼い少女から、友人を取り上げることは出来なかった。
ラースの話には続きがあった。
修道院の前で死んでいた娼婦が、軍章を持っていたという。
娼婦はすでに共同墓地に埋葬されていて、はっきりした死因はわからない。
みすぼらしい身なりの、厚化粧の娼婦。
セシリアはこの娼婦の死を、悼んでいたという。
それと同時に、赤痘の発症がその娼婦からではないか、娼婦を買った兵士が他の兵士達に広げたのではないか、と考えているようだった。
娼婦に最後に触れた修道女達が赤痘に罹った事も話していたようだ。
年端も行かぬ少年を集団でいたぶり、娼婦を買い、病気を蔓延させた。
セシリアのまだ柔らかい心は、耐えがたかったのかもしれない。
本当なら、夫である自分が支えてやるべきであったのに、ニールスは屋敷へ馬を急がせた。
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