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朝早く、セシリアは朝食を済ませて修道院へ向かった。
セシリアが外出することを厭うていたニールスの姿は屋敷にはなく、止められることもなかったので、トマの様子を見に行くことにした。
トマが怪我をして、病院に運ばれたらしい。
セシリアに知らせたのは、ビョルンだった。
ビョルンは軍の中に密偵でも忍ばせているのか、事情に通じている。
その前日に兵舎で、若い兵士が急死したこともビョルンが知らせてきた。
トマはすでに治療を施され寝台に横たわっていて、顔の半分を包帯で巻かれた姿はトマだと言われなければセシリアに見分けはつかなかっただろう。
トマは常から、兵士達に『可愛がり』をされていたという。
泥だらけのまま、訓練所からセシリアを追いかけてきた時の姿を思い出した。
トマの黒髪は雨など降っていないのに、泥がついていた。
トマの体には今回の暴行よりもっと前からの傷がたくさんあった。
その傷は、鞭で叩かれたような傷から、ナイフで抉られたようなものもあり、診察したラースも驚くほどだったという。
痩せ細っていた体があっという間に大きくなって、トマが訓練所で剣の稽古をつけてもらえるようになったのは、ニールスが出征して半年ほどのことだった。
セシリアと変わらないほどだったトマの背丈はその頃には少し見上げるほどになっていたし、体つきもしっかりとしたものになっていた。
『訓練所にやっと入れました、伯爵様は忘れずに手配をしていて下さった。』そう言っていた彼は、本当に嬉しそうだった。
一晩中トマについていたマルタを屋敷に帰し、セシリアはトマの寝台の横の木の椅子に腰掛けた。
昨日よりトマが楽に息をしているように見えて少し安心したセシリアは、ついさっき馬車寄せの傍で拾ったトチの実を手のひらに並べた。
王宮にいた頃、トチの実にインクで顔を描いたものをもらったことがあった。
泣き顔のトチの実には、カードが添えられていて『さみしい、早く良くなって。』と書いてあった。
トマが身じろぎをして、セシリアは思い出から引き戻された。
「トマ?」
椅子から立ち上がりトマの顔を覗き込むと、包帯のない方の瞼がわずかに動いた。
黒い瞳が、腫れ上がったまぶたから覗く。
「───セシ…セシリア様───」
掠れた声で、トマが呼んだ。
「気がついたのね、よかった──」
セシリアは白磁の吸い飲みに水差しから水を入れて、トマの口に当てがった。
トマは水を少し飲むと、黒い瞳を動かしてセシリアを見て笑った。
実際は腫れ上がった顔は、目もほとんど開かず、包帯で半分は隠れていて表情などわからない。
でも、セシリアには笑ったように見えた。
トマは目を覚ましたその日の夕暮れの頃には、寝台の上に体を起こせるようになった。
「修道女様達が、何人か熱を出したのですって。」
クララはトマの寝ている部屋にやってきて、修道女達の災難を楽しそうに話して聞かせた。
「それはお気の毒なことね。」
ニールスが言っていた通り、赤痘が広まっているのだろう。
修道女達が忙しそうに病院へ行き来していることは、セシリアも気づいていた。
「病院へ手伝いに行っていた修道女様が熱を出したの?」
「いいえ、赤痘かもしれないから罹ったことがある人だけが病院に行ったんですけど。」
「そう───クララは赤痘には?」
「かかりました、小さい時に。その時まだ赤ん坊だった末の弟は死にました。」
「そうだったのね───」
「セシリア様───いっ!」
トマはセシリアに何か言おうと体を起こしかけて、痛みに声をあげた。
「大丈夫よ、私も以前に罹ったの。」
セシリアが微笑むと、トマは安心したようにゆっくりと息を吐いた。
「ねえ、クララ。もしかして、熱が出た修道女様は、あの可哀想な娼婦に最後に触れた方達かしら?」
「ああ、そうだったかもしれませんね…」
クララは思い出すように見上げるような仕草をしながら、掛け布の上からトマの足を指で摘んだ。
「うぐっ、」
トマが唸り声を上げると、クララは笑いながら部屋から出ていった。
次の日、セシリアは病院に赴いた。
病院に行っていない修道女にも感染者が出ていることをラースに伝えたかったし、セシリアも何か手伝えたら、と考えていた。
病院はまだ彼女が思ったよりも落ち着いていた。
ラースが一度もトマの往診に来なかったので、セシリアはもっと混乱しているものだと思いこんでいて、拍子抜けした。
いつもの大部屋を通り過ぎ、奥の部屋に向かう。
赤痘の疑いがある患者なら、完全ではないが隔離できる部屋にいると見越して。
「オラフ、意外と落ち着いてるわね…」
ビョルンは赤痘に罹ったことがないので、感染が落ち着くまで屋敷に残ることになった。
「本当ですね、赤痘が迫っているとは思えませんね。」
廊下の向こうに、ラースの姿が見えた。
手伝いの女と何やら楽しそうに話し込んでいるように見える。
「セシリア様、お越しだったんですね。」
ラースが気付いてセシリア達に手を挙げて笑顔を向けた。
「先生、思ったより落ち着いているんですね。」
セシリアは発熱した兵士達がいる部屋の扉に目を向けた。
「セシリア様は、赤痘に罹っていたんですね。」
扉に近付き小窓から中を覗くと、苦しそうに顔を歪める兵士たちが見えた。
「伯爵様からお聞きに?」
「ええ。」
「赤い発疹が出ているわ…」
背伸びしたまま小窓からもう一度、兵士の顔をよく見ると赤い発疹に覆われている。
「赤痘、確定のようですね。」
セシリアの後ろでオラフがつぶやく。
「お手伝いは足りていますの?」
「今はなんとか、でもすぐに手が回らなくなるでしょうけどね。」
「私も、お手伝いしますわ。」
セシリアはラースを見ずに、病室の扉を開けた。
セシリアが病室へ入ると、ラースと話していた手伝いの女も慌てて一緒に入って、咳込む兵士に駆け寄った。
部屋には十五名が寝台に寝ていて、窓に近い寝台の兵士達は皆発疹が確認できた。
苦しそうに浅い呼吸を繰り返しながら、ねじるように体を動かし、楽な姿勢を探している。
発疹が顔中に広がる兵士は熱も高く、絶えず低く唸り声を上げている。
セシリアが布巾を冷水で冷やして顔を拭いてやると、少し楽な気分になるのか唸るのをやめて、薄く目を開けた。
「苦しい…助けて…」兵士が絞り出すように訴える。
セシリアはもう一度、桶の冷水に布巾を漬けて軽く絞ると、兵士の顔を額から順に首元まで拭いてやった。
何度か同じことを繰り返すと、兵士は表情を少し緩めて目を閉じた。
兵士から規則的な呼吸が聞こえて、セシリアは布巾を桶に戻すと、乱れた上掛けをかけ直した。
セシリアの柔らかい手を、赤い無数の発疹とまだ新しい傷が生々しく残る兵士の手が、ざらりとかすめた。
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