10 / 33
アルベリク・モラン
しおりを挟む
乗合馬車を呼び止め、二人は向き合う形で腰掛けた。こうして異性と二人きりになることは初めてのことでクロエは内心緊張する。
(考えてみれば馬車で移動していたのだから付き添いは必要なかったかもしれないわ)
けれどもう遅い。走り出した馬車にクロエは諦めようと思った。途中まで送ってもらって、あとは適当な理由で帰ってもらおう。
「あの、」
青年から声をかけられ、クロエはハッとする。
「何でしょう」
「本当はもっとどこか寄る予定だったのではないですか」
「いいえ。特に予定はありませんでしたわ」
ただなんとなく街の風景を目に焼き付けておきたかっただけかもしれない。
「そうですか……よくお一人で出かけるのですか?」
「いいえ。いつもは友人と出かけます」
クロエの言葉に青年はちょっと考え、もしかしてと問いかける。
「マティナールの学生ですか」
「ええ」
頷きながらも自分の個人情報を相手に知られたことを不安に思う。
「女性で勉強するとなると大変でしょう」
「そうですね。でも、面白くてやりがいがありますわ」
青年はじっとクロエを見つめてくる。彼の癖なのだろうか。なんとなく正面から受け止める気になれず、視線を落とせば彼の手が赤くなっていることに気がついた。
「怪我していますわ」
「えっ……ああ。どこかで切ったのでしょう」
これくらい気にしないで下さいと言われても、クロエは気になってしまい、ハンカチを取り出した。
「これ、よかったらお使いになって」
「はぁ……」
青年は受け取ったものの、どうすればよいかわかっていないようであった。お節介だとは思いながらもクロエは右手を差し出すよう言い、傷口にハンカチを巻き付けた。
(昔外で怪我するとお姉さまがこうやって応急手当してくれたわ)
青年は黙ってクロエの指先を見ていた。
「先程の話の続きですが……あなたはどんな勉強がお好きですか」
こんな状態で話す彼に少し驚きながらクロエは何だろうかと考えてみる。
「そうですね……哲学の授業は毎回興味深いです」
「哲学ですか。難しそうですね」
「ええ、難しいですわ」
「でもお好きなんですか?」
「先生が生徒の興味を引くよう、まず身近な質問で授業を展開していくんです。それがけっこう楽しみなんです」
「なるほど」
青年はそれからも質問を重ね、クロエから話を引き出そうとした。あとから振り返れば沈黙で気まずくならないようにという青年なりの配慮だったかもしれない。どこかぎこちない繋であったから。
学校の近くまでくると馬車から降りて、二人は歩きだした。途中何度もクロエはここまででいいと断ったけれど、青年は何かあったらいけないからとその都度丁寧に固辞した。
「今日はどうもありがとうございました」
結局学校の門前まで送ってもらい、クロエは青年にお礼を述べた。正直気疲れしてしまった。
「よかったら、」
別れを切り出さず、青年はクロエの顔をじっと見つめてくる。
「あなたの名前を教えてもらえないだろうか」
ここへたどり着くまでの間に男の口調は砕けたものへと変わり、親しみがそこにはあった。
けれど今更な質問である。馬車に乗っている間、聞こうと思えば聞くタイミングはいつだってあった。それなのにそうしなかったのは二人が今日限りの出会いだからだ。名前をいちいち知る必要はない。
「あの、わたし……」
「俺の名前はアルベリク。アルベリク・モランという」
あなたは? とアルベリクの声はクロエの答えを待ち望んでいた。
「……クロエ。クロエ・バレーヌと申します」
バレーヌというのは母方の姓である。
「そうか。クロエ。少しの間だが、あなたと話せて楽しかった」
「いいえ、こちらこそ」
「ハンカチは洗って返す」
その必要はないとクロエは首を振った。
「差し上げますわ」
いらないなら捨ててくれと言っても、アルベリクは納得がいかなそうであった。
「次も、あなたと会いたい」
クロエは曖昧に微笑み、縁があれば会えるでしょうと別れを告げた。
「さようなら、モラン様」
彼と会うことはもうないだろう。来週にはクロエは学校を去る。たとえ彼が足を運んでも意味のないことだ。それに親切な青年だと思っても、結局彼もあの男とそう変わらないではないかと思った。
(考えてみれば馬車で移動していたのだから付き添いは必要なかったかもしれないわ)
けれどもう遅い。走り出した馬車にクロエは諦めようと思った。途中まで送ってもらって、あとは適当な理由で帰ってもらおう。
「あの、」
青年から声をかけられ、クロエはハッとする。
「何でしょう」
「本当はもっとどこか寄る予定だったのではないですか」
「いいえ。特に予定はありませんでしたわ」
ただなんとなく街の風景を目に焼き付けておきたかっただけかもしれない。
「そうですか……よくお一人で出かけるのですか?」
「いいえ。いつもは友人と出かけます」
クロエの言葉に青年はちょっと考え、もしかしてと問いかける。
「マティナールの学生ですか」
「ええ」
頷きながらも自分の個人情報を相手に知られたことを不安に思う。
「女性で勉強するとなると大変でしょう」
「そうですね。でも、面白くてやりがいがありますわ」
青年はじっとクロエを見つめてくる。彼の癖なのだろうか。なんとなく正面から受け止める気になれず、視線を落とせば彼の手が赤くなっていることに気がついた。
「怪我していますわ」
「えっ……ああ。どこかで切ったのでしょう」
これくらい気にしないで下さいと言われても、クロエは気になってしまい、ハンカチを取り出した。
「これ、よかったらお使いになって」
「はぁ……」
青年は受け取ったものの、どうすればよいかわかっていないようであった。お節介だとは思いながらもクロエは右手を差し出すよう言い、傷口にハンカチを巻き付けた。
(昔外で怪我するとお姉さまがこうやって応急手当してくれたわ)
青年は黙ってクロエの指先を見ていた。
「先程の話の続きですが……あなたはどんな勉強がお好きですか」
こんな状態で話す彼に少し驚きながらクロエは何だろうかと考えてみる。
「そうですね……哲学の授業は毎回興味深いです」
「哲学ですか。難しそうですね」
「ええ、難しいですわ」
「でもお好きなんですか?」
「先生が生徒の興味を引くよう、まず身近な質問で授業を展開していくんです。それがけっこう楽しみなんです」
「なるほど」
青年はそれからも質問を重ね、クロエから話を引き出そうとした。あとから振り返れば沈黙で気まずくならないようにという青年なりの配慮だったかもしれない。どこかぎこちない繋であったから。
学校の近くまでくると馬車から降りて、二人は歩きだした。途中何度もクロエはここまででいいと断ったけれど、青年は何かあったらいけないからとその都度丁寧に固辞した。
「今日はどうもありがとうございました」
結局学校の門前まで送ってもらい、クロエは青年にお礼を述べた。正直気疲れしてしまった。
「よかったら、」
別れを切り出さず、青年はクロエの顔をじっと見つめてくる。
「あなたの名前を教えてもらえないだろうか」
ここへたどり着くまでの間に男の口調は砕けたものへと変わり、親しみがそこにはあった。
けれど今更な質問である。馬車に乗っている間、聞こうと思えば聞くタイミングはいつだってあった。それなのにそうしなかったのは二人が今日限りの出会いだからだ。名前をいちいち知る必要はない。
「あの、わたし……」
「俺の名前はアルベリク。アルベリク・モランという」
あなたは? とアルベリクの声はクロエの答えを待ち望んでいた。
「……クロエ。クロエ・バレーヌと申します」
バレーヌというのは母方の姓である。
「そうか。クロエ。少しの間だが、あなたと話せて楽しかった」
「いいえ、こちらこそ」
「ハンカチは洗って返す」
その必要はないとクロエは首を振った。
「差し上げますわ」
いらないなら捨ててくれと言っても、アルベリクは納得がいかなそうであった。
「次も、あなたと会いたい」
クロエは曖昧に微笑み、縁があれば会えるでしょうと別れを告げた。
「さようなら、モラン様」
彼と会うことはもうないだろう。来週にはクロエは学校を去る。たとえ彼が足を運んでも意味のないことだ。それに親切な青年だと思っても、結局彼もあの男とそう変わらないではないかと思った。
94
あなたにおすすめの小説
蔑ろにされた王妃と見限られた国王
奏千歌
恋愛
※最初に公開したプロット版はカクヨムで公開しています
国王陛下には愛する女性がいた。
彼女は陛下の初恋の相手で、陛下はずっと彼女を想い続けて、そして大切にしていた。
私は、そんな陛下と結婚した。
国と王家のために、私達は結婚しなければならなかったから、結婚すれば陛下も少しは変わるのではと期待していた。
でも結果は……私の理想を打ち砕くものだった。
そしてもう一つ。
私も陛下も知らないことがあった。
彼女のことを。彼女の正体を。
助けた青年は私から全てを奪った隣国の王族でした
Karamimi
恋愛
15歳のフローラは、ドミスティナ王国で平和に暮らしていた。そんなフローラは元公爵令嬢。
約9年半前、フェザー公爵に嵌められ国家反逆罪で家族ともども捕まったフローラ。
必死に無実を訴えるフローラの父親だったが、国王はフローラの父親の言葉を一切聞き入れず、両親と兄を処刑。フローラと2歳年上の姉は、国外追放になった。身一つで放り出された幼い姉妹。特に体の弱かった姉は、寒さと飢えに耐えられず命を落とす。
そんな中1人生き残ったフローラは、運よく近くに住む女性の助けを受け、何とか平民として生活していた。
そんなある日、大けがを負った青年を森の中で見つけたフローラ。家に連れて帰りすぐに医者に診せたおかげで、青年は一命を取り留めたのだが…
「どうして俺を助けた!俺はあの場で死にたかったのに!」
そうフローラを怒鳴りつける青年。そんな青年にフローラは
「あなた様がどんな辛い目に合ったのかは分かりません。でも、せっかく助かったこの命、無駄にしてはいけません!」
そう伝え、大けがをしている青年を献身的に看護するのだった。一緒に生活する中で、いつしか2人の間に、恋心が芽生え始めるのだが…
甘く切ない異世界ラブストーリーです。
私が、良いと言ってくれるので結婚します
あべ鈴峰
恋愛
幼馴染のクリスと比較されて悲しい思いをしていたロアンヌだったが、突然現れたレグール様のプロポーズに 初対面なのに結婚を決意する。
しかし、その事を良く思わないクリスが・・。
さよなら、私の初恋の人
キムラましゅろう
恋愛
さよなら私のかわいい王子さま。
破天荒で常識外れで魔術バカの、私の優しくて愛しい王子さま。
出会いは10歳。
世話係に任命されたのも10歳。
それから5年間、リリシャは問題行動の多い末っ子王子ハロルドの世話を焼き続けてきた。
そんなリリシャにハロルドも信頼を寄せていて。
だけどいつまでも子供のままではいられない。
ハロルドの婚約者選定の話が上がり出し、リリシャは引き際を悟る。
いつもながらの完全ご都合主義。
作中「GGL」というBL要素のある本に触れる箇所があります。
直接的な描写はありませんが、地雷の方はご自衛をお願いいたします。
※関連作品『懐妊したポンコツ妻は夫から自立したい』
誤字脱字の宝庫です。温かい目でお読み頂けますと幸いです。
小説家になろうさんでも時差投稿します。
【完結】遅いのですなにもかも
砂礫レキ
恋愛
昔森の奥でやさしい魔女は一人の王子さまを助けました。
王子さまは魔女に恋をして自分の城につれかえりました。
数年後、王子さまは隣国のお姫さまを好きになってしまいました。
拝啓 お顔もお名前も存じ上げない婚約者様
オケラ
恋愛
15歳のユアは上流貴族のお嬢様。自然とたわむれるのが大好きな女の子で、毎日山で植物を愛でている。しかし、こうして自由に過ごせるのもあと半年だけ。16歳になると正式に結婚することが決まっている。彼女には生まれた時から婚約者がいるが、まだ一度も会ったことがない。名前も知らないのは幼き日の彼女のわがままが原因で……。半年後に結婚を控える中、彼女は山の中でとある殿方と出会い……。
婚約破棄イベントが壊れた!
秋月一花
恋愛
学園の卒業パーティー。たった一人で姿を現した私、カリスタ。会場内はざわつき、私へと一斉に視線が集まる。
――卒業パーティーで、私は婚約破棄を宣言される。長かった。とっても長かった。ヒロイン、頑張って王子様と一緒に国を持ち上げてね!
……って思ったら、これ私の知っている婚約破棄イベントじゃない!
「カリスタ、どうして先に行ってしまったんだい?」
おかしい、おかしい。絶対におかしい!
国外追放されて平民として生きるつもりだったのに! このままだと私が王妃になってしまう! どうしてそうなった、ヒロイン王太子狙いだったじゃん!
2021/07/04 カクヨム様にも投稿しました。
【完結】私を裏切った前世の婚約者と再会しました。
Rohdea
恋愛
ファルージャ王国の男爵令嬢のレティシーナは、物心ついた時から自分の前世……200年前の記憶を持っていた。
そんなレティシーナは非公認だった婚約者の伯爵令息・アルマンドとの初めての顔合わせで、衝撃を受ける。
かつての自分は同じ大陸のこことは別の国……
レヴィアタン王国の王女シャロンとして生きていた。
そして今、初めて顔を合わせたアルマンドは、
シャロンの婚約者でもあった隣国ランドゥーニ王国の王太子エミリオを彷彿とさせたから。
しかし、思い出すのはシャロンとエミリオは結ばれる事が無かったという事実。
何故なら──シャロンはエミリオに捨てられた。
そんなかつての自分を裏切った婚約者の生まれ変わりと今世で再会したレティシーナ。
当然、アルマンドとなんてうまくやっていけるはずが無い!
そう思うも、アルマンドとの婚約は正式に結ばれてしまう。
アルマンドに対して冷たく当たるも、当のアルマンドは前世の記憶があるのか無いのか分からないが、レティシーナの事をとにかく溺愛してきて……?
前世の記憶に囚われた2人が今世で手にする幸せとはーー?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる