お姉さまは最愛の人と結ばれない。

りつ

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最後の週末

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 クロエは学校をやめるつもりだったが、それは兄に言い出さなくても実現することになる。

 なぜなら伯爵の正式な妻、ラコスト夫人が修道院から帰ってくるからである。かつて夫に決して出てくるなと手を回されて縛り付けられていた彼女であるが、今はもうその主人もいない。彼女は自由であった。思う存分仇の娘に報復できるわけである。

(夫人は亡くなったお母さまの代わりにわたしをうんといじめるだろうな)

 幼い頃の記憶が蘇る。床に倒れ伏した母を感情のままに甚振っていた女性の姿を。

 あの時はただ夫人が恐ろしく得体の知れない化け物のように思っていたが、成長して物事の道理を理解した今ならば、彼女がそうなったしまった気持ちがわかる気がする。もちろんすべてではない。不倫の子から同情されるなんて本人からすれば火に油を注ぐような思いであろう。

 でもクロエはやはり自分の生まれに咎を感じていた。生まれてくるべきではないと思っていた。

 だからどんな仕打ちを与えられても、クロエは耐えようと思った。あの時の母が決して逆らわなかったように。


 退学になる前の最後の週末。クロエは外出届けを提出して街の本屋へ足を運んでいた。

(もうここへ来ることもないのか……)

 勉強についていくのは大変だったけれど、新しいことを学べるのは楽しかった。周囲のご令嬢たちもクロエの生まれに思う所があったはずだが、特に何も言わず、親切に接してくれた。何か言う子がいても、そうじゃない子もいる。わずかな間であったけれど、貴重な体験ができてよかった。

「お一人ですか」

 棚を見て気になった本を取ろうと手を伸ばした時、後ろから声をかけられた。帽子を被った、自分より年上の男性。知らない顔だった。

「いいえ、外に連れがおりますわ」

 だから他を当たってくれと言外に述べても、男はますます笑みを深めるばかりだった。

「ではよろしかったらその方もご一緒にお茶でもしませんか」

 ご馳走しますよと猫なで声で言われ、クロエは背筋に虫唾が走る。

「結構ですわ」

 急いでおりますので、と本屋を出れば男は追いかけてくる。ああ、今日はついていないとクロエは焦り始める。

「おや、お連れ様はどちらでしょう」
「っ、離して下さいっ!」
「まぁまぁ、そう言わずに、」

 無理矢理連れて行こうとする男にクロエは大声で叫びだしそうなり、ふと影が差したことに気づいた。

「すまない。俺の連れに何か用だろうか」

 大きな掌が男の手を掴み、引き離す。

「見たところ無理矢理連れ去ろうとしたように見えたが」

 クロエが振り返る前に低い声の男が言い放つ。顔は見えないけれど、迫力があるのだろう。目の前の男は情けなくひっ、と声をもらした。

「と、とんでもありません。少し道をお聞きしようと思って。でももうわかりましたから、ご用はありません。あの、では、失礼いたします!」

 しどろもどろに言い訳し、男は尻尾を巻いて逃げ出した。あまりにもあっけなく脅威が立ち去ったことで、クロエは深い安堵と共に自分の非力さを不甲斐なく感じた。

「どこも怪我していませんか」
「はい。危ない所を助けていただき、ありがとうございます」

 クロエは振り返り、男の顔を見上げた。背の高い男であった。年は自分より上に見え、低く落ち着いた声に反しては若い印象を受けた。

「失礼ですが、あなたのような方が一人でいると危ないですよ」

 短い黒髪に青の目は姉の色より暗くて深い。切れ長の目でじっとクロエを見下ろしていた。

「ごめんなさい。次から気をつけますわ」

 本当にありがとうございますと深く頭を下げれば、青年は少し慌てた声を出す。

「いえ、わかって下さればいいのです。どうか顔を上げてください」

 クロエは言われた通り顔を上げる。こういう場合、何かお礼をするべきだろうか。

(でも、)

 これ以上男性と二人きりになるのはあまり気が進まなかった。先ほどは運よく助けられたが、一歩間違えば悲惨な結果になっていたかもしれない。そう思えば改めて恐怖が這い上がってくる。

「本当にありがとうございます。これからは気をつけますわ」
「ええ。そうした方がよろしいでしょう」

 微妙な沈黙。

「では、わたしはこれで……」

 さようなら、と歩き出そうとしたクロエに待ってという声がかかる。

「お連れの方はいないのですか」
「……ええ。いないのです」

 青年の顔が曇る。クロエは慌てて、でもと付け加える。

「もう帰りますので大丈夫ですわ」
「送ります」

 えっ、と聞き返す。青年は危ないですからと続けた。

「またさっきみたいな輩に絡まれるとも限りませんから」
「でもそんな、ご迷惑ですわ」
「大丈夫です。今日は特に予定もありませんから」

 本音を言えば一人で帰りたかった。けれど青年の言うことも最もで、せっかくの親切心を無下に断るのも失礼に当たる気がした。

(彼なら信用してもいいだろうか……)

 じっと男の目を見つめる。整った顔立ちからはいまいち感情が読めない。けれど騙したり裏切ったりする性格ではないような気がした。

「では、よろしくお願いします」

 迷った末、クロエがもう一度頭を下げれば、青年は気にしないで下さいと微笑を含ませて答えた。

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