18 / 24
18、秘密
しおりを挟む
「それでは奥様、何かございましたらお呼びください」
「ええ、わかったわ」
静かに扉を閉められ、タバサが部屋から遠ざかるのを確認すると、セシリアは抽斗から四つ折りの書置きを出して机に広げて置き、次に戸棚にある箱を取り出した。
中にはもう何度も使用して、外用の靴になりつつあるルームシューズが入っている。取り出してバルコニーに置くと、今履いている部屋履きを脱ぎ、外用のものに履き替えた。
そのまま、階段を下りていく。もう怖いとは思わなかった。むしろ何かから自由になったような解放感を味わい、高揚感と期待に胸を高鳴らせた。
セシリアの脱走は、一度だけでは終わらなかった。
最初は慣れないことをやってすごく疲れたし、何よりばれたかもしれないと思って気が気ではなかった。もうこんなことはやめよう……そう思っていたのだが、二、三日経つと、また外へ出ていた。
不安や疲労があっても、あの日感じた喜びは得難かった。もう一度やりたくてたまらなかった。
二度目も成功すると、もう大丈夫だろうという自信と余裕を手に入れてセシリアは手際よく外へ出るようになった。
そしてもっと大胆になった。
(気持ちよさそう……)
太陽は毎日容赦なく熱を大地に浴びせてくる。その眩しい光は泉にも降り注ぎ、きらきらと宝石のような輝きを放っていた。
恵みの水に吸い寄せられるようにセシリアは首を覆うシャツの釦に手をかけ、気づいたら全ての服を脱ぎ捨てて泉に飛び込んでいた。
(あぁ、冷たい! 気持ちいい!)
こんなこと貴族の夫人が――若い女性がしていいことではない。
わかってはいるが、衝動は抑えられず、また禁忌だからこそ破りたかった。
冷たい水に全身を浸からせ――長い髪はさすがに乾かすのが大変なので濡れないよう気を付けて、縦横無尽に水の中を泳いでいると、今まで蓄積されていた悲しみや鬱憤が全て流れ落ちていき、自分が生まれ変わっていく気がした。
(ここにいる間は、何も気にしなくていい。わたしは平民でも貴族でもない……)
いや、人間にはもともと身分の差などないのだ。誰かが勝手に作って、それをみんなが信じて従っているだけ。魚や鳥からすれば、自分たちはみんな同じ存在、ただの人間にしか見えないのだ。
無理矢理な理屈だが、今はその真実がスッと心に入ってくる。
心ゆくまで泳いで泉から上がると、犬猫が全身をぶるぶるっと震わせて水気を飛ばすように頭を振って、ハンカチで濡れた身体を拭いた。
暑いのですぐ乾き、手早く衣服を纏う。昼寝をすると言っているので、コルセットはつけておらず、自分でも脱ぎ着できる。
(次はちゃんと拭くものを持ってきて、服ももっと簡素なものにしよう)
水浴びをするためにあれこれと考えている自分が何だかおかしい。
でも、たまらなく楽しかった。
(さぁ、急いで帰らなくちゃ)
タバサに見つからないように。彼女だけでなく、他の使用人やクライヴにも、この秘密は決してばれてはいけない。
「――最近、何か変わったことはあるか?」
「え?」
夕食時、突然そんなことをクライヴに訊かれ、セシリアは目を丸くする。
「いいえ、特には……どうしてです?」
「タバサや使用人が、きみが明るくなったと言っていた」
セシリアは微笑んで、そうですねと答えた。
「わたしのことを心配して、いろいろと気遣ってくれたおかげだと思います」
「そうか……」
「クライヴ様にも、ご心配をおかけしました」
セシリアはいつになく明るい口調でそう言った。
彼や使用人たちが指摘した通り、自分は明るくなったと思う。毎日がとても楽しい。
密かに笑みを浮かべるセシリアをクライヴはじっと見ていたが、彼女は明日のことを考えることで頭がいっぱいになり、気づかなかった。
◆
次の日もセシリアは泉に来ていた。今日はきちんとタオルも持参している。ドレスも暑いからとタバサに言って、シュミーズドレスを着せてもらった。
それらをすべて脱いで草原へ落とすと、大きな岩を支えにしながら、爪先からそっと水に浸からせていく。今日は一際暑く、早く水の中に入りたかった。
水音を立てて入水すると、セシリアは笑顔を浮かべる。そのまま魚になった心地で自由に泳ぎ回った。疲れると、半分だけ身体を陸に上がらせ、青い空を眺めて目を瞑った。そしてまた水が恋しくなったように泳ぐことを繰り返した。
どれくらいそうしていただろうか。
そろそろ上がって、後は木陰で休もうと思ったセシリアは泉から出る。
タオルに手を伸ばそうとしたところで、草を踏む音がして何気なく顔を上げ、凍り付いた。
人がいた。しかも男性で、もっとも知られてはいけない相手――クライヴだった。
「ク、クライヴ様……」
セシリアは頭の中が真っ白になった。
どうして彼がここにいるのか。一体いつから見ていたのか。
氷のような冷たい瞳で自分を見つめている。裸であることに今さら強い羞恥を覚え、ばっと胸を隠す。
「あの、クライヴ様、少しお待ちいただけますか。わたし、すぐに着替えますので……」
クライヴはセシリアの下手な時間稼ぎに一切耳を傾けず、真っ直ぐこちらへ歩いてくる。
怒られる。タバサたちを欺いて、嘘をついて、こんな場所まで来てしまったから。公爵家の、クライヴの妻であるのに、裸になって泳いでいたりしたから……。
セシリアは怖くなって、無意識に後ろへ下がっていた。いっそ水の中へ逃げ込んでしまおうと思い、身体の向きを変えるが、恐怖と焦りで足がもつれ、身体が傾く。幸い、目の前は水面だ。どうせならもうこのまま泉へ飛び込んでしまおうと覚悟を決めるが、ぐいっとセシリアは腕を引っ張られ、腰を引き寄せられる。
気づけば、クライヴの胸に頬を押し当てて、抱きしめられていた。
「ええ、わかったわ」
静かに扉を閉められ、タバサが部屋から遠ざかるのを確認すると、セシリアは抽斗から四つ折りの書置きを出して机に広げて置き、次に戸棚にある箱を取り出した。
中にはもう何度も使用して、外用の靴になりつつあるルームシューズが入っている。取り出してバルコニーに置くと、今履いている部屋履きを脱ぎ、外用のものに履き替えた。
そのまま、階段を下りていく。もう怖いとは思わなかった。むしろ何かから自由になったような解放感を味わい、高揚感と期待に胸を高鳴らせた。
セシリアの脱走は、一度だけでは終わらなかった。
最初は慣れないことをやってすごく疲れたし、何よりばれたかもしれないと思って気が気ではなかった。もうこんなことはやめよう……そう思っていたのだが、二、三日経つと、また外へ出ていた。
不安や疲労があっても、あの日感じた喜びは得難かった。もう一度やりたくてたまらなかった。
二度目も成功すると、もう大丈夫だろうという自信と余裕を手に入れてセシリアは手際よく外へ出るようになった。
そしてもっと大胆になった。
(気持ちよさそう……)
太陽は毎日容赦なく熱を大地に浴びせてくる。その眩しい光は泉にも降り注ぎ、きらきらと宝石のような輝きを放っていた。
恵みの水に吸い寄せられるようにセシリアは首を覆うシャツの釦に手をかけ、気づいたら全ての服を脱ぎ捨てて泉に飛び込んでいた。
(あぁ、冷たい! 気持ちいい!)
こんなこと貴族の夫人が――若い女性がしていいことではない。
わかってはいるが、衝動は抑えられず、また禁忌だからこそ破りたかった。
冷たい水に全身を浸からせ――長い髪はさすがに乾かすのが大変なので濡れないよう気を付けて、縦横無尽に水の中を泳いでいると、今まで蓄積されていた悲しみや鬱憤が全て流れ落ちていき、自分が生まれ変わっていく気がした。
(ここにいる間は、何も気にしなくていい。わたしは平民でも貴族でもない……)
いや、人間にはもともと身分の差などないのだ。誰かが勝手に作って、それをみんなが信じて従っているだけ。魚や鳥からすれば、自分たちはみんな同じ存在、ただの人間にしか見えないのだ。
無理矢理な理屈だが、今はその真実がスッと心に入ってくる。
心ゆくまで泳いで泉から上がると、犬猫が全身をぶるぶるっと震わせて水気を飛ばすように頭を振って、ハンカチで濡れた身体を拭いた。
暑いのですぐ乾き、手早く衣服を纏う。昼寝をすると言っているので、コルセットはつけておらず、自分でも脱ぎ着できる。
(次はちゃんと拭くものを持ってきて、服ももっと簡素なものにしよう)
水浴びをするためにあれこれと考えている自分が何だかおかしい。
でも、たまらなく楽しかった。
(さぁ、急いで帰らなくちゃ)
タバサに見つからないように。彼女だけでなく、他の使用人やクライヴにも、この秘密は決してばれてはいけない。
「――最近、何か変わったことはあるか?」
「え?」
夕食時、突然そんなことをクライヴに訊かれ、セシリアは目を丸くする。
「いいえ、特には……どうしてです?」
「タバサや使用人が、きみが明るくなったと言っていた」
セシリアは微笑んで、そうですねと答えた。
「わたしのことを心配して、いろいろと気遣ってくれたおかげだと思います」
「そうか……」
「クライヴ様にも、ご心配をおかけしました」
セシリアはいつになく明るい口調でそう言った。
彼や使用人たちが指摘した通り、自分は明るくなったと思う。毎日がとても楽しい。
密かに笑みを浮かべるセシリアをクライヴはじっと見ていたが、彼女は明日のことを考えることで頭がいっぱいになり、気づかなかった。
◆
次の日もセシリアは泉に来ていた。今日はきちんとタオルも持参している。ドレスも暑いからとタバサに言って、シュミーズドレスを着せてもらった。
それらをすべて脱いで草原へ落とすと、大きな岩を支えにしながら、爪先からそっと水に浸からせていく。今日は一際暑く、早く水の中に入りたかった。
水音を立てて入水すると、セシリアは笑顔を浮かべる。そのまま魚になった心地で自由に泳ぎ回った。疲れると、半分だけ身体を陸に上がらせ、青い空を眺めて目を瞑った。そしてまた水が恋しくなったように泳ぐことを繰り返した。
どれくらいそうしていただろうか。
そろそろ上がって、後は木陰で休もうと思ったセシリアは泉から出る。
タオルに手を伸ばそうとしたところで、草を踏む音がして何気なく顔を上げ、凍り付いた。
人がいた。しかも男性で、もっとも知られてはいけない相手――クライヴだった。
「ク、クライヴ様……」
セシリアは頭の中が真っ白になった。
どうして彼がここにいるのか。一体いつから見ていたのか。
氷のような冷たい瞳で自分を見つめている。裸であることに今さら強い羞恥を覚え、ばっと胸を隠す。
「あの、クライヴ様、少しお待ちいただけますか。わたし、すぐに着替えますので……」
クライヴはセシリアの下手な時間稼ぎに一切耳を傾けず、真っ直ぐこちらへ歩いてくる。
怒られる。タバサたちを欺いて、嘘をついて、こんな場所まで来てしまったから。公爵家の、クライヴの妻であるのに、裸になって泳いでいたりしたから……。
セシリアは怖くなって、無意識に後ろへ下がっていた。いっそ水の中へ逃げ込んでしまおうと思い、身体の向きを変えるが、恐怖と焦りで足がもつれ、身体が傾く。幸い、目の前は水面だ。どうせならもうこのまま泉へ飛び込んでしまおうと覚悟を決めるが、ぐいっとセシリアは腕を引っ張られ、腰を引き寄せられる。
気づけば、クライヴの胸に頬を押し当てて、抱きしめられていた。
299
あなたにおすすめの小説
最悪なお見合いと、執念の再会
当麻月菜
恋愛
伯爵令嬢のリシャーナ・エデュスは学生時代に、隣国の第七王子ガルドシア・フェ・エデュアーレから告白された。
しかし彼は留学期間限定の火遊び相手を求めていただけ。つまり、真剣に悩んだあの頃の自分は黒歴史。抹消したい過去だった。
それから一年後。リシャーナはお見合いをすることになった。
相手はエルディック・アラド。侯爵家の嫡男であり、かつてリシャーナに告白をしたクズ王子のお目付け役で、黒歴史を知るただ一人の人。
最低最悪なお見合い。でも、もう片方は執念の再会ーーの始まり始まり。
愛しい人、あなたは王女様と幸せになってください
無憂
恋愛
クロエの婚約者は銀の髪の美貌の騎士リュシアン。彼はレティシア王女とは幼馴染で、今は護衛騎士だ。二人は愛し合い、クロエは二人を引き裂くお邪魔虫だと噂されている。王女のそばを離れないリュシアンとは、ここ数年、ろくな会話もない。愛されない日々に疲れたクロエは、婚約を破棄することを決意し、リュシアンに通告したのだが――
愛されないと吹っ切れたら騎士の旦那様が豹変しました
蜂蜜あやね
恋愛
隣国オデッセアから嫁いできたマリーは次期公爵レオンの妻となる。初夜は真っ暗闇の中で。
そしてその初夜以降レオンはマリーを1年半もの長い間抱くこともしなかった。
どんなに求めても無視され続ける日々についにマリーの糸はプツリと切れる。
離縁するならレオンの方から、私の方からは離縁は絶対にしない。負けたくない!
夫を諦めて吹っ切れた妻と妻のもう一つの姿に惹かれていく夫の遠回り恋愛(結婚)ストーリー
※本作には、性的行為やそれに準ずる描写、ならびに一部に性加害的・非合意的と受け取れる表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。
※ムーンライトノベルズでも投稿している同一作品です。
勘違い妻は騎士隊長に愛される。
更紗
恋愛
政略結婚後、退屈な毎日を送っていたレオノーラの前に現れた、旦那様の元カノ。
ああ なるほど、身分違いの恋で引き裂かれたから別れてくれと。よっしゃそんなら離婚して人生軌道修正いたしましょう!とばかりに勢い込んで旦那様に離縁を勧めてみたところ――
あれ?何か怒ってる?
私が一体何をした…っ!?なお話。
有り難い事に書籍化の運びとなりました。これもひとえに読んで下さった方々のお蔭です。本当に有難うございます。
※本編完結後、脇役キャラの外伝を連載しています。本編自体は終わっているので、その都度完結表示になっております。ご了承下さい。
好きな男子と付き合えるなら罰ゲームの嘘告白だって嬉しいです。なのにネタばらしどころか、遠恋なんて嫌だ、結婚してくれと泣かれて困惑しています。
石河 翠
恋愛
ずっと好きだったクラスメイトに告白された、高校2年生の山本めぐみ。罰ゲームによる嘘告白だったが、それを承知の上で、彼女は告白にOKを出した。好きなひとと付き合えるなら、嘘告白でも幸せだと考えたからだ。
すぐにフラれて笑いものにされると思っていたが、失恋するどころか大切にされる毎日。ところがある日、めぐみが海外に引っ越すと勘違いした相手が、別れたくない、どうか結婚してくれと突然泣きついてきて……。
なんだかんだ今の関係を最大限楽しんでいる、意外と図太いヒロインと、くそ真面目なせいで盛大に空振りしてしまっている残念イケメンなヒーローの恋物語。ハッピーエンドです。
この作品は、他サイトにも投稿しております。
扉絵は、写真ACよりhimawariinさまの作品をお借りしております。
転移先で日本語を読めるというだけで最強の男に囚われました
桜あずみ
恋愛
異世界に転移して2年。
言葉も話せなかったこの国で、必死に努力して、やっとこの世界に馴染んできた。
しかし、ただ一つ、抜けなかった癖がある。
──ふとした瞬間に、日本語でメモを取ってしまうこと。
その一行が、彼の目に留まった。
「この文字を書いたのは、あなたですか?」
美しく、完璧で、どこか現実離れした男。
日本語という未知の文字に強い関心を示した彼は、やがて、少しずつ距離を詰めてくる。
最初はただの好奇心だと思っていた。
けれど、気づけば私は彼の手の中にいた。
彼の正体も、本当の目的も知らないまま。すべてを知ったときには、もう逃げられなかった。
毎日19時に更新予定です。
「君以外を愛する気は無い」と婚約者様が溺愛し始めたので、異世界から聖女が来ても大丈夫なようです。
海空里和
恋愛
婚約者のアシュリー第二王子にべた惚れなステラは、彼のために努力を重ね、剣も魔法もトップクラス。彼にも隠すことなく、重い恋心をぶつけてきた。
アシュリーも、そんなステラの愛を静かに受け止めていた。
しかし、この国は20年に一度聖女を召喚し、皇太子と結婚をする。アシュリーは、この国の皇太子。
「たとえ聖女様にだって、アシュリー様は渡さない!」
聖女と勝負してでも彼を渡さないと思う一方、ステラはアシュリーに切り捨てられる覚悟をしていた。そんなステラに、彼が告げたのは意外な言葉で………。
※本編は全7話で完結します。
※こんなお話が書いてみたくて、勢いで書き上げたので、設定が緩めです。
初恋をこじらせたやさぐれメイドは、振られたはずの騎士さまに求婚されました。
石河 翠
恋愛
騎士団の寮でメイドとして働いている主人公。彼女にちょっかいをかけてくる騎士がいるものの、彼女は彼をあっさりといなしていた。それというのも、彼女は5年前に彼に振られてしまっていたからだ。ところが、彼女を振ったはずの騎士から突然求婚されてしまう。しかも彼は、「振ったつもりはなかった」のだと言い始めて……。
色気たっぷりのイケメンのくせに、大事な部分がポンコツなダメンズ騎士と、初恋をこじらせたあげくやさぐれてしまったメイドの恋物語。
*この作品のヒーローはダメンズ、ヒロインはダメンズ好きです。苦手な方はご注意ください
この作品は、小説家になろう及びエブリスタにも投稿しております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる