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第1章 見守る影
2、思い出す場所
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『昭和酒場たそがれ』の暖簾をくぐると、少し甘いアルコールと、焼き物の匂いが混ざった空気が流れてきた。
「いらっしゃ——」
顔を上げた店長が、すぐに笑う。
「おお、結奈ちゃんかい?」
「こんばんは、おっちゃん」
木のカウンター。
年季の入った丸椅子。
壁にかかった、少し進んだ時計。
ここだけは、レイヤーの中でも時間の流れが緩い。
「今日は一人かい?」
「いえ、あとから来ます」
「ほうほう。例の彼氏さんだな」
おっちゃんは勝手に話を進める。
「来週だっけ? 式。
早いもんだなあ、結奈ちゃんが花嫁だなんて」
結奈は小さく笑った。
「まだ、実感ないです」
「そんなもんだ。
でもな——」
おっちゃんは、湯呑みを置きながら少し声を落とす。
「ここは不思議な店でな。
人が、大事なことを思い出す場所なんだ」
結奈は一瞬だけ胸がざわついた。
「……大事なこと、ですか?」
「そうそう。
忘れちゃいけねえ約束とか」
それ以上おっちゃんは語らなかった。
まるで、そこまでが決まりごとのように。
そのとき。
暖簾がまた揺れた。
「遅れてごめん」
振り返ると透が立っていた。
仕事帰りのままの服装。
少しだけ息を切らしている。
「大丈夫。私も今来たところ」
透は、結奈の顔を見るとほっとしたように笑った。
久世透は、レイヤー都市設計補助エンジニアをしている。
都市ラウンジの環境調整、個人の記憶に反応する空間の安定化、結婚式場・追悼空間・再会ラウンジなどの設計補助を行なっている。
ロンドン崩落事故の余波は、想定していたよりもはるかに広範囲に及んでいた。
透は事故直後から、ほとんど眠らないまま管理層ラウンジの再建対応に追われていた。
崩落したのは仮想空間の一都市にすぎない――そう言い切るには、被害はあまりにも現実的だった。
仮想空間上で発生した災害により、ロンドン・レイヤーに滞在していた住民の多くが、警告も十分に届かないまま強制ログアウトを余儀なくされた。
接続が切断された瞬間の混乱、視界が裂けるように暗転する感覚、戻ろうとしても戻れないラウンジ。
それらは「事故」ではなく、「体験」として、深く記憶に刻まれてしまった。
ラウンジは一時的に封鎖され、再開の目処は立たない。
その事実が、住民たちの不安をさらに煽った。
――次は自分のいるレイヤーが落ちるのではないか。
――この世界は、本当に安定しているのか。
管理層への信頼は揺らぎ、空間そのものへの恐怖が、静かに、しかし確実に広がっていった。
悪夢を見る者、ログイン画面を開くだけで手が震える者、仮想空間に戻ることを拒否する者。
PTSDと診断されるケースも少なくなかった。
そして、結奈の母親、真里奈も同じくして、そうした住民たちの精神的ケアの対応に追われていた。
個別のカウンセリング、緊急窓口の設置、感情ログの解析――
数字やデータでは測れない「恐怖」を、どう受け止めるかが問われていた。
ラウンジの再建と、住民の心の再建。
久世も真里奈も、それぞれ別の場所にいながら、同じ崩落の重さを背負っていた。
壊れたのは都市だけではない。
この世界が「安全である」という前提そのものが、静かにひび割れていた。
「よかった」
と、透は返す。
「いらっしゃい、透くん」
おっちゃんがにやりとする。
「今日は、二人でゆっくりしていきな」
結奈は、透の隣に腰を下ろした。
カウンター越しに並ぶ視線。
湯気の立つ料理。
変わらない店内。
それなのに。
時計の針が、ほんの一瞬だけ止まったような気がした。
私は気づかないふりをした。
——この夜が、
ただの“いつもの時間”であってほしかったから。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
料理が運ばれてくる。
いつもと同じ皿、同じ匂い。
「仕事、大変だった?」
「まあね。でも、今日は早く切り上げた」
透はそう言って、グラスを傾けた。
私はその横顔を見ながら、ふと背中の奥がひやりとした。
——視線。
誰かに見られている。
でも店内はいつも通りだ。
おっちゃんはカウンターの向こうで、のんびりと動いている。
他の客も、笑い声を立てている。
「どうした?」
透が、私の表情に気づいた。
「……ううん。なんでもない」
本当はなんでもなくなかった。
壁の時計を見る。
針は進んでいる。
なのに、進み方が少しだけ不自然だ。
一秒ごとに刻むはずの音が、ときどき欠ける。
透は気づいていない。
グラスの氷を鳴らしながら、楽しそうに話している。
「式場、最終確認しなきゃな。
来週って、あっという間だ」
「……うん」
返事をしながら、私はカウンターの木目に視線を落とす。
そこに、一瞬だけ——
知らない文字列が浮かんだ。
数フレーム分。
すぐに消える。
(今の……)
私は思わず瞬きをした。
「結奈?」
透の声で、現実に引き戻される。
「大丈夫?」
「……大丈夫」
私は笑った。
ちゃんと笑えていたと思う。
でも。
透の背後。
暖簾の向こう。
店の奥。
そこに、“何もいないはずの空間”が、ほんのわずかに歪んで見えた。
——観測されている。
理由も、意味もわからない。
ただ確信だけがあった。
透はまだ知らない。
この夜が、もう「いつも」ではないことを。
そして私は、それを言葉にしないまま、グラスを口に運んだ。
時計の針が、またひとつ音を立てずに進んだ。
グラスを置いた拍子に、ふと壁の時計が目に入った。
古い丸時計。
数字の縁が少し欠けている。
——21時47分。
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
(……違う)
私は、記憶をなぞる。
父・朝霧雅人の死亡記録。
公式に記されていた時刻。
21時47分。
同じだ。
偶然だと思おうとした。
時計なんてどこにでもある。
時間が重なることだってある。
でも。
秒針が止まった。
ぴたりと、完全に。
「……?」
透はまだ話している。
おっちゃんも、湯呑みを拭いている。
誰も気づかない。
秒針は動かないまま。
まるで、その時刻を固定するみたいに。
(やめて)
私は心の中で呟いた。
父が亡くなった時刻。
8歳の私が知らされなかった瞬間。
——その時間が、今この酒屋に再現されている。
視線を逸らそうとしてできなかった。
時計のガラスに、自分の顔が映る。
その奥にもう一つ、重なった影が見えた気がした。
誰かが私の後ろに立っている。
でも、振り返らない。
振り返ってはいけない気がした。
秒針がまた動き出す。
かち、かち、と。
何事もなかったように。
「結奈?」
透の声が少し近くなる。
「ほんとに、大丈夫?」
「……うん」
私は深く息を吸った。
「ちょっと、空気吸ってくるね」
立ち上がると、背中に視線が張り付いたままだった。
時計は、もう普通に動いている。
でも私は知ってしまった。
この酒屋は、父の時間と私の時間が重なる場所だということを。
そしてきっと——
誰かが、それを見せた。
私は暖簾に手を伸ばした。
この夜は、もう戻れないところまで来ている。
暖簾を押し分けた瞬間、夜の空気がひやりと頬に触れた。
昭和風の酒屋が並ぶ通り。
ネオンは控えめで、人通りもいつもより少ない。
——静かすぎる。
私は足を止めた。
音が足りない。
遠くを走る車の音も、どこかで鳴るはずの笑い声も、すべて薄い膜の向こう側にあるみたいだった。
「……誰か、いる?」
声に出した瞬間、自分の声だけが妙に鮮明に返ってきた。
背後で、暖簾が揺れる。
振り返る。
誰もいない。
なのに。
——見られている。
今度ははっきりしていた。
視線は正面でも背後でもない。
空間そのものから向けられている。
心臓が早くなる。
(……研究フロアと、同じ)
参照ログを調べていた時。
父のデータに、存在しないはずの痕跡を見つけた瞬間。
あの時と、同じ感覚。
「……パパ?」
口をついて出た名前に、自分でも驚いた。
答えはない。
ただ空気がわずかに揺らぐ。
目の前の街並みが、ほんの一瞬だけ別の構造を見せた。
石畳の下に、幾何学的な光のライン。
建物の影が、設計図のように分解される。
——レイヤー。
私たちが暮らしているこの世界の、下層。
「……観測されてる」
誰かが私を見ている。
でもそれは追跡じゃない。
確かめるような視線。
私は無意識にポケットの中のID端末を握りしめた。
その瞬間。
背後から足音。
「結奈?」
透の声。
振り返ると、さっきまでの違和感がすっと引いた。
夜の音が戻る。
ネオンが普通に瞬く。
「どうしたんだ? 急に出て」
「……ちょっと息が詰まって」
嘘ではなかった。
私はもう一度酒屋の前を見た。
暖簾は何事もなかったように揺れている。
でも、私は知っている。
ここには、誰もいないはずの“何か”が確かにいた。
それは父ではない。
透でもない。
もっと遠くて、もっと深い場所から私を見ている存在。
そしてきっと——
この違和感は、もう引き返せないところまで来ている。
私は透に微笑んだ。
「戻ろう」
この夜が、“観測された最初の夜”になることを、まだ言葉にできないまま。
暖簾をくぐると、酒屋の中は相変わらず時間が止まったみたいだった。
木のカウンター。
壁に貼られた色褪せたポスター。
ラジオから流れる、少し古い歌謡曲。
「お、戻ったかい」
カウンターの向こうで、おっちゃんがいつもの笑顔を向けてきた。
「どうしたんだい、顔色悪いぞ?」
「ちょっと外が静かすぎて」
私がそう言うと、透が「気のせいだよ」と軽く笑って隣に腰掛ける。
おっちゃんは、徳利を置く手を止めて、一瞬だけ私の顔をじっと見た。
その視線が——
さっき感じた“観測”と、重なった気がした。
「……結奈ちゃん」
おっちゃんは、声の調子を落とした。
「最近、あんた、よく来るようになったな」
「研究が忙しくて。
でも、ここ来ると落ち着くから」
「そうかい」
おっちゃんは、少し間を置いてから言った。
「しかしまあ……不思議な縁だねぇ。
二人とも若いのに、落ち着いてる」
結奈が少し照れたように笑う。
「落ち着いて見えるだけですよ。
仕事柄、そういう顔してるだけです」
「仕事ねぇ。
あんまり無理しちゃいけないよ」
軽い口調で思いやって、おっちゃんは透の方を見る。
「透くんは、いつ頃から結奈ちゃんと?」
透はグラスを置き、少し考えてから答えた。
「結奈が、レイヤーの研究部門に配属された頃です。
最初は……正直、仕事仲間でした」
「ほうほう」
おっちゃんは興味津々だ。
「じゃあ、惚れたきっかけってやつは?」
透は一瞬、結奈を見る。
結奈は何も言わず、ただ待っている。
「……結奈が、お父さんの話をするときです」
「亡くなったって聞いたけど?」
「はい」
透は頷く。
「でも結奈は、過去形にしないんです」
結奈は、グラスの縁をなぞりながら小さく言う。
「“いなくなった”とは言うけど、“終わった”とは、言いたくなくて」
透は続ける。
「悲劇としてじゃなくて、今も一緒に生きてるみたいに話す。
それが……すごく、まっすぐで」
おっちゃんは黙って聞いていたが、やがてぽつりと訊いた。
「透くんは……?」
透は一度、視線を落とす。
「俺は、幼い頃に現実世界で両親を亡くしました。
だから、最初は思ったんです。
いつか区切りをつけなきゃ、って」
結奈は透の方を見る。
透は微笑んだ。
「でも、結奈を見てて分かりました。
区切らなくてもいい記憶があるって」
おっちゃんは、静かに息を吐いた。
「……なるほどねぇ」
そして、少しだけ声を明るくする。
「だから一緒に、ここに来るようになったのかい」
結奈が頷く。
しばらくして、おっちゃんは深い表情を浮かべて言う。
「結奈ちゃん……お父さんのこと、調べてるんだろ」
箸が、止まった。
透が驚いたように、私を見る。
「え?」
「……どうして、それを」
おっちゃんはふうっと息を吐いた。
「長いことこの店やってるとね。
いろんな人の“残り香”が分かるようになる」
冗談みたいな言い方なのに、目だけは冗談じゃなかった。
「でもな」
おっちゃんははっきり言った。
「結奈ちゃんの父親——
もうこの世界にはいない」
胸の奥で、何かが軋んだ。
「……知ってます」
私は静かに答えた。
「8歳の時に亡くなりました。
レイヤー創成期の実験中の突然死」
おっちゃんは首を横に振る。
「“亡くなった”ってのは事実だ」
そこまでは同じ。
「けどな……
いなくなり方が普通じゃない」
透が身を乗り出した。
「どういう意味ですか?」
おっちゃんは、カウンターの下から古いグラスを取り出し、何も注がずに磨き始める。
「ここにはな」
——キュッ、キュッ、と布の音。
「死んだ人は入ってこねぇ」
心臓が強く打った。
「夢も、未練も、思い出もな。
生きてる側が勝手に連れてくるもんだ」
私は思わず息を呑んだ。
「でも、結奈ちゃん。
あんたの父親の“気配”は——」
布を置いて、おっちゃんは私をまっすぐ見た。
「生きてる側のものじゃない」
店内の音が、遠のく。
ラジオの歌声が、歪む。
「それって……」
私の声は、震えていた。
「父が、どこかに——」
「いや」
おっちゃんは、きっぱりと遮った。
「期待するな」
その言葉が、逆に現実味を帯びさせた。
「亡くなってる。
それは間違いない」
でも。
「ただし」
その一言で空気が変わる。
「この世界の“奥”に、触れちまった人間はな
完全には消えねぇことがある」
私は思い出していた。
研究フロアで見つけた、存在しないはずの参照痕跡。
暖簾の外で感じた、誰もいないはずの視線。
「……私、見られてますよね」
ぽつりと零すと、おっちゃんは苦笑した。
「さあな」
そして意味ありげに言った。
「でもよ、結奈ちゃん。
見られてるのは、あんただけじゃねぇ」
透が私の手を握る。
「結奈……」
私はその温もりに縋りながら確信していた。
父は確かに亡くなっている。
それは、変わらない。
それでも——
何かがまだ終わっていない。
おっちゃんは、徳利を置きながら最後にこう言った。
「深追いするなら覚悟しな。
この世界は、“知ろうとした瞬間”から、
ちゃんと見返してくる」
私は頷いた。
もう引き返すつもりはなかった。
この違和感の先に、父の“真実”があるのなら。
たとえそれが、世界の裏側だったとしても。
やがて、結奈と透は立ち上がる。
その背中を、おっちゃんはいつもの声で送り出す。
「二人とも、何かあったらまた来な。
いいおつまみでも用意して待ってっからよ」
二人は同時に頭を下げた。
暖簾が揺れ、その後に続く“もう一つの再会”へと、夜は静かに繋がっていく。
「いらっしゃ——」
顔を上げた店長が、すぐに笑う。
「おお、結奈ちゃんかい?」
「こんばんは、おっちゃん」
木のカウンター。
年季の入った丸椅子。
壁にかかった、少し進んだ時計。
ここだけは、レイヤーの中でも時間の流れが緩い。
「今日は一人かい?」
「いえ、あとから来ます」
「ほうほう。例の彼氏さんだな」
おっちゃんは勝手に話を進める。
「来週だっけ? 式。
早いもんだなあ、結奈ちゃんが花嫁だなんて」
結奈は小さく笑った。
「まだ、実感ないです」
「そんなもんだ。
でもな——」
おっちゃんは、湯呑みを置きながら少し声を落とす。
「ここは不思議な店でな。
人が、大事なことを思い出す場所なんだ」
結奈は一瞬だけ胸がざわついた。
「……大事なこと、ですか?」
「そうそう。
忘れちゃいけねえ約束とか」
それ以上おっちゃんは語らなかった。
まるで、そこまでが決まりごとのように。
そのとき。
暖簾がまた揺れた。
「遅れてごめん」
振り返ると透が立っていた。
仕事帰りのままの服装。
少しだけ息を切らしている。
「大丈夫。私も今来たところ」
透は、結奈の顔を見るとほっとしたように笑った。
久世透は、レイヤー都市設計補助エンジニアをしている。
都市ラウンジの環境調整、個人の記憶に反応する空間の安定化、結婚式場・追悼空間・再会ラウンジなどの設計補助を行なっている。
ロンドン崩落事故の余波は、想定していたよりもはるかに広範囲に及んでいた。
透は事故直後から、ほとんど眠らないまま管理層ラウンジの再建対応に追われていた。
崩落したのは仮想空間の一都市にすぎない――そう言い切るには、被害はあまりにも現実的だった。
仮想空間上で発生した災害により、ロンドン・レイヤーに滞在していた住民の多くが、警告も十分に届かないまま強制ログアウトを余儀なくされた。
接続が切断された瞬間の混乱、視界が裂けるように暗転する感覚、戻ろうとしても戻れないラウンジ。
それらは「事故」ではなく、「体験」として、深く記憶に刻まれてしまった。
ラウンジは一時的に封鎖され、再開の目処は立たない。
その事実が、住民たちの不安をさらに煽った。
――次は自分のいるレイヤーが落ちるのではないか。
――この世界は、本当に安定しているのか。
管理層への信頼は揺らぎ、空間そのものへの恐怖が、静かに、しかし確実に広がっていった。
悪夢を見る者、ログイン画面を開くだけで手が震える者、仮想空間に戻ることを拒否する者。
PTSDと診断されるケースも少なくなかった。
そして、結奈の母親、真里奈も同じくして、そうした住民たちの精神的ケアの対応に追われていた。
個別のカウンセリング、緊急窓口の設置、感情ログの解析――
数字やデータでは測れない「恐怖」を、どう受け止めるかが問われていた。
ラウンジの再建と、住民の心の再建。
久世も真里奈も、それぞれ別の場所にいながら、同じ崩落の重さを背負っていた。
壊れたのは都市だけではない。
この世界が「安全である」という前提そのものが、静かにひび割れていた。
「よかった」
と、透は返す。
「いらっしゃい、透くん」
おっちゃんがにやりとする。
「今日は、二人でゆっくりしていきな」
結奈は、透の隣に腰を下ろした。
カウンター越しに並ぶ視線。
湯気の立つ料理。
変わらない店内。
それなのに。
時計の針が、ほんの一瞬だけ止まったような気がした。
私は気づかないふりをした。
——この夜が、
ただの“いつもの時間”であってほしかったから。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
料理が運ばれてくる。
いつもと同じ皿、同じ匂い。
「仕事、大変だった?」
「まあね。でも、今日は早く切り上げた」
透はそう言って、グラスを傾けた。
私はその横顔を見ながら、ふと背中の奥がひやりとした。
——視線。
誰かに見られている。
でも店内はいつも通りだ。
おっちゃんはカウンターの向こうで、のんびりと動いている。
他の客も、笑い声を立てている。
「どうした?」
透が、私の表情に気づいた。
「……ううん。なんでもない」
本当はなんでもなくなかった。
壁の時計を見る。
針は進んでいる。
なのに、進み方が少しだけ不自然だ。
一秒ごとに刻むはずの音が、ときどき欠ける。
透は気づいていない。
グラスの氷を鳴らしながら、楽しそうに話している。
「式場、最終確認しなきゃな。
来週って、あっという間だ」
「……うん」
返事をしながら、私はカウンターの木目に視線を落とす。
そこに、一瞬だけ——
知らない文字列が浮かんだ。
数フレーム分。
すぐに消える。
(今の……)
私は思わず瞬きをした。
「結奈?」
透の声で、現実に引き戻される。
「大丈夫?」
「……大丈夫」
私は笑った。
ちゃんと笑えていたと思う。
でも。
透の背後。
暖簾の向こう。
店の奥。
そこに、“何もいないはずの空間”が、ほんのわずかに歪んで見えた。
——観測されている。
理由も、意味もわからない。
ただ確信だけがあった。
透はまだ知らない。
この夜が、もう「いつも」ではないことを。
そして私は、それを言葉にしないまま、グラスを口に運んだ。
時計の針が、またひとつ音を立てずに進んだ。
グラスを置いた拍子に、ふと壁の時計が目に入った。
古い丸時計。
数字の縁が少し欠けている。
——21時47分。
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
(……違う)
私は、記憶をなぞる。
父・朝霧雅人の死亡記録。
公式に記されていた時刻。
21時47分。
同じだ。
偶然だと思おうとした。
時計なんてどこにでもある。
時間が重なることだってある。
でも。
秒針が止まった。
ぴたりと、完全に。
「……?」
透はまだ話している。
おっちゃんも、湯呑みを拭いている。
誰も気づかない。
秒針は動かないまま。
まるで、その時刻を固定するみたいに。
(やめて)
私は心の中で呟いた。
父が亡くなった時刻。
8歳の私が知らされなかった瞬間。
——その時間が、今この酒屋に再現されている。
視線を逸らそうとしてできなかった。
時計のガラスに、自分の顔が映る。
その奥にもう一つ、重なった影が見えた気がした。
誰かが私の後ろに立っている。
でも、振り返らない。
振り返ってはいけない気がした。
秒針がまた動き出す。
かち、かち、と。
何事もなかったように。
「結奈?」
透の声が少し近くなる。
「ほんとに、大丈夫?」
「……うん」
私は深く息を吸った。
「ちょっと、空気吸ってくるね」
立ち上がると、背中に視線が張り付いたままだった。
時計は、もう普通に動いている。
でも私は知ってしまった。
この酒屋は、父の時間と私の時間が重なる場所だということを。
そしてきっと——
誰かが、それを見せた。
私は暖簾に手を伸ばした。
この夜は、もう戻れないところまで来ている。
暖簾を押し分けた瞬間、夜の空気がひやりと頬に触れた。
昭和風の酒屋が並ぶ通り。
ネオンは控えめで、人通りもいつもより少ない。
——静かすぎる。
私は足を止めた。
音が足りない。
遠くを走る車の音も、どこかで鳴るはずの笑い声も、すべて薄い膜の向こう側にあるみたいだった。
「……誰か、いる?」
声に出した瞬間、自分の声だけが妙に鮮明に返ってきた。
背後で、暖簾が揺れる。
振り返る。
誰もいない。
なのに。
——見られている。
今度ははっきりしていた。
視線は正面でも背後でもない。
空間そのものから向けられている。
心臓が早くなる。
(……研究フロアと、同じ)
参照ログを調べていた時。
父のデータに、存在しないはずの痕跡を見つけた瞬間。
あの時と、同じ感覚。
「……パパ?」
口をついて出た名前に、自分でも驚いた。
答えはない。
ただ空気がわずかに揺らぐ。
目の前の街並みが、ほんの一瞬だけ別の構造を見せた。
石畳の下に、幾何学的な光のライン。
建物の影が、設計図のように分解される。
——レイヤー。
私たちが暮らしているこの世界の、下層。
「……観測されてる」
誰かが私を見ている。
でもそれは追跡じゃない。
確かめるような視線。
私は無意識にポケットの中のID端末を握りしめた。
その瞬間。
背後から足音。
「結奈?」
透の声。
振り返ると、さっきまでの違和感がすっと引いた。
夜の音が戻る。
ネオンが普通に瞬く。
「どうしたんだ? 急に出て」
「……ちょっと息が詰まって」
嘘ではなかった。
私はもう一度酒屋の前を見た。
暖簾は何事もなかったように揺れている。
でも、私は知っている。
ここには、誰もいないはずの“何か”が確かにいた。
それは父ではない。
透でもない。
もっと遠くて、もっと深い場所から私を見ている存在。
そしてきっと——
この違和感は、もう引き返せないところまで来ている。
私は透に微笑んだ。
「戻ろう」
この夜が、“観測された最初の夜”になることを、まだ言葉にできないまま。
暖簾をくぐると、酒屋の中は相変わらず時間が止まったみたいだった。
木のカウンター。
壁に貼られた色褪せたポスター。
ラジオから流れる、少し古い歌謡曲。
「お、戻ったかい」
カウンターの向こうで、おっちゃんがいつもの笑顔を向けてきた。
「どうしたんだい、顔色悪いぞ?」
「ちょっと外が静かすぎて」
私がそう言うと、透が「気のせいだよ」と軽く笑って隣に腰掛ける。
おっちゃんは、徳利を置く手を止めて、一瞬だけ私の顔をじっと見た。
その視線が——
さっき感じた“観測”と、重なった気がした。
「……結奈ちゃん」
おっちゃんは、声の調子を落とした。
「最近、あんた、よく来るようになったな」
「研究が忙しくて。
でも、ここ来ると落ち着くから」
「そうかい」
おっちゃんは、少し間を置いてから言った。
「しかしまあ……不思議な縁だねぇ。
二人とも若いのに、落ち着いてる」
結奈が少し照れたように笑う。
「落ち着いて見えるだけですよ。
仕事柄、そういう顔してるだけです」
「仕事ねぇ。
あんまり無理しちゃいけないよ」
軽い口調で思いやって、おっちゃんは透の方を見る。
「透くんは、いつ頃から結奈ちゃんと?」
透はグラスを置き、少し考えてから答えた。
「結奈が、レイヤーの研究部門に配属された頃です。
最初は……正直、仕事仲間でした」
「ほうほう」
おっちゃんは興味津々だ。
「じゃあ、惚れたきっかけってやつは?」
透は一瞬、結奈を見る。
結奈は何も言わず、ただ待っている。
「……結奈が、お父さんの話をするときです」
「亡くなったって聞いたけど?」
「はい」
透は頷く。
「でも結奈は、過去形にしないんです」
結奈は、グラスの縁をなぞりながら小さく言う。
「“いなくなった”とは言うけど、“終わった”とは、言いたくなくて」
透は続ける。
「悲劇としてじゃなくて、今も一緒に生きてるみたいに話す。
それが……すごく、まっすぐで」
おっちゃんは黙って聞いていたが、やがてぽつりと訊いた。
「透くんは……?」
透は一度、視線を落とす。
「俺は、幼い頃に現実世界で両親を亡くしました。
だから、最初は思ったんです。
いつか区切りをつけなきゃ、って」
結奈は透の方を見る。
透は微笑んだ。
「でも、結奈を見てて分かりました。
区切らなくてもいい記憶があるって」
おっちゃんは、静かに息を吐いた。
「……なるほどねぇ」
そして、少しだけ声を明るくする。
「だから一緒に、ここに来るようになったのかい」
結奈が頷く。
しばらくして、おっちゃんは深い表情を浮かべて言う。
「結奈ちゃん……お父さんのこと、調べてるんだろ」
箸が、止まった。
透が驚いたように、私を見る。
「え?」
「……どうして、それを」
おっちゃんはふうっと息を吐いた。
「長いことこの店やってるとね。
いろんな人の“残り香”が分かるようになる」
冗談みたいな言い方なのに、目だけは冗談じゃなかった。
「でもな」
おっちゃんははっきり言った。
「結奈ちゃんの父親——
もうこの世界にはいない」
胸の奥で、何かが軋んだ。
「……知ってます」
私は静かに答えた。
「8歳の時に亡くなりました。
レイヤー創成期の実験中の突然死」
おっちゃんは首を横に振る。
「“亡くなった”ってのは事実だ」
そこまでは同じ。
「けどな……
いなくなり方が普通じゃない」
透が身を乗り出した。
「どういう意味ですか?」
おっちゃんは、カウンターの下から古いグラスを取り出し、何も注がずに磨き始める。
「ここにはな」
——キュッ、キュッ、と布の音。
「死んだ人は入ってこねぇ」
心臓が強く打った。
「夢も、未練も、思い出もな。
生きてる側が勝手に連れてくるもんだ」
私は思わず息を呑んだ。
「でも、結奈ちゃん。
あんたの父親の“気配”は——」
布を置いて、おっちゃんは私をまっすぐ見た。
「生きてる側のものじゃない」
店内の音が、遠のく。
ラジオの歌声が、歪む。
「それって……」
私の声は、震えていた。
「父が、どこかに——」
「いや」
おっちゃんは、きっぱりと遮った。
「期待するな」
その言葉が、逆に現実味を帯びさせた。
「亡くなってる。
それは間違いない」
でも。
「ただし」
その一言で空気が変わる。
「この世界の“奥”に、触れちまった人間はな
完全には消えねぇことがある」
私は思い出していた。
研究フロアで見つけた、存在しないはずの参照痕跡。
暖簾の外で感じた、誰もいないはずの視線。
「……私、見られてますよね」
ぽつりと零すと、おっちゃんは苦笑した。
「さあな」
そして意味ありげに言った。
「でもよ、結奈ちゃん。
見られてるのは、あんただけじゃねぇ」
透が私の手を握る。
「結奈……」
私はその温もりに縋りながら確信していた。
父は確かに亡くなっている。
それは、変わらない。
それでも——
何かがまだ終わっていない。
おっちゃんは、徳利を置きながら最後にこう言った。
「深追いするなら覚悟しな。
この世界は、“知ろうとした瞬間”から、
ちゃんと見返してくる」
私は頷いた。
もう引き返すつもりはなかった。
この違和感の先に、父の“真実”があるのなら。
たとえそれが、世界の裏側だったとしても。
やがて、結奈と透は立ち上がる。
その背中を、おっちゃんはいつもの声で送り出す。
「二人とも、何かあったらまた来な。
いいおつまみでも用意して待ってっからよ」
二人は同時に頭を下げた。
暖簾が揺れ、その後に続く“もう一つの再会”へと、夜は静かに繋がっていく。
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