あなたのいない世界でバージンロードを歩く

駄文のヒロ

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第1章 見守る影

4、母親の思い

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 翌朝、フランスラウンジは淡い朝光に満ちていた。
 白い石畳を模した床に、仮想の窓越しのパリの空が反射している。

 結奈は、まだ完全に目が覚めきらないままキッチンに立っていた。
 夢の名残が、胸の奥に薄く引っかかっている。
 ――32歳のままの父。
 去り際の背中。
 そして、赤いスーツの女の声。

 インターフォンの通知音が、静寂を破った。

「……ママ?」

 表示された来訪者IDを見て、結奈は一瞬だけ息を止める。
 母親の 朝霧真里奈 あさぎり まりな
 東京ラウンジからの直通転送だった。

 ドアを開くと、そこに立っていた母は、相変わらず背筋が伸びていた。
 46歳。
 ここでの職業はレイヤー生活支援局で非常勤の対人ケア相談員をしている。
 移民者や研究者家族向けの生活相談、喪失体験を抱える住民のケアを行なっている。
 レイヤー移民前は、医療事務職をしていた。
 結奈が13歳で移民する際、娘の生活サポートをする保護者としてレイヤーに同行した。

 黒に近いダークネイビーのコート。
 仕事用ではないが、どこか「きちんとした」装い。

「おはよう、結奈」

 その声は穏やかで、けれど少しだけ硬い。

「おはよう……どうしたの? 東京から?」

 真里奈は小さくうなずき、室内に足を踏み入れた。

「ここじゃ東京からフランスまでひとっ飛び。
 楽なものねぇ」

 視線が、無意識に部屋の奥――結奈のデスクの方へ向かう。

「今朝、急に通知が来たの。
 あなた、管理層の深部ログにアクセスしようとしたでしょう」

 結奈の手が、ドアノブの上で止まった。

「……研究だから。規定内だよ」
「ええ、そうね。形式上は」

 真里奈はそう言いながら、コートを脱ぎ、ゆっくりとソファに腰を下ろした。
 その動作のひとつひとつが、妙に慎重だった。

「でもね、結奈。
 あなた、最近――お父さんのことを、調べすぎている」

 その名前は出されなかった。
 けれど、空気が一瞬で変わる。

 真里奈は、雅人とは大学時代に知り合い、現実世界で結婚していた。

「……夢を見たの」

 結奈は、ぽつりと言った。

「夢?」
「うん。
 32歳のままの、父の夢」

 真里奈の指先が、わずかに震えた。
 それを隠すように、カップに視線を落とす。

「そんなはず……」
「ねえ、ママ」

 結奈は、母の正面に立つ。

「本当に、ただの“突然死”だったの?」

 答えはすぐには返ってこなかった。
 パリの朝の光が、二人の間に長い影を落とす。

 真里奈は、しばらく沈黙したままゆっくりと息を吐く。

「……結奈。
 あなたが知ろうとしていることは、もう“研究”じゃない」

 その声は、母としてのものだった。

「それでも知りたい?」

 結奈は迷わなかった。

「うん。
 だって、私――
 パパとちゃんと向き合わないまま大人になったから」

 真里奈は目を閉じた。
 そして、小さく、けれどはっきりと頷いた。

 その瞬間、結奈ははっきりと感じた。
 昨夜の「観測されている感覚」は夢ではなかったのだと。

 この朝から、何かが確実に動き始めている。

 真里奈は、しばらく結奈から視線を外したまま、窓の向こうのパリの空を見ていた。
 朝のレイヤー空間は穏やかで、皮肉なほど平和だ。

「……お父さんが亡くなった日ね」

 その声は低く、感情を極力削ぎ落としている。

「会社から連絡が来たのは、夕方だった。
 “実験中に突然の発作を起こした”って。
 それ以上の説明は、最初から用意されていなかったわ」

 結奈は黙って聞いている。

 真里奈はレイヤ移行実験の参加を反対しなかった。
 「あなたなら大丈夫」と言ってしまったことを、今でも後悔していた。

「死亡検案書も、労災の書類も、全部きれいだった。
 疑問を挟む余地がないくらいに」

 真里奈は、そこで一度言葉を切った。

 雅人の死亡後、労災認定と補償で生活は守られた。
 しかし真相は知らされず、「説明の足りなさ」をずっと抱えている。

「……だから私は、疑わないことを選んだの」
「疑わない?」
「ええ」

 真里奈は、ゆっくりと頷く。

「疑えば、戦わなきゃいけなくなる。
 相手は会社で、管理層で、世界そのものだった」

 16年前の結奈の姿が、脳裏をよぎる。

「あなたは8歳だった。
 父親が突然いなくなって、それでも“世界は安全だ”って信じさせなきゃいけなかった」

 声が、ほんの少しだけ揺れた。

「私はね、結奈。
 お父さんの死を“事故”として処理することで、あなたの日常を守ろうとしたの」

 結奈は、思わず唇を噛む。

「お父さんの話を、あまりしなかったのも……」
「覚えてるわ」

 真里奈は、苦く微笑んだ。

「あなたが聞くたびに、私は“いいお父さんだった”って、それだけ答えた」

 それ以上語れば、真実に近づいてしまう。
 そうすれば、戻れなくなる気がしていた。

「夜ね、あなたが眠ったあとで……
 私は何度もログを開いた」

 結奈の目が見開かれる。

「調べたの?」
「ええ。でも――」

 真里奈は首を横に振る。

「深部に入ろうとすると、必ず遮断された。
 警告ログが出るの。
 “これ以上の参照は、心理的負荷を増大させます”って」

 まるで、守っているふりをした壁。

「それで私は、諦めた。
 ……諦めるふりを続けた」

 真里奈は、両手を膝の上で強く組んだ。

 雅人が関わった世界から、完全に離れられなかった。
 本心では、どこかに雅人の“痕跡”が残っている気がしていたからだ。

「父のいない人生を、あなたに“普通”として与えること。
 それが、母としての正解だと思った」

 少し間を置いて、静かに言う。

「でもね。
 あなたが研究者になって、
 あの実験に関わるようになった時……」

 視線が、まっすぐ結奈に戻る。

「私は、いつかこの日が来るって分かってた」

 結奈は、胸の奥が締めつけられるのを感じた。

「ママは……後悔してる?」

 真里奈は即答しなかった。

「後悔、というより……」

 ゆっくりと、言葉を選ぶ。

「逃げ続けてきた。
 父の死と向き合う責任から」

 そしてはっきりと。

「だから今度は、あなたが向き合う番なのね」

 その言葉は、許しでも拒絶でもなかった。
 ただの引き渡しだった。

 母から娘へ。
 “真実に触れる権利”の。
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