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10話ーαの香り
しおりを挟む婚活イベントで、元教え子の兄である兼田翔と再会し、彼がブースを出てから雄大の体調が俄に悪くなった。
翔が何かしたわけではない。Ωを差別的に見るような視線や言動などなく、教職員として元教え子の父兄と世間話をしただけだ。翔の態度は寧ろ友好的でさえあった。
とすれば考えられる不調の原因はαの人間に会いすぎたせいか。雄大自身も自覚していないΩの本能が刺激されたのかもしれない。
ヒートを待つ雄大からしてみれば良い兆候と言えるだろうけど、全くの見当違いであれば単なる体調の急変だ。
「はっ……」
吐き出された息が熱い。呼吸を繰り返す度に体も熱くなっているように感じる。突然の発熱ならば雄大も経験がある。けれど、頭や喉が痛くなって寒気がする、ということはない。
ただただ体が熱くなって、体の奥から何かが漏れて来そうだ。
「……ぁ」
実際に漏れ出たのは小さな声で、それが自分の耳には喘ぎ声みたいに聞こえて不快感から肌がひりつく。
雄大が受け持つブースに次のαが入ってくるというのに、このままではまともな会話など出来そうにない。
突然の体調不良に胸を押さえながら立ち上がる。テーブルを伝って、壁に手を付き、ブースの出入口前に来るとスニーカーが目に入った。見覚えのある形状と色味。
何故ここに? と疑問を口にする前に「門村先生」と声を掛けられた。顔を上げずとも分かる。戸賀井だ。
「やっと俺の順番回って来たのにどこに行くんですか」
体ごと押されて、ブースの中に戻ると小さな空間は威圧感に包まれた。
やめて欲しい。これ以上何か浴びせられたら自分の中で確実な変化が始まってしまう。止めなくて良いものなのだろうけど、体が止めたがっている。そのせめぎ合いで調子が狂う。
雄大は下を向いて、戸賀井から顔が見えないよう隠した。表情を見られぬようにして「なんでここに?」と絞り出した声で聞くと「前中さんに何のイベントに参加するのか聞きました。同居人なので門村先生のことが心配ですと言ったらすぐに教えてくれました」と即座に返ってくる。
「最後にそれに名前を書くんですよね」
顔を合わせていないから戸賀井が何の話をしているのか分からない。が、もう一度記憶を巻き戻して戸賀井の言葉をなぞると、備え付けのテーブルの上に置いてある紙のことを言っているのだと気が付く。
αとの対面を終えたら、Ωは個人的に連絡を取っても良いなと思うαの番号と名前を書く。αの方も気に入ったΩの番号と名前を書いて、マッチングすればカップル成立となる。
「なにも書かずに提出してください。どうしても書かなきゃいけないなら、俺を選んで」
「……なんで」
「他の男の名前を書いて欲しくないからです。俺を書いてください、門村先生」
膝が震える。正直立っているのがやっとで、軽く風が吹き込んだだけでも倒れてしまいそうだ。けれど、まだ頭の中は正常だ。
「……いやだ。君を選ぶなんて……君の好きな人に失礼だ」
それに書くなら戸賀井の前に入って来た翔の名前にしようと決めていた。彼となら弟の駿を通して人柄も分かっているし良い友人になれそうだ。
だから戸賀井の申し出を断るために首を振ると、雄大の鼻を甘い匂いがついた。
先日、戸賀井と言い合いになった時に感じた、花のような香り。けれど今の香りはその時の何倍も強い甘ったるい匂い。
雄大の具合が悪くなるごとに強くなる甘さに、とうとう正常だった思考回路がぐちゃぐちゃになってしまう。
甘い香りごと箱の中に詰められて坂の上から転がり落とされたように脳みそが揺れて眩暈がする。
「俺の名前を書いてくれないなら、今すぐここから連れ出します」
「……へ?」
口を開いたらそのまま床に涎を垂らしてしまいそうになって間抜けな声だけを残して口を閉じた。
「帰りましょう、門村先生」
イベント途中で、そんなことが許されるのだろうか。
でも体調不良は確かで、戸賀井がこの場に現れても現れなくてもどちらにしても雄大の体調は悪くなる一方だっただろう。
返事をしないでいると、戸賀井の手が雄大の手首を掴んでくる。近寄らないで欲しい。それは彼の想い人への遠慮から出たものではなく、今は全身を揺さぶるような甘い香りから逃れたいという気持ちの方が大きい。
引っ張られて、戸賀井と共に狭く小さな空間から出る。
目の前の景色の色が分からない。警告のように頭の中ではぐわんぐわんと高低差のある音が響く。
もう一歩も動けない。
「……門村先生?」
雄大の体の重みが手の平を通じて伝わったのか戸賀井が足を止める。
「具合、悪いんですか? 大丈夫ですか、門村先生」
顔を覗き込まれて、もう隠せないと思った。
「顔色やばいですよ」
背負うから、ここから出ましょう、と雄大の目の前で戸賀井がしゃがみ込む。戸賀井が居なければ、ブースの中で倒れて救急車を呼ばれていたかもしれない。その迷惑を考えると、この背に頼る以外にない。
「……ごめんね、戸賀井くん」
力なく呟いて、雄大は戸賀井の背中に体を預けた。
すぐに戸賀井の首元から腹の底をキュッと絞られるみたいな甘く切ない香りがする。ここから滲み出ていたのか。
これがαの香り。誰に聞かなくとも自分の体を持って確信する。
初めて知った匂いは、鼻腔を刺激するという生温い方法ではなく雄大の肌に染み込むように体内に侵入してくる。
この香りに壊されたいと願ってしまった。
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