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25話ー楽観的思考がもたらす危機②
しおりを挟むリビングに戻るとふわりと甘い匂いが香った。さっきまで寝転んでいたソファーからだ。でも自分の匂いではない。
これは戸賀井の香り。少し前に来た時の匂いが未だに残っていたのか、けれど帰って来た時は全然気が付かなかった。
ヒート前で敏感になっているのか、まさか、数時間前に飲んだアレルギー薬のおかげで嗅覚が強くなりαの匂いを察知出来るようになったのか。そんな冗談のようなことがあるのかなと小さく笑って床に積み上がった本の中から文庫本を二冊選び出す。
それにしても戸賀井の香りは安心する。包まれているとずっと此処に居たくなる。この香りから離れたくないと強く願ってしまう。
最初は慈しまれているような感覚、そのあとでじわじわと匂いが肌に染み付いて身体の中まで入ってくる。それと同時に欲を自覚して、雄大自身も触れたことのない奥の奥まで戸賀井に触れて欲しいと思ってしまう。
「……はっ」
瞬き一つで現実へと戻る。
戸賀井の匂いと妄想ごっこをしている場合ではない。翔を待たせているのだ。
サッと立ち上がると周りの空気が一気に動いて、芳香が鼻をつく。
トトッ、と横へよろめく。眩暈ではなく、性欲が湧いて来たことで体のコントロールが上手く行かない。
ヒートというわけでもないのに、翔が居るのに、と自分で自分に呆れて、雄大は足を踏ん張らせる。
早く帰って貰おう。翔を帰したそのあとで、内に籠った熱を解放しよう。
熱くなった頬を手の甲で擦って、踵を返した瞬間雄大の体がビクッと跳ねた。目の前、リビングのドア近くに翔が立っていた。
「ちょっ、なに入って来てんですか」
焦るあまり乱暴な言葉遣いになるも、翔は全く気にしていないといった感じで部屋の中まで入って来る。
「玄関で待っててって言ったでしょ」
「門村先生、具合悪いんじゃないですか」
「え、は?」
「キッチンにレトルトの雑炊があったし、俺の連絡にも気付かなかったって、寝てたんじゃないです?」
察しが良いのは結構だが、それなら反応がない時点で家に来るな、インターホンも押すなと言いたいところだ。
「それに今も顔が赤い」
近付いて来た翔の手が頬に触れそうになって、雄大は横を向いて避ける。
「……門村先生、ヒートではないですよね」
「違う、と思います。ていうか、外に、出て貰っていいですか」
「言い切れないんですか? ヒートってそんな分かりづらいもの?」
「……色々……ほんとに色々ありまして、俺、Ωなのに今までヒートが来たことがなくて、初めてヒートが来たのがつい最近のことで……てか早く出てってください」
「そんなことあるんですか」
「普通はないと思います。けど、実際に俺の身には起こったので……とにかくヒートではないけど、そうじゃないとも言い切れないので、外に出てください。帰っ――」
律儀に質問に答えながら、こんな悠長な時を過ごしてどうすると翔の体を手で押す。リビングから追い出してやろうと思ったのに逆に腕を掴まれてしまった。
戸賀井で充満していた部屋の香りに翔の匂いが混ざり出す。雄大の口からヒッ、と喉が詰まったような音が鳴る。
「ヒートなら良かったのに。残念です」
「な、なに」
掴まれた腕が引っ張られて、雄大の体は翔の胸元にぶつかる。そのまま強く抱き締められて、手に持っていた文庫本は床に落ち、顔面に翔の匂いを浴びる。
αとΩは互いに惹かれ合い過ぎるから危険な事故が起きてしまう。それを望まない両者は共に警戒して生きている。
だから発情期が不安定なことをΩが伝えれば、大抵のαは何もせず触らず波が引くようにスーッと存在を消す。逃げる、と言った方が良いかもしれない。
それほどにΩのフェロモンは強いという意味で、翔のように踏み込んで来るのは無謀で後先考えない者か単にセックスしたいだけの輩がする行為だ。
「ヒートなら門村先生を俺のものに出来たのに」
「ダメ……翔さん、離して」
声が震える。皮膚がピリピリと痛んで全身が騒ぐ。
「この部屋、他のαに匂い付けされてますね」
「……匂い付け?」
「誰にも渡したくないけど理由があってまだΩと番えない場合、体に接触したり物に触れたりして匂いを残すんです。マーキングみたいなもんかな。未成年のΩだったりすると成人するまで待つって意味でαが匂い付けするってのは聞きますけど、先生ほどの大人相手にこういうことするのは……だいぶ執着心の強いαですね」
そういえば戸賀井は家に来る度、ソファーを定位置にしていた。この部屋が狭いからだろうと思っていたけれど、もしかしたら戸賀井の行動には意味があったのかもとぼんやりとした頭で考える。
「俺の匂いも付けたいな」
「は、やめ、っ」
「分かってます。これ以上して先生に嫌われるのはいやなのでちゃんと帰ります。その前に匂いの上書きさせてください」
雄大を抱き締めたままで翔が首筋に顔を埋めてくる。呼吸音が間近で聞こえて、背筋がぞくぞくとし出す。
「先生……門村先生、好きです」
腰を抱かれ、首元に翔の唇がくっ付く。ちゅうっと吸われて、雄大は翔の腕の中で暴れる。
「首、やっ、やだ、ぁ、っ」
うなじを噛まれるかもしれない。その恐怖を想像しただけでもがいていた体が途端に動かなくなって涙が滲む。
「やだ、やぁ」
「まだ噛みませんよ。匂いを付けただけ」
翔の唇が触れた場所が熱い。体を離されてもこわばりが消えない。
「すいません、門村先生。どうして先生が欲しいです」
謝られても応えることが出来ない。
翔の体が離れると、雄大はその場にへたり込む。涙を流すのも悔しくて、瞬きせずにいると滲んだ視界に部屋を出て行く翔の背中が映る。
帰ってくれた。ホッと息を吐くと、硬くなっていた体から僅かに力が抜ける。
本当にうなじは無事なのだろうか。首がひりひりと痛む気がする。
施錠のことなどすっかり忘れ、雄大はリビングのドアに背を向けローテーブルの上に置いてある本と作成したプリント類の間から鏡を見つけ出して首を見る。
「なん……はぁ……」
驚きのあとで深い溜息と涙が流れ出る。首の横に唇で吸われた跡がついていた。こんな小さなものでも戸賀井との仲を壊すには十分なものだろう。
中心部分は赤く、外に向かって薄くなっているそれが呪いのように見える。
鏡を見ながらウェットティッシュに手を伸ばす。顔を斜めに倒し、目の端から止めどなく流れる涙もそのままに雄大は翔の唇の跡を拭いていく。
消えるわけもないのに、ウェットティッシュを痛い程に押し付ける。
皮膚が擦れて痛い。けれど、戸賀井に知られれば彼の味わう痛みや苦しみはこんなものじゃ済まない。
きっと、見られてしまう。というか知られてしまった方がいいのだ。この結果は己の浅はかな思考が招いたもので、全部知られて呆れられて嫌われるくらいしなければ。
戸賀井の気持ちを裏切った自分への罰なのだから。
鼻腔が柔らかくなって、雄大は鼻水が零れないように鼻を啜り上げる。
「……やだ、いやだ……嫌われたくない」
こんなことになるなら最初のヒートの時に戸賀井にうなじを噛んで貰えば良かった。元教え子だから戸惑う気持ちがあるだなんて、そんなのは言い訳だ。ただ、教員としての要らぬプライドが邪魔していただけじゃないか。
「門村先生?」
名前を呼ばれて手に持っていた鏡を取り落とす。カシャンと音が鳴り、雄大は瞬きを一切せずに振り返る。
「鍵が掛かってなかったみたいだけど」
部屋の中を見回す戸賀井の横顔が目に入った。後ろめたさと罪悪感が見せた幻覚かと思ったが、確かに戸賀井は居る。
雄大が泣いていることにはまだ気付いていない。咄嗟に下を向き、手で涙を拭い、着ていたTシャツの首元を引き上げる。
自分の楽観的な考えでこんなことになってしまった。いっそ露呈してしまえば良いと思っていたのに涙を拭いた雄大の手は首に付いた呪いを隠すように覆っていた。
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