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第3話
しおりを挟む――距離のはじまり
桜の蕾は、少しふくらんでいた。
「もうすぐでござんすね」
お七が言うと、吉祥は頷いた。
「ええ。咲けば、境内も明るくなりましょう」
「吉祥さまは、桜が好きでござんすか」
「……好き、と申すより。教えを思い出します」
「教え?」
「すべては移ろう、と」
お七は、首をかしげた。
「でも、咲いている間は、きれいでござんす」
吉祥は、少し言葉に詰まる。
――まことに、素直なお方だ。
彼女は、難しいことを知らぬ。
ただ、目の前の花を見て、きれいだと笑う。
それで良いのだと、言われている気がした。
「吉祥さま」
呼ばれて、はっとする。
「はい」
「名を、もう一度」
「……吉祥でございます」
その名を聞くだけで嬉しそうにするお七に、胸がふっと緩む。
――これは、情けだ。
拙僧は、この娘を不安にさせぬよう、やさしくしているだけ。
それだけのこと。
⸻
その日の夕刻。
お七は炊き出しの椀を両手で運びながら、足を止めた。
「吉祥さま、こちらを」
椀を差し出す手が、ほんの少し震えている。
「ありがとうございます」
指が触れた。
ほんの一瞬。
お七の頬が、みるみる赤くなる。
「……あ」
吉祥は、すぐに椀を引き取った。
――いけない。
この娘は、誤解してしまう。
「お七どの」
「は、はい」
「寺は、皆に等しく安らぎを与える場所。拙僧も、その一人にすぎませぬ」
やわらかな声で、距離を引く。
お七の瞳が、少しだけ曇る。
「……はい」
それでも、笑う。
その笑顔を見た瞬間、吉祥の胸に、ちいさな痛みが走った。
――なぜ、痛む。
拙僧は、正しきことを言うただの僧。
この娘は、避難者のひとり。
それだけ。
それだけの、はず。
⸻
夜。
灯明の下で経を唱えながらも、吉祥の心は静まらない。
お七が笑う顔。
名を呼ぶ声。
桜を見上げる横顔。
――あれは、幼い恋心。
拙僧は、応えてはならぬ。
けれど。
消えてしまうことを、どこか惜しいと思う。
それが何なのか、まだ分からない。
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