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第1話 しがみつ鬼
(3)糸の『染み』
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ピョーロロロ。ピィーーー。
物哀しくも、妙なる調べが辺りに響き渡る。
その音は、天女が奏でるが如く。
極楽に流れる楽の音とは、かくやと思うほどの美しさであった。
「あぁ、あぁ……。ありがてぇ、ありがてぇこった」
先ほどまで取り乱した様子だった若い男が、両の手のひらを合わせる。
頭を下げて、額に近づけた手のひらどうしを擦り合わせる。
笛を吹く桔梗のほうを向き、一心に拝んでいる。
男の目には、桔梗が何か特別なものに映っているのかも知れない。
笛の音に誘われるように、男の体に巻きついていた紫色の糸が解れ出す。
ズルリ、ズルリと糸は男の体から離れる。
やがて、それは繭のような楕円形のひとつの塊にまとまった。
人ひとりほどの大きさの紫色の繭は、内側から怪しげな光を発している。
「出やがったな。よし、桔梗、行くぜ!」
巳之吉が、紫色の繭玉らしきものに向かって突進する。
桔梗は、篠笛を吹いたまま、そのあとを追う。
ふたりは吸い込まれるように、繭の中に消えていく。
繭の中は、この世ともあの世とも違う場所に繋がっていた。
辺りは、深い紫色の霧のようなものに覆われている。
一寸先も見えはしないが、ふたりが怖気づく様子はない。
「よっしゃ! 今度も首尾よく捕まえられたようだな」
「はい。あぁ、巳之吉様。さっそく、糸の染みが」
笛を吹くのをやめて、篠笛を腰に指しながら桔梗が言う。
桔梗の目線の先には、もやもやと形が定まらない糸の塊が見える。
その塊は、ボゥッとした光をまとっている。
「それじゃあ、あの若い兄さんに何が起きたか見に行くとするかぁ」
「ええ。こればかりは、慣れませんねぇ」
「仕方あるめぇ。
これを知らなけりゃ、どこを切っていいもんだか分からねぇんだから」
「……はい。それでは、参りましょう」
巳之吉は、桔梗に向かって手を伸ばす。
手のひらを上にした巳之吉の手に、桔梗がそっと手を重ねる。
桔梗が『染み』と呼んだモヤモヤに、巳之吉が手を触れる。
ぐいん、ぐいん。
触れると同時に、ふたりの姿はモヤモヤの中へと吸い込まれていった。
***
長屋で会った若い男が、ひとりの女に馬乗りになっている。
男の下で必死にもがく女は、男よりは年上のように見える。
けれど、今でも十分に人の目を惹く容姿を持っている。
若い頃は、さぞやと思わせる美しさの女が悲鳴を上げている。
「ヒィーーー! やめてぇ! どうして?
やめてったら、栄さん。え、栄次郎さん……」
「あっしは、栄次郎じゃねぇ!」
「……っ、何を言ってるんだよぅ。あんたぁ。
あんたは、アタシの栄さんだろう……」
「違ぇよ、おっかさん。あっしは、あんたの息子。
久助じゃあねぇか。よく見ておくれよ」
「きゅう……すけ? 何言ってるんだよぉ!
久助は、まだ子どもじゃあないか。ほら、あすこに寝てる……」
「あれは、久助じゃあねぇ。喜八郎だ。
あんたが産んだ八人目の子だよぅ!」
「八人目……? 何をお言いだい、栄さん。
アタシらの子は、久助だけじゃあないか。
大事な大事な一粒種の久助だけだよぅ!」
「すまねぇ、おっかさん。もう耐えられねぇんだ。
親殺しは、大罪。そいつは分かってる。
まだ小せぇ子らにも申し訳ねぇ。あっしも、すぐにあとを追う。
そしたら、あの世で、おとっつぁんにも詫びらぁ」
まだ何かを言いかけた女の言葉を遮るように、男は出刃を振り下ろす。
よく手入れされた包丁が、ドスンと床に突き刺さる。
同時に、女の首から天井に届くほどの血飛沫が上がる。
目を見開いて、口をパクパクと動かす女。
致命傷を負っているだろうに、指は男の着物の袂を握って離さない。
その手を振り払うかのように、何度も何度も振り下ろされる出刃。
男の虚ろな目は、どこを見ているのか分からない。
まなじりからは、一筋の涙がこぼれ落ちている。
板の間には、規則的に繰り返されるドスンドスンという音だけが響く。
「おい、もう、死んでるって。手を止めねぇか、兄さんよぅ!」
目の前に広がる陰惨な光景に、巳之吉はつい、声を上げる。
その肩に桔梗が、ポンと優しく手を置いて言う。
「巳之吉様。これは、糸の『染み』。過去の出来事にございます。
あの男には、何も聞こえちゃいません。
何度も、お話したじゃあ、ありませんか」
「分かってる。分かっては、いるんだけどよぅ。
あんまり哀れでよぅ……」
いつの間にか流れ出した己の涙を、巳之吉はぐいっと手のひらで拭う。
桔梗は、そんな巳之吉をじっと見つめていた。
物哀しくも、妙なる調べが辺りに響き渡る。
その音は、天女が奏でるが如く。
極楽に流れる楽の音とは、かくやと思うほどの美しさであった。
「あぁ、あぁ……。ありがてぇ、ありがてぇこった」
先ほどまで取り乱した様子だった若い男が、両の手のひらを合わせる。
頭を下げて、額に近づけた手のひらどうしを擦り合わせる。
笛を吹く桔梗のほうを向き、一心に拝んでいる。
男の目には、桔梗が何か特別なものに映っているのかも知れない。
笛の音に誘われるように、男の体に巻きついていた紫色の糸が解れ出す。
ズルリ、ズルリと糸は男の体から離れる。
やがて、それは繭のような楕円形のひとつの塊にまとまった。
人ひとりほどの大きさの紫色の繭は、内側から怪しげな光を発している。
「出やがったな。よし、桔梗、行くぜ!」
巳之吉が、紫色の繭玉らしきものに向かって突進する。
桔梗は、篠笛を吹いたまま、そのあとを追う。
ふたりは吸い込まれるように、繭の中に消えていく。
繭の中は、この世ともあの世とも違う場所に繋がっていた。
辺りは、深い紫色の霧のようなものに覆われている。
一寸先も見えはしないが、ふたりが怖気づく様子はない。
「よっしゃ! 今度も首尾よく捕まえられたようだな」
「はい。あぁ、巳之吉様。さっそく、糸の染みが」
笛を吹くのをやめて、篠笛を腰に指しながら桔梗が言う。
桔梗の目線の先には、もやもやと形が定まらない糸の塊が見える。
その塊は、ボゥッとした光をまとっている。
「それじゃあ、あの若い兄さんに何が起きたか見に行くとするかぁ」
「ええ。こればかりは、慣れませんねぇ」
「仕方あるめぇ。
これを知らなけりゃ、どこを切っていいもんだか分からねぇんだから」
「……はい。それでは、参りましょう」
巳之吉は、桔梗に向かって手を伸ばす。
手のひらを上にした巳之吉の手に、桔梗がそっと手を重ねる。
桔梗が『染み』と呼んだモヤモヤに、巳之吉が手を触れる。
ぐいん、ぐいん。
触れると同時に、ふたりの姿はモヤモヤの中へと吸い込まれていった。
***
長屋で会った若い男が、ひとりの女に馬乗りになっている。
男の下で必死にもがく女は、男よりは年上のように見える。
けれど、今でも十分に人の目を惹く容姿を持っている。
若い頃は、さぞやと思わせる美しさの女が悲鳴を上げている。
「ヒィーーー! やめてぇ! どうして?
やめてったら、栄さん。え、栄次郎さん……」
「あっしは、栄次郎じゃねぇ!」
「……っ、何を言ってるんだよぅ。あんたぁ。
あんたは、アタシの栄さんだろう……」
「違ぇよ、おっかさん。あっしは、あんたの息子。
久助じゃあねぇか。よく見ておくれよ」
「きゅう……すけ? 何言ってるんだよぉ!
久助は、まだ子どもじゃあないか。ほら、あすこに寝てる……」
「あれは、久助じゃあねぇ。喜八郎だ。
あんたが産んだ八人目の子だよぅ!」
「八人目……? 何をお言いだい、栄さん。
アタシらの子は、久助だけじゃあないか。
大事な大事な一粒種の久助だけだよぅ!」
「すまねぇ、おっかさん。もう耐えられねぇんだ。
親殺しは、大罪。そいつは分かってる。
まだ小せぇ子らにも申し訳ねぇ。あっしも、すぐにあとを追う。
そしたら、あの世で、おとっつぁんにも詫びらぁ」
まだ何かを言いかけた女の言葉を遮るように、男は出刃を振り下ろす。
よく手入れされた包丁が、ドスンと床に突き刺さる。
同時に、女の首から天井に届くほどの血飛沫が上がる。
目を見開いて、口をパクパクと動かす女。
致命傷を負っているだろうに、指は男の着物の袂を握って離さない。
その手を振り払うかのように、何度も何度も振り下ろされる出刃。
男の虚ろな目は、どこを見ているのか分からない。
まなじりからは、一筋の涙がこぼれ落ちている。
板の間には、規則的に繰り返されるドスンドスンという音だけが響く。
「おい、もう、死んでるって。手を止めねぇか、兄さんよぅ!」
目の前に広がる陰惨な光景に、巳之吉はつい、声を上げる。
その肩に桔梗が、ポンと優しく手を置いて言う。
「巳之吉様。これは、糸の『染み』。過去の出来事にございます。
あの男には、何も聞こえちゃいません。
何度も、お話したじゃあ、ありませんか」
「分かってる。分かっては、いるんだけどよぅ。
あんまり哀れでよぅ……」
いつの間にか流れ出した己の涙を、巳之吉はぐいっと手のひらで拭う。
桔梗は、そんな巳之吉をじっと見つめていた。
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