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第1話 しがみつ鬼
(8)久助の恋
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またも、目の前の景色が巳之吉と桔梗の前で、ぐにゃりと歪む。
雲がみるみる飛んでいき、星は全てが流れ星のようにその軌跡を描く。
何度も朝日らしき光が通り過ぎ、月は、その形を刻々と変える。
見てはいけないと分かりながらも、巳之吉はその動きを目で追う。
現実には、決してあり得ない速さで進む、その光景。
ある意味で巳之吉は、それに魅了されているとも言える。
ピタリ。
またしても、唐突に、景色がその動きを止めた。
長屋の様子は、巳之吉が初めに見たものに近いように思える。
景色酔いでクラつく頭を振りながら、巳之吉は口を開く。
「どうやら、かなりの月日が経っちまったようだぜ」
「ええ。私たちが、訪れる少し前というところでしょうか」
「うん。……なんだか騒がしいじゃあねぇか」
久助とおつや、ふたり暮らしだった長屋に子どもの声がする。
それも、ひとりふたりのものではない。
「おいち、初次郎、下の子らの面倒を見といておくれよ」
「分かった。兄ちゃん、早く帰って来てよ?」
「あぁ。おかずを持って帰るから、いい子で待つんだよ」
「は~い。いってらっしゃい。兄ちゃん」
長屋を出る久助に、幾人かの子どもたちがまとわりついている。
どうやら、久助は働きに出るようだ。
その格好と持ちものからして、料理人になったらしい。
「なるほど。あの時の出刃は、そういうことかい」
「悲しいことですねぇ。料理人になるのにも、相当の努力が要ったはず。
それに、包丁は料理人の魂とも申しますから」
「あぁ。だがよ、その魂をぶち壊しちまいたいほどのことが。
そんな、よっぽどのことがあったんだろうさ」
「ええ……」
桔梗は、久助の心を慮ってか、その瞳に涙を滲ませる。
巳之吉は、つられそうになるのを抑えて桔梗から目を逸らす。
子らを見る久助の目は、優しい。
久助を囲む子らも、兄を心から慕っているように見える。
子らに見送られて手を振り、それから、くるりと長屋に背を向ける。
その久助の瞳に浮かんでいるのは、しかし。
憂いであった。
先ほどまで子らに見せていた明るい瞳には、影が落ちている。
どんよりと曇った瞳は、まるで木のうろのよう。
傷つき、腐れて出来る木のうろ。
久助の暗い瞳は、心のうろの色なのかも知れない。
ぐにゃり。
景色が大きく歪む。
花びらが風に吹かれて飛んでいく。
ザアザアと降る雨が、糸のように地面に突き刺さって見える。
ピタリ。
今度は、さほどの刻を経ずに、景色が、その動きを止めた。
初夏の川べりを、若い男と女が歩いている。
その手は絡み合うように繋がれて、互いに目を合わせてはふふふと笑う。
どこにでもいる、幸せそうな若いふたりの姿。
男のほうは、なんと久助その人であった。
「おたまちゃん、本当にいいのかい?」
「いいのよ。何度もそう言ったじゃない」
「だけど、あっしと一緒になるってぇことはよ……」
「『重荷も一緒に背負うことになる』って言うんでしょ?」
「あ、あぁ。どうして……?」
「久助さんったら、何度も言うんだもの。
すっかり覚えちゃったわよ。アタシも何度も言うわ。
それでもいい。今の久助さんを好いているのよってね」
「あり……ありがとよ。おたまちゃん……。
あっしに、こんな日が来るなんてなぁ……」
「ちょ、ちょいと! 久助さん。泣かないで。
アタシこそ、久助さんみたいな二枚目と一緒になれるなんてさ。
夢見てるみたいなんだから」
「おたまちゃん……」
「久助さんの子なら、アタシは面倒見るのも苦じゃないよ。
だけど、いつかはアタシの子も欲しいねぇ」
「うん……、うん」
初めて見る久助の幸せそうな顔に、巳之吉と桔梗は驚く。
と同時に、一時でも久助に幸せが訪れていたことに安堵する。
「良かったなぁ、全てを飲み込んで、それでもいいってよ。
そんな相手に会うことが出来たんだなぁ」
久助の泣き笑いの顔につられるように、巳之吉もぐすぐすと鼻を鳴らす。
桔梗のほうは、冷たいような目をしている。
「巳之吉様……。これが、物の怪のやり口です。
ひとたび幸せにしておいて、それから、どん底まで落とす。
幸せに見えることの陰にこそ、物の怪が潜んでいるのです。
そろそろ、次が見せられるようです……」
ぐにゃり。
景色が歪む。
足元では、青々とした緑が生い茂る。
川面がキラキラとその流れに日の光と月の光を交互にはね返す。
ピタリ。
再びの長屋が見える。
きぇぇぇぇ!
ガチャン! ガチャ、ガチャン! バッシャーン!
女の金切り声に続いて、何かが割れるような音。
そして、水をぶちまけたような音の後に、叫び声がする。
長屋の戸が荒々しく開かれて、びしょ濡れの若い女が放り出される。
どうやら、久助と恋仲のおたまのようだ。
放り出したのも女。
こちらは、件のおつやであった。
その造作の美しさは、年を重ねるごとに凄みを増している。
けれど、今は、目を吊り上げ、口は醜く歪み、その瞳はギラギラと光る。
「この泥棒猫がっ! アタシから栄さんを奪おうってのかい!」
「久助さんのおっかさん、アタシは久助さんと一緒になりたいだけです」
「バカなことをお言いでないよ。久助は、まだ赤子だよ。
アタシから、久助を攫おうってのかい?」
「久助さんは……、久助さんは、もう一人前の男です。
どうにか手放してやっちゃくれませんか」
「うるさいよ、この売女がっ!
あんたに、アタシの幸せの邪魔はさせないよ。
とっとと消え失せなっ!」
夜叉にも見える顔つきで、おつやは、おたまに土を蹴りつける。
「おっかさん、やめとくれっ! おたまちゃんは、あっしの……」
「あら、栄さん。
アタシが、おまえさんについた悪い虫を追っ払ってやるからね」
「久助さんっ! おっかさんは、もう駄目よ。アタシと一緒に逃げて」
「……すまねぇ。おたまちゃん。あっしは、あっしは……。
こんなんでも母親だ。どうにか、話してみるから……」
「久助さん……。アタシを選んじゃくれないの……?」
「違う! そうじゃねぇ……。そうじゃねぇんだけれど……」
久助の言葉に、おたまは目に涙をあふれさせて。
それから、こぶしをぎりりと握り締めると駆け出した。
おつやを羽交締めにして押さえていた久助は、後を追わない。
一度止まって振り向いたおたまの顔に、失望の色が浮かぶ。
久助は、その顔から目を逸らしただけだった。
雲がみるみる飛んでいき、星は全てが流れ星のようにその軌跡を描く。
何度も朝日らしき光が通り過ぎ、月は、その形を刻々と変える。
見てはいけないと分かりながらも、巳之吉はその動きを目で追う。
現実には、決してあり得ない速さで進む、その光景。
ある意味で巳之吉は、それに魅了されているとも言える。
ピタリ。
またしても、唐突に、景色がその動きを止めた。
長屋の様子は、巳之吉が初めに見たものに近いように思える。
景色酔いでクラつく頭を振りながら、巳之吉は口を開く。
「どうやら、かなりの月日が経っちまったようだぜ」
「ええ。私たちが、訪れる少し前というところでしょうか」
「うん。……なんだか騒がしいじゃあねぇか」
久助とおつや、ふたり暮らしだった長屋に子どもの声がする。
それも、ひとりふたりのものではない。
「おいち、初次郎、下の子らの面倒を見といておくれよ」
「分かった。兄ちゃん、早く帰って来てよ?」
「あぁ。おかずを持って帰るから、いい子で待つんだよ」
「は~い。いってらっしゃい。兄ちゃん」
長屋を出る久助に、幾人かの子どもたちがまとわりついている。
どうやら、久助は働きに出るようだ。
その格好と持ちものからして、料理人になったらしい。
「なるほど。あの時の出刃は、そういうことかい」
「悲しいことですねぇ。料理人になるのにも、相当の努力が要ったはず。
それに、包丁は料理人の魂とも申しますから」
「あぁ。だがよ、その魂をぶち壊しちまいたいほどのことが。
そんな、よっぽどのことがあったんだろうさ」
「ええ……」
桔梗は、久助の心を慮ってか、その瞳に涙を滲ませる。
巳之吉は、つられそうになるのを抑えて桔梗から目を逸らす。
子らを見る久助の目は、優しい。
久助を囲む子らも、兄を心から慕っているように見える。
子らに見送られて手を振り、それから、くるりと長屋に背を向ける。
その久助の瞳に浮かんでいるのは、しかし。
憂いであった。
先ほどまで子らに見せていた明るい瞳には、影が落ちている。
どんよりと曇った瞳は、まるで木のうろのよう。
傷つき、腐れて出来る木のうろ。
久助の暗い瞳は、心のうろの色なのかも知れない。
ぐにゃり。
景色が大きく歪む。
花びらが風に吹かれて飛んでいく。
ザアザアと降る雨が、糸のように地面に突き刺さって見える。
ピタリ。
今度は、さほどの刻を経ずに、景色が、その動きを止めた。
初夏の川べりを、若い男と女が歩いている。
その手は絡み合うように繋がれて、互いに目を合わせてはふふふと笑う。
どこにでもいる、幸せそうな若いふたりの姿。
男のほうは、なんと久助その人であった。
「おたまちゃん、本当にいいのかい?」
「いいのよ。何度もそう言ったじゃない」
「だけど、あっしと一緒になるってぇことはよ……」
「『重荷も一緒に背負うことになる』って言うんでしょ?」
「あ、あぁ。どうして……?」
「久助さんったら、何度も言うんだもの。
すっかり覚えちゃったわよ。アタシも何度も言うわ。
それでもいい。今の久助さんを好いているのよってね」
「あり……ありがとよ。おたまちゃん……。
あっしに、こんな日が来るなんてなぁ……」
「ちょ、ちょいと! 久助さん。泣かないで。
アタシこそ、久助さんみたいな二枚目と一緒になれるなんてさ。
夢見てるみたいなんだから」
「おたまちゃん……」
「久助さんの子なら、アタシは面倒見るのも苦じゃないよ。
だけど、いつかはアタシの子も欲しいねぇ」
「うん……、うん」
初めて見る久助の幸せそうな顔に、巳之吉と桔梗は驚く。
と同時に、一時でも久助に幸せが訪れていたことに安堵する。
「良かったなぁ、全てを飲み込んで、それでもいいってよ。
そんな相手に会うことが出来たんだなぁ」
久助の泣き笑いの顔につられるように、巳之吉もぐすぐすと鼻を鳴らす。
桔梗のほうは、冷たいような目をしている。
「巳之吉様……。これが、物の怪のやり口です。
ひとたび幸せにしておいて、それから、どん底まで落とす。
幸せに見えることの陰にこそ、物の怪が潜んでいるのです。
そろそろ、次が見せられるようです……」
ぐにゃり。
景色が歪む。
足元では、青々とした緑が生い茂る。
川面がキラキラとその流れに日の光と月の光を交互にはね返す。
ピタリ。
再びの長屋が見える。
きぇぇぇぇ!
ガチャン! ガチャ、ガチャン! バッシャーン!
女の金切り声に続いて、何かが割れるような音。
そして、水をぶちまけたような音の後に、叫び声がする。
長屋の戸が荒々しく開かれて、びしょ濡れの若い女が放り出される。
どうやら、久助と恋仲のおたまのようだ。
放り出したのも女。
こちらは、件のおつやであった。
その造作の美しさは、年を重ねるごとに凄みを増している。
けれど、今は、目を吊り上げ、口は醜く歪み、その瞳はギラギラと光る。
「この泥棒猫がっ! アタシから栄さんを奪おうってのかい!」
「久助さんのおっかさん、アタシは久助さんと一緒になりたいだけです」
「バカなことをお言いでないよ。久助は、まだ赤子だよ。
アタシから、久助を攫おうってのかい?」
「久助さんは……、久助さんは、もう一人前の男です。
どうにか手放してやっちゃくれませんか」
「うるさいよ、この売女がっ!
あんたに、アタシの幸せの邪魔はさせないよ。
とっとと消え失せなっ!」
夜叉にも見える顔つきで、おつやは、おたまに土を蹴りつける。
「おっかさん、やめとくれっ! おたまちゃんは、あっしの……」
「あら、栄さん。
アタシが、おまえさんについた悪い虫を追っ払ってやるからね」
「久助さんっ! おっかさんは、もう駄目よ。アタシと一緒に逃げて」
「……すまねぇ。おたまちゃん。あっしは、あっしは……。
こんなんでも母親だ。どうにか、話してみるから……」
「久助さん……。アタシを選んじゃくれないの……?」
「違う! そうじゃねぇ……。そうじゃねぇんだけれど……」
久助の言葉に、おたまは目に涙をあふれさせて。
それから、こぶしをぎりりと握り締めると駆け出した。
おつやを羽交締めにして押さえていた久助は、後を追わない。
一度止まって振り向いたおたまの顔に、失望の色が浮かぶ。
久助は、その顔から目を逸らしただけだった。
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