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第1話 しがみつ鬼
(7)父親代わり
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「おい、見たか? 今の大家の爺様。あれは……」
「はい。物の怪憑き、もしくは、物の怪そのものでしょう」
「やっぱり、こんなにも前から、狙われてやがったか」
「おそらく、ここは今から十年ほど前。
ここで、断ち切れると良いのですが……」
「やべぇってのかい?」
「まだ分かりませぬ。けれど、あの女には、べったりと物の怪の印が」
「あぁ、また見えたのかよ?」
「ええ……」
巳之吉と桔梗、ふたりの目の前には十年ばかり前の様子が見えている。
まるで、その場にでもいるような心持ちになる。
しかし、そこは、繭が見せる染みでしかない。
それゆえ、ふたりは、そこに手出しすることも口出しすることも出来ない。
ただ、これから起きる出来事を、黙って見ているしかないのである。
「あぁ! 何度見ても、歯痒いなぁ!
ここで、『あいつには近づくな』って言ってやれたらなぁ!」
「はい。けれど、もし、それが出来たとしても結果は変わらないかと」
「なんでだよぅ? ちょいと気をつければ、不幸は防げるんだぜ?」
「人は、未だ起こってもいない不幸のために、気を遣ったりなど。
……決して、しないものです。
大抵の不幸は、起きてから悔やむもの。
その時になるまで、気づけない。いいえ、気づきたくない。
それが、人のさがというものでしょうから」
「……確かにな。俺ァ、人のこと言えた義理じゃねぇや。
けどな、やっぱり、不幸にならずに済むなら教えてやりてぇ。
そう、思っちまうのよ」
「ふふふ。そこが、あなた様の心根の良いところ。
それを否とは、言いませんよ」
ふたりがそうこうしているうちに、目の前の光景がぐにゃりと歪む。
それから、人の動きや雲の流れが、あり得ない速さで進む。
あっという間に、日が暮れる。
長屋の戸は閉じられ、人々が眠りにつき始める。
繭の染みは、必要なところを切り取るように見せてくる。
写し絵の場面が変わるが如く。
繭が要らないと決めたところは、すぐに流されてしまう。
「……っ! おっかさん! やめとくれ。何を……」
「栄さんったら、今更、なんだい? 恥ずかしがってるのかい?」
「いけないよ……。あっしは、おとっつぁんじゃねぇってのに……」
「まだ、そんな戯れ言を。ねぇ、アタシのこと、好いちゃいないのかい?」
「そうじゃなくてさ。目を覚ましておくれよ、おっかさん……」
「栄さん、アタシも子が欲しいんだよぅ。栄さんの子が……」
「あぁ、いけないって言うのに。……あぁ!」
若い男の長屋から、男女の睦み声のようなものが聞こえてくる。
隙間だらけの長屋では、特段、珍しいことではない。
けれど、長屋にいるのは親子だけのはずであった。
巳之吉と桔梗が、目を合わせる。
桔梗が、こくりと頷く。
巳之吉が、口を開こうとした、その時。
目の前の光景が、再び、ぐにゃりと歪んだ。
今度は、さっきとは比べものにならぬ速さで時が進む。
ぴたり。
唐突に止まった光景に、巳之吉は軽い酔いを覚える。
「うぇ、気持ち悪りぃ。
毎度のことながら、どうにかならねぇもんかねぇ」
「景色が動き出したら、見ちゃなりません。
何度も申し上げたでしょう?」
「ははっ! すまねぇ、つい、な。あれ、あの母親……」
巳之吉の目線の先には、長屋で泣き濡れていた女の姿。
確か、『おつや』と呼ばれていた。
その女の姿がある。
あれから、どのくらいの刻が過ぎたのか。
すっかりと気力を取り戻したように見える。
張りのある肌に、黒々とした艶髪。
浮かべられた笑みは、周りを魅了して止まないと言った雰囲気。
幸せそうに、己の腹をさすっている。
その腹は、はち切れんばかりに膨らんでいる。
井戸端で、おつやが近所のおかみらしき人に声を掛けられている。
「おつやさん、もうすぐだろ? 楽しみだねぇ」
「そうなのよ。初めての子だから、案じてるんだよ」
「水天宮にお詣りには行ったのかい?」
「もちろんさ。戌の日にねぇ。栄さんも一緒に行ってくれて」
「……そ、そうかい。じゃあ、大事にねぇ」
おかみらしき人が、そそくさと井戸端を離れていく。
おつやは、それが、気にはならないようで。
鼻歌交じりで、己の長屋に戻っていく。
おつやの姿が消えると、井戸端には、ほかのおかみ連中が集まってくる。
「ちょいと、ちょいと! あれは、誰の子なんだい?」
「分からないねぇ。何度聞いても、『栄さん』の子だって言うんだよ」
「栄次郎さんなら、とっくにおっ死んじまったじゃあないか」
「そうなんだけどねぇ。おつやさんは、そうは思ってないようさね」
「しかもだよ? 初めての子だって、言い張るんだよ」
「おつやさんには、久助がいるだろ?」
「そうだよねぇ! だけど、久助の話になると、キョトンとしちゃってさ」
「それにねぇ、おつやさんたら、己の年も忘れたみたいなんだよ」
「あぁ、そうそう! 十五だって思ってるみたいでねぇ。
アタシなんか、『おふきちゃん、ちょいと老けたね』なんて言われちまって」
「もうすぐ三十路だもの、おかしくなんかないさ。
おかしいのは、おつやさんのほうだろ?」
「そうだよ! おつやさんたら、年を取らないどころかさ。
アタシにゃ、若返って見えるよ」
「栄次郎さんが亡くなった時にゃ、げっそりやつれてたけどねぇ」
「けどさ、別に、いい人が出来たんなら、そう言やいいだろ?」
「……あのさ、少し言いづらいんだけどね。
おつやさんの相手って、久助ってことは無いかね?」
「まさか! 久助は、おつやさんの実の子だろ?」
「そうなんだけどさ。うちは、おつやさんの隣りだろ?
夜も更けりゃ、色々、聞こえてきちまうのさぁ」
「まぁ、そりゃね。長屋の安普請じゃあ、当たり前のことさね」
「そう。それでね、聞こえてくる声ってのが、おつやさんと久助なんだよ」
「それって……」
「うん。不粋なことを言いたくは無いけどさ。もしかして……」
「あんた、滅多なこと言うもんじゃあないよ」
「そう、だよねぇ。でも、ほっといていいもんなのかねぇ……」
騒がしく噂話に花を咲かせていたおかみ連中の口が、ピタリと止まる。
互いに困ったように目を合わせる。
そのうち、ひとりがおずおずと口を開く。
「ねぇ……。大家さんに、話してみたらどうだい?」
すると、ほかのおかみ連中もパッと顔を明るくして頷く。
「そうだ、そうだよ! 店子の面倒を見るのも大家さんの仕事だもんねぇ」
「そうさ、アタシらが、ここで、グダグダのたまったって無駄ってもんさ」
「あんた、大家さんに話しといでよ」
肩の荷をおろしたように、おかみ連中は三々五々に散っていく。
その様子を見ていた巳之吉と桔梗。
話の怖ろしさに気づき、顔を青ざめさせている。
「巳之吉様……。
あの若い男、久助に『父親として』と聞いていましたね?
何かお気づきだったのですか?」
「い、いや? 俺ァよう、ただ単に、『父親代わり』って意味でよ?」
「どうやら、代わりではなかったようですね」
「こりゃあ、切ねぇ話になりそうだぜ」
「はい。物の怪憑き、もしくは、物の怪そのものでしょう」
「やっぱり、こんなにも前から、狙われてやがったか」
「おそらく、ここは今から十年ほど前。
ここで、断ち切れると良いのですが……」
「やべぇってのかい?」
「まだ分かりませぬ。けれど、あの女には、べったりと物の怪の印が」
「あぁ、また見えたのかよ?」
「ええ……」
巳之吉と桔梗、ふたりの目の前には十年ばかり前の様子が見えている。
まるで、その場にでもいるような心持ちになる。
しかし、そこは、繭が見せる染みでしかない。
それゆえ、ふたりは、そこに手出しすることも口出しすることも出来ない。
ただ、これから起きる出来事を、黙って見ているしかないのである。
「あぁ! 何度見ても、歯痒いなぁ!
ここで、『あいつには近づくな』って言ってやれたらなぁ!」
「はい。けれど、もし、それが出来たとしても結果は変わらないかと」
「なんでだよぅ? ちょいと気をつければ、不幸は防げるんだぜ?」
「人は、未だ起こってもいない不幸のために、気を遣ったりなど。
……決して、しないものです。
大抵の不幸は、起きてから悔やむもの。
その時になるまで、気づけない。いいえ、気づきたくない。
それが、人のさがというものでしょうから」
「……確かにな。俺ァ、人のこと言えた義理じゃねぇや。
けどな、やっぱり、不幸にならずに済むなら教えてやりてぇ。
そう、思っちまうのよ」
「ふふふ。そこが、あなた様の心根の良いところ。
それを否とは、言いませんよ」
ふたりがそうこうしているうちに、目の前の光景がぐにゃりと歪む。
それから、人の動きや雲の流れが、あり得ない速さで進む。
あっという間に、日が暮れる。
長屋の戸は閉じられ、人々が眠りにつき始める。
繭の染みは、必要なところを切り取るように見せてくる。
写し絵の場面が変わるが如く。
繭が要らないと決めたところは、すぐに流されてしまう。
「……っ! おっかさん! やめとくれ。何を……」
「栄さんったら、今更、なんだい? 恥ずかしがってるのかい?」
「いけないよ……。あっしは、おとっつぁんじゃねぇってのに……」
「まだ、そんな戯れ言を。ねぇ、アタシのこと、好いちゃいないのかい?」
「そうじゃなくてさ。目を覚ましておくれよ、おっかさん……」
「栄さん、アタシも子が欲しいんだよぅ。栄さんの子が……」
「あぁ、いけないって言うのに。……あぁ!」
若い男の長屋から、男女の睦み声のようなものが聞こえてくる。
隙間だらけの長屋では、特段、珍しいことではない。
けれど、長屋にいるのは親子だけのはずであった。
巳之吉と桔梗が、目を合わせる。
桔梗が、こくりと頷く。
巳之吉が、口を開こうとした、その時。
目の前の光景が、再び、ぐにゃりと歪んだ。
今度は、さっきとは比べものにならぬ速さで時が進む。
ぴたり。
唐突に止まった光景に、巳之吉は軽い酔いを覚える。
「うぇ、気持ち悪りぃ。
毎度のことながら、どうにかならねぇもんかねぇ」
「景色が動き出したら、見ちゃなりません。
何度も申し上げたでしょう?」
「ははっ! すまねぇ、つい、な。あれ、あの母親……」
巳之吉の目線の先には、長屋で泣き濡れていた女の姿。
確か、『おつや』と呼ばれていた。
その女の姿がある。
あれから、どのくらいの刻が過ぎたのか。
すっかりと気力を取り戻したように見える。
張りのある肌に、黒々とした艶髪。
浮かべられた笑みは、周りを魅了して止まないと言った雰囲気。
幸せそうに、己の腹をさすっている。
その腹は、はち切れんばかりに膨らんでいる。
井戸端で、おつやが近所のおかみらしき人に声を掛けられている。
「おつやさん、もうすぐだろ? 楽しみだねぇ」
「そうなのよ。初めての子だから、案じてるんだよ」
「水天宮にお詣りには行ったのかい?」
「もちろんさ。戌の日にねぇ。栄さんも一緒に行ってくれて」
「……そ、そうかい。じゃあ、大事にねぇ」
おかみらしき人が、そそくさと井戸端を離れていく。
おつやは、それが、気にはならないようで。
鼻歌交じりで、己の長屋に戻っていく。
おつやの姿が消えると、井戸端には、ほかのおかみ連中が集まってくる。
「ちょいと、ちょいと! あれは、誰の子なんだい?」
「分からないねぇ。何度聞いても、『栄さん』の子だって言うんだよ」
「栄次郎さんなら、とっくにおっ死んじまったじゃあないか」
「そうなんだけどねぇ。おつやさんは、そうは思ってないようさね」
「しかもだよ? 初めての子だって、言い張るんだよ」
「おつやさんには、久助がいるだろ?」
「そうだよねぇ! だけど、久助の話になると、キョトンとしちゃってさ」
「それにねぇ、おつやさんたら、己の年も忘れたみたいなんだよ」
「あぁ、そうそう! 十五だって思ってるみたいでねぇ。
アタシなんか、『おふきちゃん、ちょいと老けたね』なんて言われちまって」
「もうすぐ三十路だもの、おかしくなんかないさ。
おかしいのは、おつやさんのほうだろ?」
「そうだよ! おつやさんたら、年を取らないどころかさ。
アタシにゃ、若返って見えるよ」
「栄次郎さんが亡くなった時にゃ、げっそりやつれてたけどねぇ」
「けどさ、別に、いい人が出来たんなら、そう言やいいだろ?」
「……あのさ、少し言いづらいんだけどね。
おつやさんの相手って、久助ってことは無いかね?」
「まさか! 久助は、おつやさんの実の子だろ?」
「そうなんだけどさ。うちは、おつやさんの隣りだろ?
夜も更けりゃ、色々、聞こえてきちまうのさぁ」
「まぁ、そりゃね。長屋の安普請じゃあ、当たり前のことさね」
「そう。それでね、聞こえてくる声ってのが、おつやさんと久助なんだよ」
「それって……」
「うん。不粋なことを言いたくは無いけどさ。もしかして……」
「あんた、滅多なこと言うもんじゃあないよ」
「そう、だよねぇ。でも、ほっといていいもんなのかねぇ……」
騒がしく噂話に花を咲かせていたおかみ連中の口が、ピタリと止まる。
互いに困ったように目を合わせる。
そのうち、ひとりがおずおずと口を開く。
「ねぇ……。大家さんに、話してみたらどうだい?」
すると、ほかのおかみ連中もパッと顔を明るくして頷く。
「そうだ、そうだよ! 店子の面倒を見るのも大家さんの仕事だもんねぇ」
「そうさ、アタシらが、ここで、グダグダのたまったって無駄ってもんさ」
「あんた、大家さんに話しといでよ」
肩の荷をおろしたように、おかみ連中は三々五々に散っていく。
その様子を見ていた巳之吉と桔梗。
話の怖ろしさに気づき、顔を青ざめさせている。
「巳之吉様……。
あの若い男、久助に『父親として』と聞いていましたね?
何かお気づきだったのですか?」
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