因果の糸、断ち切り申す

クリヤ

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第1話 しがみつ鬼

(9)丑三つ時の包丁研ぎ

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 久助におたま、そしておつやの揉め事を近くで見ていた巳之吉と桔梗。
 詰めていた息を、はぁぁぁっと吐き出して巳之吉が言う。

 「久助のやつもよぅ。ただ哀れと思っちゃいたが……」
 「ええ。単にそうとも言えないようですね」
 「このおたまちゃんのこともそうだけどよ?
  おっかさんから逃げることだって、出来たんじゃあねぇのかね?」
 「そう、でしょうね。初めに、事が起こった時から違和はありました」
 「だよなぁ! だってよ? 相手は、おっかさんとはいえよ?
  おなごじゃねぇか。十五にもならよ、どんだけ抱きつかれてもよ?
  それを、突っぱねることくらい、容易いだろうになぁ!」
 「はい。それをしない、いや出来ないのか、したくは無いのか……」
 「だからと言ってよ? 久助が悪りぃと断じることは出来ねぇけどよ」
 「そう、ですね。おつやに憑いていた物の怪。
  あやつの影響が無いとは言えませぬ」
 「うん……。ここで終わっても、スッキリしねぇ気がするぜ」

 ぐにゃり。
 ふたりが話しているうちに、またしても歪む目の前の景色。
 ギラギラと照りつける日の光。
 大川に上がる見事な花火。
 渡し舟が、風に押されるようにスイスイと流れていく。


 ピタリ。
 シャリリ、シャリリ、シャー、シャリリ。パシャリ。
 景色が止まった途端に、聞こえてきたのは砥石の音。
 丑三つ時の長屋に、包丁を研ぐ音が聞こえる。
 時折り、水を使う音以外は、規則正しく音は続く。
 慣れた様子で研がれる包丁。
 その仕草は、これまでの久助の料理人としての研鑽をうかがわせる。

 中起きをして、仕事道具の手入れをするのは、おかしなことではない。
 むしろ、仕事人としては褒められるべき習いとも言える。
 けれど、目の前で包丁を研ぐ久助は、様子が違っていた。
 異様と言ってもいい雰囲気を醸し出している。
 血走ったようなまなこは、どこを見ているのか分からない。
 手だけは動いている。
 だが、包丁の具合を確かめることもせず、ただひたすらに動かしている。
 汗で、べったりと顔に張りつく髪を払おうともしない。
 ぶつぶつと口から何か言葉を漏らしているようだ。

 「……あっしは、悪くねぇ。
  早くにおとっつぁんが、おっ死んだりしなきゃ良かったんだ。
  ……あっしは、悪くねぇ。
  まだ子どものあっしに、あんなことをさせたおっかさんが悪りぃんだ。
  ……あっしは、悪くねぇ。
  お天道様に顔向け出来ねぇ子どもを授けた神様がいけねぇんだ。
  ……あっしは、悪くねぇ。
  添うって約束を反故にした、おたまちゃんのせいだ」

 呪詛のような言葉を吐きながら、包丁を研ぎ続ける久助。
 整った顔立ちの男が、一点を見つめて口を動かす。
 その美しさは、怖ろしさと紙一重であった。
 同じ動作をくり返す姿は、壊れた絡繰人形のようにも見える。

 「あぁ、ここで心を決めちまったってわけだなぁ」
 「そうですね。あぁ、背中にべったり……。ほうら、ご覧を」

 桔梗が、己の手の指を丸めて筒のようにする。
 その手を巳之吉のほうに差し出してくる。
 巳之吉が筒になった桔梗の手を通して、向こう側を覗く。
 すると、筒を通して見た久助の背にべったりと張りつくものが見える。

 「ありゃあ、なんだ? 猫? 化け猫かい?」
 「大家に憑いていた物の怪の欠片でしょう」
 「けどよ、猫っていうにゃあ、気色悪りぃぜ」
 「あくまでも、あれは物の怪ですから」

 久助の背には、猫のようなものがくっついている。
 猫そのものではない。
 猫を煮溶かして、葛粉でドロドロととろみをつけたような。
 真っ黒なデロデロとした液体に、猫の目鼻がついているような。
 そんな醜悪なものが、背中に覆いかぶさっている。

 「あれを引き剥がすのは、骨が折れそうだなぁ」
 「剥がすまでもないと思いますよ。……ほら、来ますっ!」

 久助の背に張りついていた猫のようなドロドロ。
 その目がギラリと光る。
 口をパックリと開けると、怖ろしいほどに尖った歯が見える。
 ギョロリ。
 光った金目が、巳之吉と桔梗の姿を捉える。

 シャーーー! フシュゥーーー!
 不満のような威嚇のような息が、物の怪から漏れる。
 同時に瘴気らしきモヤが、辺りに立ち込めてくる。

 桔梗が、いつの間にか腰から篠笛を引き抜いている。
 笛は、桔梗が構えると、スラリと刀に変げした。

 「こやつは、私が押さえます。巳之吉様は、糸をっ!」

 桔梗の目線の先を、巳之吉が見やる。
 猫のドロドロに隠れるようにして、糸が動くのが分かる。
 今度の糸は、ぐねぐねと蛇のようにしなやかに素早く動く。
 切られまいとでもしているかのように、コソコソと糸が逃げ出す。

 「おぅ! 任せろ! 桔梗も気ィつけろ!」

 カランッ、カランッ!
 素早く動く糸を追うために、巳之吉は己の下駄を脱ぎ捨てる。
 着物の裾をササッとからげる。
 裸足になった巳之吉は、蛇のような糸を追いかけて走り出す。
 チラリと横目で桔梗の姿を確かめる。
 桔梗は、襲いかかる猫のドロドロを一刀のもとに斬り伏せるところであった。

 蛇のような糸の塊は、グネリグネリと地面を這うように進む。
 一見すると遅いようにも思える。
 ところが、近づいて掴もうとすると、巳之吉の手をスルリとすり抜ける。
 何度も何度も、巳之吉の手をすり抜け、足の間を潜り抜ける。
 からかうような糸の動きに、巳之吉は苛立つ。

 「ったくよう! 深川で、鰻ィ獲ってるわけじゃねぇってのに!」

 思わず、巳之吉の口から愚痴がこぼれ出す。

 「……ん? 鰻……。そうか、鰻だ! その要領でちょいといってみるか」

 自分の独り言に、何かを思いついた様子の巳之吉。
 帯に挟んだ手拭いをスルリと取り出した。
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