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第4話「母の覚悟」
しおりを挟むリディアは、震える手を握りしめた。
アーサーの言葉が、何度も頭の中で反響する。
――エリーゼを、公爵邸に引き取る。
それは、脅しではない。
この男は、本気だ。
「……公爵様」
リディアは、ゆっくりと顔を上げた。
「あなたは、本当にそれをなさるおつもりですか」
「ああ」
アーサーの返答に、迷いはなかった。
「エリーゼは、ヴァンデール家の正統な血を引く娘だ。王都で、最高の教育を受けるべきだ」
「……この子は、ここで幸せです」
「それは、お前の思い込みだ」
アーサーは、一歩踏み込んだ。
「あの子には、公爵令嬢としての未来がある。貴族社会での地位、財産、守られた人生が」
「そんなもの――!」
リディアの声が、大きくなった。
「そんなもの、エリーには必要ありません! この子には、ただ――」
「ただ?」
「……ただ、普通の人生を歩んでほしいだけです」
リディアは、必死だった。
「平凡でいい。目立たず、静かに、幸せに生きてくれれば――」
「なぜだ」
アーサーの声が、鋭くなった。
「なぜ、あの子を隠そうとする。なぜ、平凡な人生を望む」
「……それは」
「まるで、何かから逃げているようだ」
リディアの心臓が、跳ねた。
この人は――気づいている?
「……逃げているわけでは、ありません」
「ならば、何だ」
アーサーが、さらに一歩近づく。
「お前は、何かを恐れている。それも、ひどく」
リディアは、後ずさった。
でも、背中が壁に当たる。
逃げ場がない。
「公爵様、どうか――」
「リディア」
アーサーの手が、壁についた。
彼の顔が、すぐ近くにある。
「俺を、信用できないのか」
その声には、痛みがあった。
リディアは、胸が締め付けられた。
「……そうではありません」
「ならば、話せ」
「……話せません」
「なぜだ!」
アーサーの声が、初めて荒くなった。
「なぜ、俺に何も言わない。なぜ、一人で抱え込む」
「……それは」
「俺が、信用できないからか。それとも――」
彼の瞳が、深くリディアを見つめる。
「俺を、愛していないからか」
リディアは、息を呑んだ。
違う。
違う、アーサー。
私は、あなたを――
「……愛しています」
その言葉は、自然に口から零れ落ちた。
アーサーの目が、見開かれた。
「……今、何と」
「愛しています」
リディアは、涙を流しながら繰り返した。
「ずっと、ずっと愛しています」
アーサーの表情が、崩れた。
彼の手が、リディアの頬に触れる。
「ならば、なぜ――」
「でも、言えないんです」
リディアは、首を振った。
「理由は、言えない。でも、どうか信じてください」
「何を」
「私が、あなたとエリーを守るために、こうしているということを」
アーサーは、じっとリディアを見つめた。
長い、長い沈黙。
やがて、彼は深くため息をついた。
「……わかった」
リディアは、驚いて顔を上げた。
「……え?」
「理由は、まだ聞かない」
アーサーは、リディアから離れた。
「だが、条件がある」
「……条件?」
アーサーは、振り返った。
「お前と娘を、王都に連れていく」
「それは――!」
「拒否権はない」
彼の声は、断固としていた。
「だが、無理やり引き離すようなことはしない。お前も一緒に、公爵邸に来い」
リディアは、言葉を失った。
「……公爵邸に?」
「ああ」
アーサーは頷いた。
「お前が理由を話せないというなら、俺がお前を守る。お前が何かを恐れているなら、その恐怖ごと俺が抱え込む」
「でも――」
「これは、交渉ではない」
アーサーの瞳が、まっすぐリディアを捉えた。
「これは、俺の願いだ」
リディアは、唇を噛んだ。
王都に戻る。
アーサーの傍に。
それは、危険すぎる。
エリーゼが、彼の娘だと知られれば――
予言が、動き出す。
「……お断りします」
「ならば、エリーゼだけを連れていく」
「……っ」
リディアは、追い詰められた。
この男は、絶対に引かない。
ならば――
「……わかりました」
リディアは、震える声で答えた。
「条件があります」
「聞こう」
リディアは、アーサーをまっすぐ見た。
「エリーが、あなたの娘だということは、誰にも言わないでください」
「……なぜだ」
「それも、言えません」
アーサーは、眉をひそめた。
「リディア――」
「これが、私の絶対条件です」
リディアの声は、強かった。
「これを守っていただけないなら、私は王都には行きません」
アーサーは、しばらく黙っていた。
やがて、小さく頷いた。
「……わかった。約束しよう」
「本当に?」
「ああ。だが、いずれは公表する。それだけは、覚悟しておけ」
リディアは、目を閉じた。
いずれ。
その「いずれ」が来る前に、私は何とかしなければ。
予言を、覆す方法を見つけなければ。
「……ありがとうございます」
リディアは、深く頭を下げた。
「では、準備に少し時間をください」
「明日、迎えに来る」
「明日、ですか?」
「ああ。それ以上待てない」
アーサーは、扉に向かった。
が、振り返る。
「リディア」
「……はい」
「お前が、俺を愛していると言ってくれた」
彼の瞳が、優しく微笑んだ。
「それだけで、今は十分だ」
そして、彼は去っていった。
---
## * * *
扉が閉まった後。
リディアは、その場に座り込んだ。
「……どうしよう」
震える声が、暗闇に消える。
エリーゼの寝顔が、見える。
無邪気に、幸せそうに眠っている。
この子を、守らなければ。
どんな犠牲を払っても。
「エリー……」
リディアは、娘の髪をそっと撫でた。
「ママは、あなたを絶対に守るから」
その夜、リディアは一睡もできなかった。
ただ、娘の寝顔を見つめながら。
そして、5年前に聞いた、あの予言を思い出していた。
――ヴァンデール家の血を引く子は、12歳までに、必ず父の敵に命を狙われる。
エリーゼは、まだ4歳。
あと8年。
8年間、この子を守り抜かなければ。
「……大丈夫」
リディアは、自分に言い聞かせた。
「私が、必ず守る」
そして、夜が明けた。
---
## * * *
翌朝。
エリーゼは、いつも通り元気に目を覚ました。
「ママ、おはよう!」
「おはよう、エリー」
リディアは、笑顔を作った。
「ねえ、ママ」
エリーゼが、首を傾げた。
「昨日のおじさん、また来るの?」
「……ええ」
「やった! 優しそうなおじさんだったもん」
リディアは、胸が痛んだ。
エリーゼは、何も知らない。
あの人が、自分の父親だということも。
自分が、危険に晒されているということも。
「エリー」
「なあに?」
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「……王都よ」
エリーゼの目が、輝いた。
「王都! すごい! お城があるとこだよね!」
「ええ」
「やったあ! ママ、いつ行くの?」
「……今日」
エリーゼは、大喜びで飛び跳ねた。
その姿を見ながら、リディアは思った。
――この笑顔を、守るために。
私は、何度でも悪者になる。
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