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紅茶の香りと沈黙
13話 希望の訪れ
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我が子を産んでから、すでに一年が過ぎていた。
けれどその一年は、ただ「時間が流れた」というだけで――決して穏やかなものではなかった。
あの日を境に、ルシアンが接することを許されたのは、セシリアと、彼女の親しい数人のメイドだけ。
ハンナも、セバスも、そしてレオニスも、姿を見せることはなかった。
最初は無視や冷たい言葉だけだった態度は、徐々に暴力へと変わっていった。
突然の平手打ち。食事の際には、茶器をぶつけられる。
何も言い返せず、ただ耐えるしかない。
「……どうして、私が……」
痛みによろめきながら、ルシアンは幾度となく、そう問いかけた。
理由など考えても分からない。ただ、自分が“いらない存在”なのだと――そう思わされるだけの毎日。
時折、ふと、本気で思うことがある。
こんな生活を続けるくらいなら、いっそ――と。
それでも。
それでも、まだここにいるのは――
遠くから、微かに聞こえてくる声があるから。
子どもの、笑い声。
誰かに甘えるような泣き声。
小さく、それでも確かに命が息づいていることを知らせてくれる、その声。
ルシアンは、その声を聞くために、生きていた。
それが――自分の子だと、信じたかった。
姿を見ることは叶わずとも、小さな命がどこかで笑っている。泣いている。
そう信じなければ、立っていることさえできなかった。
「……もう少しだけ、頑張ろう……」
白い天井を見上げながら、ルシアンはかすかに唇を動かす。
泣きたいのに、もう涙は出てこない。
ただ、胸の奥に小さな火を灯すようにして――今日も誰にも知られずに、息をしていた。
*
そんな日々が続いていたある日。
今日は、なぜかほんの少しだけ、胸の内が違っていた。
息苦しさは相変わらずだったけれど、窓辺に目を向ける余裕が、ほんの少しだけあった。
ルシアンはゆっくりと重たい身体を起こし、窓のカーテンに手をかける。
ぎぃ、と軋む音とともに、久しぶりに窓を開けた。
くすんだガラス越しに見える景色は、以前と何も変わっていない――はずなのに。
今日の空はどこか広くて、風がほんの少しだけやさしく感じられた。
そのときだった。
「あなたは……だれ?」
思いがけない声が、窓のすぐ下から聞こえた。
「……え?」
ルシアンは驚いて、思わず身を乗り出す。
声の方に目を向けると、そこには小さな影がひとつ。
まだあどけなさの残る、五、六歳ほどの男の子が、こちらをじっと見上げていた。
栗色の髪が風にそよぎ、大きな瞳がまっすぐにルシアンを捉えている。
ただ「誰?」と問われただけなのに、ルシアンの胸が一気に高鳴った。
こんなふうに話しかけられたのは、いつぶりだろう。
ましてや、それが――子どもだったなんて。
喉の奥が震える。けれど、声にならない。
「……私は……」
風にさらわれるような、小さな息だけがこぼれる。
名乗ることが、どこかいけないことのように思えた。
――こんな姿の私が、名を名乗るなんて。
ルシアンの戸惑いを感じ取ったのか、子どもはぱっと笑って、元気よく名乗った。
「ぼくは、ユリウスです!」
ルシアンの胸が、どくんと脈打つ。
この子が。
レティーナ様と、レオニス様の子。
こんなにまっすぐで、こんなに優しい目をしている。
きっと、たくさんの愛をもらって育ったのだろう。
少しだけ言葉を交わした。
空のこと、花のこと、部屋の中のこと――とりとめもない、けれど愛しい会話。
ルシアンの胸の奥に、じんわりとあたたかいものが広がっていく。
「楽しい」と思ったのは、いつぶりだっただろう。
だが、同時に怖くもあった。
もし誰かに見つかったら。
この子が罰を受けるようなことがあったら――。
「ユリウス様……今日はありがとう。でも、もうここには来てはなりません。私のことも、誰にも言わないでくださいね」
そう言うと、ユリウスは少し寂しそうに目を伏せたが、こくりと頷いてくれた。
それでも――
それでもユリウスは、その日から、こっそりとルシアンのもとへ足を運ぶようになったのだった。
ルシアンは何度も、「ここに来てはいけません」と伝えた。
けれど彼は、明るく「うん!」と返事をして、次の日もまたやって来る。
……まったく、約束を守る気がないではないか。
そう思いながらも、ルシアンは気づいていた。
自分の心のどこかに、ほんの少し“安心”が芽生えていることに。
その日は、ルシアンは気まぐれでキッチンに立ち、小さなお客さまのためにクッキーを焼いてみた。
「こんにちは!!きょうもきちゃいましたー!」
いつものように元気な声で現れたユリウスを見て、ルシアンはふっと笑ってしまった。
笑うなんて、本当に久しぶりだった。
「ユリウス様。今日はお茶会にしましょう。クッキーを焼いたんです。でも……お部屋には入れられなくて、ごめんなさい」
「いいの!たのしみー!」
ユリウスは嬉しそうにクッキーをかじりながら、にこっと笑った。
「今日は、お名前を教えてください!」
そのまっすぐな瞳に見つめられ、ルシアンは少しだけ迷い――それでも、ゆっくりと頷いた。
「……ルシアン、と申します」
たったそれだけのことが、とても大きな一歩のように感じられた。
けれどその一年は、ただ「時間が流れた」というだけで――決して穏やかなものではなかった。
あの日を境に、ルシアンが接することを許されたのは、セシリアと、彼女の親しい数人のメイドだけ。
ハンナも、セバスも、そしてレオニスも、姿を見せることはなかった。
最初は無視や冷たい言葉だけだった態度は、徐々に暴力へと変わっていった。
突然の平手打ち。食事の際には、茶器をぶつけられる。
何も言い返せず、ただ耐えるしかない。
「……どうして、私が……」
痛みによろめきながら、ルシアンは幾度となく、そう問いかけた。
理由など考えても分からない。ただ、自分が“いらない存在”なのだと――そう思わされるだけの毎日。
時折、ふと、本気で思うことがある。
こんな生活を続けるくらいなら、いっそ――と。
それでも。
それでも、まだここにいるのは――
遠くから、微かに聞こえてくる声があるから。
子どもの、笑い声。
誰かに甘えるような泣き声。
小さく、それでも確かに命が息づいていることを知らせてくれる、その声。
ルシアンは、その声を聞くために、生きていた。
それが――自分の子だと、信じたかった。
姿を見ることは叶わずとも、小さな命がどこかで笑っている。泣いている。
そう信じなければ、立っていることさえできなかった。
「……もう少しだけ、頑張ろう……」
白い天井を見上げながら、ルシアンはかすかに唇を動かす。
泣きたいのに、もう涙は出てこない。
ただ、胸の奥に小さな火を灯すようにして――今日も誰にも知られずに、息をしていた。
*
そんな日々が続いていたある日。
今日は、なぜかほんの少しだけ、胸の内が違っていた。
息苦しさは相変わらずだったけれど、窓辺に目を向ける余裕が、ほんの少しだけあった。
ルシアンはゆっくりと重たい身体を起こし、窓のカーテンに手をかける。
ぎぃ、と軋む音とともに、久しぶりに窓を開けた。
くすんだガラス越しに見える景色は、以前と何も変わっていない――はずなのに。
今日の空はどこか広くて、風がほんの少しだけやさしく感じられた。
そのときだった。
「あなたは……だれ?」
思いがけない声が、窓のすぐ下から聞こえた。
「……え?」
ルシアンは驚いて、思わず身を乗り出す。
声の方に目を向けると、そこには小さな影がひとつ。
まだあどけなさの残る、五、六歳ほどの男の子が、こちらをじっと見上げていた。
栗色の髪が風にそよぎ、大きな瞳がまっすぐにルシアンを捉えている。
ただ「誰?」と問われただけなのに、ルシアンの胸が一気に高鳴った。
こんなふうに話しかけられたのは、いつぶりだろう。
ましてや、それが――子どもだったなんて。
喉の奥が震える。けれど、声にならない。
「……私は……」
風にさらわれるような、小さな息だけがこぼれる。
名乗ることが、どこかいけないことのように思えた。
――こんな姿の私が、名を名乗るなんて。
ルシアンの戸惑いを感じ取ったのか、子どもはぱっと笑って、元気よく名乗った。
「ぼくは、ユリウスです!」
ルシアンの胸が、どくんと脈打つ。
この子が。
レティーナ様と、レオニス様の子。
こんなにまっすぐで、こんなに優しい目をしている。
きっと、たくさんの愛をもらって育ったのだろう。
少しだけ言葉を交わした。
空のこと、花のこと、部屋の中のこと――とりとめもない、けれど愛しい会話。
ルシアンの胸の奥に、じんわりとあたたかいものが広がっていく。
「楽しい」と思ったのは、いつぶりだっただろう。
だが、同時に怖くもあった。
もし誰かに見つかったら。
この子が罰を受けるようなことがあったら――。
「ユリウス様……今日はありがとう。でも、もうここには来てはなりません。私のことも、誰にも言わないでくださいね」
そう言うと、ユリウスは少し寂しそうに目を伏せたが、こくりと頷いてくれた。
それでも――
それでもユリウスは、その日から、こっそりとルシアンのもとへ足を運ぶようになったのだった。
ルシアンは何度も、「ここに来てはいけません」と伝えた。
けれど彼は、明るく「うん!」と返事をして、次の日もまたやって来る。
……まったく、約束を守る気がないではないか。
そう思いながらも、ルシアンは気づいていた。
自分の心のどこかに、ほんの少し“安心”が芽生えていることに。
その日は、ルシアンは気まぐれでキッチンに立ち、小さなお客さまのためにクッキーを焼いてみた。
「こんにちは!!きょうもきちゃいましたー!」
いつものように元気な声で現れたユリウスを見て、ルシアンはふっと笑ってしまった。
笑うなんて、本当に久しぶりだった。
「ユリウス様。今日はお茶会にしましょう。クッキーを焼いたんです。でも……お部屋には入れられなくて、ごめんなさい」
「いいの!たのしみー!」
ユリウスは嬉しそうにクッキーをかじりながら、にこっと笑った。
「今日は、お名前を教えてください!」
そのまっすぐな瞳に見つめられ、ルシアンは少しだけ迷い――それでも、ゆっくりと頷いた。
「……ルシアン、と申します」
たったそれだけのことが、とても大きな一歩のように感じられた。
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