シュガーポットに食べかけの子守唄

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5章

2 火種の元

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2.
ザクザクと芝生を踏む足音が3人分。アマネを先頭に僕とイディオットが湖に向かって歩いていた。目指すは眠り鼠、シュラーフロージィの城だ。
アマネはイディオットと合流してから、いつにも増して不機嫌そうに棒付きキャンディを咥えて舐めている。僕と2人だとよく喋るのに、今日は口数は少なく黙って歩いている。イディオットもアマネがいるせいか、あまり話そうとしないので3人もいるのに足音と草木が風にそよぐ音しか聞こえなかった。
かく言う僕も話すこともない。無理に仲の悪い2人を取り持つのもおかしな話だし、少々の気まずさはあれど黙るのが最善だと感じていた。
そもそも、最初なら絶対に有り得なかった3人で行動している現在がもうすでに奇跡に近いのだ。これ以上の贅沢は言ってはならないだろう。
「…ミズキという名前だったか?アリスはまだ城に?」
沈黙を最初に破ったのはイディオットだった。彼は先頭のアマネではなく、隣の僕を見ていたので、僕に質問しているのだろう。
「多分、そうですね」
僕は空を仰いで口元に手を当てて答える。あれだけ丁重に扱われているミズキが自ら外に出るとは考えづらい。
今も双子に囲まれ、時にはシュラーフロージィを加えてお茶会でもしているのかもしれない。そう思うと、なんだか胸の中がモヤモヤとした。
元を正せば自分も悪いのだと分かっているし、彼女ばっかりが悪いわけではないことも理解している。話せばきっと、彼女は聞く耳くらい持っているだろう。
僕は彼女との対話にすぐ挑まなかった。愛という免罪符を手に彼女に厳しく当たってしまった。その点は見直すつもりだ。
だけど、たった1週間やそこらで僕よりシュラーフロージィの意見に傾いてしまった彼女に今更のように疑念を持つ自分もいた。あの城で過ごした1週間、僕の行動には後悔ばかりだ。だけど、そんなに僕を信用できなかったのだろうかと悔しい気持ちになってしまう。
その嫉妬にも似た感情は、彼女と離れて過ごすほどに膨れ上がる。彼女の口を通さなくては聞けないことなのに、彼女から答えを得ることが出来ないから、少しずつ増えていく疑念が解決されないまま溜まって腐る。
僕は彼女に会いたい気持ちと同じくらいに、彼女に会いたくないのだと、この道中で気付かされていた。
「アマネ、アイツのこと嫌い」
先頭を歩くアマネが振り返りもせずに言った。
「アイツは自分の口で助けても言わないで、周りに助けてもらってばっかだ。今だって自分から会いに来ないで、どーせアスカが来るのを待ってんだろお?それって、結局アスカに頼ってんじゃねえの?」
「そんなことは…」
そこまで言ってから、続きの言葉を口から出せない。
そんなことはないと、言いきれなかった。1週間で行動を変えたミズキが、僕と離れている間に更にシュラーフロージィの意見に傾くなんて存分に有り得る話だ。
なんならミズキだって、最後に会った時こそまだ僕に未練があったかもしれないが、もう僕などいらないと言っていてもおかしくはない。会ってくれない可能性だってある。
執着しているのは、僕だけじゃないのか?僕が楽園のように感じたあの日々も、ミズキは窮屈していたかもしれない。ずっとミズキは僕を怖いと思っていたのかもしれない。
いつから?どこまで彼女は僕に合わせていたんだ?最初から合わせてたの?なら、あの日々は全部嘘だったのか?僕はただ、彼女の寂しさを埋めるためだけの間に合わせの人間だったのか?
ネガティブな憶測ばかりが、永遠に頭の中で繰り広げられる。ミズキとは何も言わなくても伝わっているような、そんな居心地のよさがあったのに、今では彼女が考えていることが何も分からない。相手の気持ちが分からないことが、人をここまで疑心暗鬼にさせるだなんて、僕はずっと知らなかった。
「ほーら、ないって言いきれねえじゃん。話す必要なんかねえって」
「おい、あまり自分の意見を押し付けるな」
僕を言及しようとするアマネにイディオットが横槍を入れる。
「俺はミズキって子をよく知らないが、それは2人の問題だろ。お前は黙って見守っておけ。何にせよ、平和的に夢から目覚めるには話をつける必要がある。そうだろ?」
イディオットは腕を組んでフンと鼻を鳴らす。彼の顔を見上げると、その視線は僕に向けられていた。
平和的にと言うあたり、イディオットも一応はシュラーフロージィとは休戦の方向で考えてくれているのだろう。それならば、何も争わずに解決させたい。
「…ですね。話さないと、ミズキが考えていることなんて分かりませんから」
自分に言い聞かせるように、僕はイディオットに同意する。チラとこちらを振り返ったアマネはイライラしたようにキャンディをガリガリと噛み砕いて、棒を地面に吐き捨てた。
「気に入らねえ」
言葉のままだろう。アマネは再び前を向き、新しい棒付きキャンディの袋を破った。
ミズキのことが好き。その気持ちに嘘はないはずだ。僕は何度も頭の中で自問自答を繰り返す。
会わなきゃ。日和ってる場合じゃない。僕は気分転換に別の話をすることにした。
「…ところで、話は変わりますけど、オットーさんって何人ですか?アマネは高円寺に住んでるんだから、日本人だよね?」
努めて明るく、自分の暗い気持ちを紛らわすように僕は笑いながら尋ねると、2人は僕を不思議そうに見た。
「この世界は日本人しかいねえだろ」
「俺は日本人だが?」
アマネとイディオットが声をハモらせる。2人は重なった自分たちの声に驚いたように顔を見合わせたが、フンとアマネはそっぽを向いてしまった。
「えっ!?そうなんですか?オットーさんは完全に外国人だと思ってました」
僕は声を上げる。普通に驚いた。イディオットの見た目は完全に外国人だし、シュラーフロージィに至っては人間味もかなり薄い。
そもそも不思議の国自体が外国産じゃないか。名前を忘れた人たちはみんなカタカナの名前を使うのも、海外の方だからだと思っていた。
イディオットは訝しげに僕を見た。
「お前は俺を何だと思ってるんだ。軍人だと思ってた上に外国人だと思ってたのか?」
「軍人で信心深くて葬儀の心得のある、子供が3人くらいいるイギリス紳士かと」
「詰め込みすぎじゃないか?」
素直に感想を述べるとイディオットが神妙な顔をする。アマネはその斜め奥で、背中を向けたまま棒付きキャンディをガリガリと齧った。
「この世界は国外マッチングはしないって父親役が言ってたぞ。だから、全員日本語で話すんだろお」
「俺も純正の日本人だ。世界に馴染むごとに容姿が変わるから、多少は世界観に沿った見た目に変化するんだろう。元の自分の容姿も、今はあまり思い出せないが…」
イディオットはそう言うと、不思議そうに自分の顎髭を撫でた。
「俺の仲間たちで調査しても、出身地は日本だと言う奴らしか記録にない。名前を忘れて、新しく名乗る名前が外国語である率は確かに多いが…容姿が世界観に寄って、ずっと住んでいる世界観もこれだから、何となくって言う奴が大半の印象がある。何故か合わせたくなるのかもしれないな」
「ほお~…」
普通に感心してしまう。なるほど、そういう原理だったのか。言われてみれば、イディオットもシュラーフロージィも人名ではなさそうだ。何かの単語から取ったのかもしれない。
「シュラーフロージィってどういう意味なんです?」
「ドイツ語で不眠症って意味だ。アイツは眠り鼠のくせに、いつ寝てるか分からないからな。周囲から畏敬の念を込められて名付けられたらしい」
「ほあ~」
気になったことを尋ねると、イディオットはサクサクと答えてくれる。僕の中でのイディオットのキャラ付けに、生き字引が追加されそうだ。
そんな話をしながら、3人で村へと辿り着く。村人たちは一様に僕らを見て、一瞬は逃げようとしたが、三月兎も加わった異様なメンバーを見て遠巻きに見守っている。アマネがジャバウォックだけでなく、敵方の三月兎まで同行を許しているのが信じられないのだろう。
「昨日、集落の者に頼んで船を借りておいたんだ。アマネとの同行はさすがに出来ないってことだったので、本当に船の手配だけだが…アスカは湖の渡り方を知ってるってことで良いんだよな?」
周囲を見回しながら、イディオットが僕に尋ねる。
僕とアマネがイディオットの協力を仰いだ数日の間に、僕が単体でこの村に帽子屋の行方を尋ねた。すると、数人から帽子屋らしき金髪の美しい青年が湖の方角へ歩いて行くのを見かけたとの情報が上がった。
この村にある船を管理しているのは、前に宿屋でミズキと共に喧嘩をした老人らしく、彼は絶対に僕には船を貸さないと言い張って困っていたのだが、そのへんはどうやらイディオットが上手くやってくれたらしい。
「方角くらいアマネだって分かるぞ」
自分が全く当てにされていないのが腹立たしいのか、アマネが不機嫌そうに口を曲げた。僕はそれを苦笑いしてなだめる。
「手配して下さってありがとうございます。アマネもこう言ってますし、僕にもおおよそは検討がつきます。方角は僕らに任せて下さい」
お礼を述べると、アマネは「僕らに」と表現されたそれに満足したのか、息を漏らすように笑った。若干9歳なのだ、これくらいで機嫌が左右される彼は本当に幼いが、憎めなくも感じていた。
誰かしらに蔑ろにされることに、忌避されることに慣れすぎると、形はどうあれ虚栄心が満たされないことが多くなるのかもしれない。蔑ろにされ続けると、つけられたその傷が深くなっていくことにも恐らく気づけないんじゃないかと思う。
アマネも今までため息のように笑うだけで、自己主張は少なかったあたり、気づかないままその幼い虚栄心を満たさせるわけがないだろうと思っているんだろう。その前提がありながらも、今こうして僕を介して満たそうとするのは、彼なりの僕への甘えなのかもしれない。
かつての僕が、ミズキに対してそうであったように。
森を丸一日かけて抜けたので、日はすっかり傾いて夕暮れだった。湖の桟橋にくくりつけられた無人の小さな船を前にアマネが立ち止まった。
「もう夜になるぞ、早くしろ」
「むしろ、今日は野宿したらどうだ。体力が落ちては、集中力も落ちる。湖の真ん中で立ち往生が1番困るだろ」
アマネと真逆の意見をイディオットが述べる。それに対してアマネは何か言いたげに口を曲げて僕を見た。ちゃんと彼の言いつけを守って、僕の意見を仰ぐらしい。たまに思うが、本来のアマネは意外としっかりしていて良い子なんだろう。
「うーん、急いでるには急いでいるけど…確かに休憩挟まないと、みんな疲れてるんじゃないかな。休むのは賛成かな」
アマネの機嫌を損ねない程度に自分の意見を優しく伝える。アマネは僕の意見を聞くと、さらに不機嫌そうに腕を組んだ。
「アスカ、前に夜通し湖の上を飛んだだろお。暗くたって疲れてたって行けるって。アマネは地面で寝たくない」
「野宿が嫌なのかあ」
僕は思わず苦笑いする。確かにアマネと旅を始めてから、彼は一度たりとも地面で寝たことはなかった。
彼の生育環境を考えると、布団は常にある生活だったのかもしれないし、逆に布団を用意されていなかった可能性もある。地面で寝ることに強い抵抗があるなら、それは可哀想な気もした。
そんな僕らの様子にイディオットは眉間にしわを寄せたまま肩を落とした。
「しかし、俺は湖の渡り方を知らないぞ。2人が疲れて道を誤った時にフォローが出来ない。本当に大丈夫か?」
「ダーリンは相変わらず考え方が堅いんだにゃあ」
不意に聞こえた女性の声にその場が静まり返る。僕ら3人が振り返った先、イディオットのすぐ隣にはいつの間にかチェルシーがいた。
イディオットの腕に自らの腕を絡め、豊かな胸を押し付けるように彼女はイディオットの腕に頬擦りをしていた。
「うわっ、急に出てくるな!」
珍しく驚いたように声を上げて下がろうとするイディオットに、チェルシーは腕を掴んで離さずに頬を膨らませた。
「なによう、いつも釣れないんだから~!久しぶりに会えたんだから構ってよ~!」
砂糖のように甘い猫なで声を出しながら、チェルシーは負けじとイディオットの腕にしがみつく。イディオットはそれに困ったように自分の額を手で抑えた。
「なにアイツら。デキてんの?」
「大人には色々事情があってね…」
冷めたような目で見つめるアマネに僕は笑顔を引き攣らせて言葉を濁す。
イディオットとチェルシーが寝た仲だとは9歳の子供には説明しがたい。もし父親と母親の情事を見たことがあるとしても、恋人でもない人と容易く寝ていいかは別だ。イディオットの名誉のためにも伏せておくのが無難だろう。
イディオットは額を押さえて、言葉を選ぶように深いため息を吐いた。
「なんだ、その…いつもの件で来たなら、もう無駄だと言ってるだろ」
「冷たいにゃあ!今日はお誘いじゃないし!迷える兎さんとトカゲさん、村人さんたちに助言しに来ただけだよ?」
取り付く島もないイディオットにチェルシーはブーイングをしながら渋々とイディオットの腕に巻いていた自分の腕をほどく。
チェルシーは僕とアマネに視線をうつし、ウィンクをしてから咳払いを一つ。
「湖の向こうに帽子屋がすでに到着しているよ。ミズキは行方不明で、城は大混乱。アタシも探してみたけど見つからない。もう湖は渡ってしまった方がいいよ」
彼女の口から出てきた予想外の言葉に、僕らは顔を見合わせる。彼女は場が静かになったのを確認すると、言葉を続けた。
「正確に言えば、アスカがいるの。性格が全く違うアスカが。恐らくあれは、ミズキが理想としてるアンタ。帽子屋の変幻だと思う」
「僕が?何故?」
元より自分がもう1人いるなんて気味の悪い話だが、よりにもよって何故僕の姿に変幻する必要があるだろう。
帽子屋は人間味を感じないほどに美しい青年だ。アリスが彼を好くように造られているなら、僕のようなパッとしない姿になる意味もないように思える。
「アスカクンって本当に鈍いよね~、ミズキが好きなのはアンタなんだから、アンタに優しく絆されたいに決まってんじゃん」
「別に…僕より素敵な男性がミズキに寄って来るなら、そっちに行った方がいいじゃん」
途中まで冷静を心がけていたはずなのに、気が付くとやはり拗ねたような言葉が口をついて出てくる。
こんなこと言うつもりなかったのに恥ずかしい。僕は自分の頭を押さえて首を横に振った。
「ごめん、違うんだ…いや、違くないのかもしれないけど、そうじゃなくて」
「そんなのどーでもいいでしょ~!アンタそもそも気にしてるとこが違うんだよ。男は見た目じゃなくて中身!な、か、み!1回好きになったら、そんなん関係ないの!」
チェルシーはその場で仁王立ちするように腕を組んでから、ビシッと何故かイディオットを指さした。
「アタシだったら、外見だけの話すればアスカが1番チャラチャラしててホストみたいで好み!だけど、アタシが好きなのは隣のおじさん!似ても似つかないけど、好きなんだからしょーがないじゃん!」
「おい、人を指さすな」
チェルシーの人差し指を掴んで下げながら、イディオットが呆れたようにため息を吐く。
ていうか、僕はそんなにチャラチャラして見えていたことに控え目に驚く。ホストみたいと言われると、嬉しいような嬉しくないような複雑な心境だ。
アマネはすっかり興味を失っているのか、桟橋に腰掛けて大きな欠伸をしている。
「でも、まあチェルシーの言っていることは一理あるだろう。それなら、お前の姿でこれ以上、何か悪さをされる前に行くべきだな。体力は持つか?」
イディオットの言葉を聞くと、僕より先にチェルシーが彼の腕に再び自分の身体を密着させるように抱きついた。驚いて距離を取ろうとするイディオットに、チェルシーは負けじと引き戻す。
「まあまあ、待たれよダーリン。ここはアタシがアスカたちと船で向かうから、ダーリンは集落帰って。大好きなお仕事がい~っぱいあるでしょお?」
「何言ってんだ、ここまで来て引き返すわけがないだろ。ちゃんと準備は整えてある。アスカとアマネが大丈夫なら、もう向かう」
チェルシーの手を軽く振り払ってイディオットが船に向かって歩き出す。すると、チェルシーは彼の腰に抱きついて足でブレーキを掛ける。
「ダメダメダメ!絶対ダメ!行っちゃヤだ!やだやだやだやだ~!!」
「あーもう、なんなんだ!急げってお前が言ったんだろうが!」
「オットーは急がないで~!代わりにアタシが急ぐからあ!お願い~!!向こうに行かないでえ~!」
あまりに必死に止める彼女の様子に僕とアマネは顔を見合わせる。アマネは耳の輪舞を小指で掻きながら、面倒くさそうにため息を吐いた。
「よく分かんねえけど、そんな嫌ならチェシャ猫も一緒に来ればあ?アマネ早くベッドで寝たいから、早く行こうぜえ」
「むう…」
チェルシーは口を曲げて黙り込む。確かに彼女はイディオットとのバトンタッチを狙ってきたような口ぶりではあったが、何故イディオットと同行ではダメなのだろうか。
ふと、僕は思い出す。彼女の能力は未来予知だ。これだけ強く引き止めるということは、彼女が何か見たのではないだろうか。
「何か嫌な未来でも見えたの?」
恐る恐る横から尋ねる。すると、チェルシーは口を曲げたまま僕を見て、ふいとそっぽを向いた。
「…知らない!アタシの未来予知って別に当たるとも限らないし!」
そう言うと、チェルシーはイディオットの元を離れてズカズカと船に乗り込んだ。
「兎さんがどーしても行くならアタシだって行くし!湖の渡り方くらいアタシだって知ってるし!」
「お前なあ…遠足じゃないんだぞ」
「知ってるし!」
呆れたように肩をすくめるイディオットに、チェルシーはツンと目線を逸らした。
「ほら行くぞ野郎ども~!!力仕事は男の仕事!湖の方角はアタシがきーっちり案内してやるから、力いっぱい漕ぎたまえ!」
気を取り直したのか、彼女はそのまま船の先頭に立つと、船首に片足を乗せて湖を指さした。
「マジでなんなんアイツ」
「まあまあ」
心底嫌そうな声で悪態を吐くアマネを僕は苦笑いしながらなだめる。
チェルシーも何か事情があるのだろう。ふざけたような態度で人を振り回すタイプではあるが、彼女は決して悪い人ではないはずだ。
イディオットが彼女に続いて乗り込み、僕がそれに続くと、アマネも渋々と乗り込んだ。
相変わらず霧の立ち込めた湖を、小さな船で北へとまっすぐに向かう。アマネとイディオットがオールで船を漕ぎ、僕はイディオットの指示で、船の後ろで翼で追い風を起こして手伝った。今回の船には帆がついていたので、風は思っていたよりも効果的で船はグングンと前に進んだ。
「しかし、城へは正面きって入っても大丈夫なものか?俺と眠り鼠は犬猿の仲だぞ」
オールで船を漕ぎながら、イディオットが思い出したように言った。
「アマネがいないフロージィの軍なんてクソザコナメクジだぞ。アマネがいるのに、そんな心配いるかあ?」
イディオットの向かいの席でアマネが言う。漕ぐことに飽きてきてしまったのか、彼はオールで強く漕いでは漕ぐのをやめたりを繰り返す。
確かにアマネはこの世界でほぼ最強に等しい。一騎当千な彼さえいれば、シュラーフロージィの軍などすぐに蹴散らせるだろうし、相手も進んで戦いたくないのは間違いない。
「とりあえず、着いたらすぐに警戒網を張られるのだけは確かですね。アマネに牽制してもらいつつ、話し合って通してもらいましょう」
僕の言葉にイディオットは手を休めずに「そうするか」と頷いた。
しかし、考えてもみればシュラーフロージィの軍にアマネがいる限り、イディオットが自軍を余程強化しない限りはシュラーフロージィが攻め込めば確実に勝利出来たんじゃないだろうか。
「なんでフロージィさんはアマネを率いて、すぐにオットーさんの集落に攻め込まなかったんでしょうね?」
翼で起こす風に負けないように声を張り上げて僕は尋ねる。
僕の言葉を聞きながら、アマネはオールを船に引き上げて、ポケットからお菓子を取り出す。今日はパフチョコレートだ。
「最初はバカ兎の位置が分かんなかったんだってよ。でも、アマネがアスカ探してずっと森を歩き回ってたら、アスカが出入りしてんのが見えて、ついでにバカ兎もいたから分かったんだ」
「じゃあ、その後は何で潰しに来なかった?お前1人でも半壊は出来ただろ」
不愉快そうに眉をしかめてイディオットがアマネに聞き返す。アマネはイディオットの様子を知ってか知らずか、大きな欠伸をした。
「アマネはアスカとゲームするって決めたから、人質にお前らのこと襲わなかっただけ。フロージィもアマネの好きにしていいって言ってたしさあ」
僕としたゲームと言うのは、1番最初にアマネから持ち出された条件のことだろう。確かにあのゲームは僕を追い詰めるためにアマネが考え出したものであって、イディオットたちの集落を壊滅させては成り立たない。アマネは強いが、思い通りにならない戦力と言ったところだろうか。
「女王様は元から攻め込む気なんてなかったと思うけどね~」
不意に船首であぐらをかいて座っていたチェルシーが背中を向けたまま言葉を発した。イディオットは彼女の言葉に眉間のしわを更に深くして首を傾げた。
「何故だ?俺たちの仲間を殺したりしただろう」
「それはアンタたちが夢から覚めようって躍起になってるから、妨害しただけじゃない?夢が終わればみんな目覚めなきゃいけないってんなら、女王様はそれを良しとはしないよ。国民を守るべき女王様がただ指くわえて見てるわけにもいかないでしょ」
彼女はチラとイディオットに振り返ると、しっぽをくゆらせながらニヤリと笑った。
「アンタもリーダーやってんだから、分かるっしょ?守る人がたくさんいるんだもん」
「いや、しかし…」
痛いところを突かれたと言うようにイディオットが珍しく言葉を詰まらせる。それから降参したように首を横に振ってため息を吐いた。
「…しかし、ではないな。その通りかもしれない」
「おー、凄い。ちょっと前までアタシが女王様の肩持っただけで怒ったのに、どーゆー心境の変化よ?」
ニヤニヤと笑うチェルシーにイディオットは隣のアマネを一瞥する。すっかり漕ぐのを止めてパフチョコレートを頬張っていたアマネは彼と視線が合うや否や、不愉快そうに片目だけ細めた。
「なんだよ」
「別に?あれだけ暴れ回っていた村人がこうも隣で大人しくしていたら、毒気も抜けるってもんだろ」
イディオットはそう言って肩をすくめると、顎で僕の方をしゃくった。
「天敵と立ち向かって、きちんと話を付けてきた友人に引っ張ってもらったのさ。俺も自分の固定概念を壊さなきゃならんと思ってな。嫌いになるのは相手と飽きるほど会話をしてからでいい。そうだろ?」
チェルシーとアマネには分からないよう、彼は数日前に僕が言った言葉を引用してクツクツと喉で笑った。
「そうですね」
彼に釣られて僕も笑う。そうだ、それを言ったのは僕だ。嫌いになる前に、飽きるまで相手と話せばいい。話してみて、どうしても反りが合わないなら仕方がないが、話す前から嫌いになる必要などないのだ。
「…僕もちゃんとミズキと話さなきゃな」
疑心暗鬼になって、頭の中でネガティブな気持ちを膨らませるのは無駄だ。疑う前に信じてみる。
ミズキは自分の理想である帽子屋に僕の姿を投影した。それをそのまま信じるならば、彼女はまだ僕を好きでいてくれている。僕を必要としてくれているってことじゃないか。
「そーだそーだ!乙女心は秋の空とは言うけども、案外乙女はしつこいんだから、少年はしかとその愛を受け止めたまえ~!」
チェルシーが片腕を掲げて大きな声で笑った。
それからアマネは船で居眠りをしてしまい、イディオットと僕の力だけで船を動かした。居眠りするほどアマネが僕らに気を許しているのだと思うと、僕もイディオットもあまり咎める気にはなれなかった。
方角をきちんと見定めると言い張っただけあり、チェルシーの案内で僕らは無事にシュラーフロージィのいる城下町へとたどり着いた。
「アマネ、着いたよ。降りよう」
城下町の港の端に船を乗り付け、僕は眠っているアマネの肩をゆすった。アマネは重たい目を擦り、何度か瞬きをしながらようやく起き上がる。
「これは想像通り、骨が折れそうだ」
1番先に船を降りたイディオットが言う。彼の言葉に振り返ると、遠くからランタンのような灯りが近づいてくるのが見えた。それも1個や2個じゃない。かなりの数だ。
「まあ、城下町には常に見張りがいるから、アリスが行方不明なんて非常事態に怪しい船が来たら人呼ぶよね~」
まるで知ってたかのようにチェルシーは言いつつ、苦笑いする。
近づいてくる大勢の兵士たちは各々にランタンを掲げ、イディオットの顔を確認するや否や手元の武器を構えた。
「三月兎!貴様、何しに来た!」
彼らの言葉に渋々とイディオットは両手を上げて、敵意がないことを表現する。その様子にアマネがゆっくりと立ち上がり、彼の前へと歩いて出た。
「おい、勝手に攻撃すんなよ。コイツはフロージィのとこまで連れて行く」
「アマネさん!?なんで三月兎と一緒に…」
「三月兎だけじゃない。ジャバウォックも一緒だし、よく分かんねえけどチェシャ猫も一緒だ。いいから道を開けろ」
ざわめく兵士たちにアマネは息を漏らすように笑った。
「お前らが殺したいならかかって来てもいいけど、アマネもジャバウォックも強いぞお。一人残らず叩きのめしてやる。痛い目みたくないなら、素直に聞いた方がいいんじゃねえかあ?」
持っていたヴォーパルの剣を地面に下ろし、威嚇するように切っ先で地面を引っ掻く。その姿に恐怖を感じたのか、兵士たちが後退する。
「僕らは危害を加える気はありません。ただ話をしたいだけなんです」
僕も船を降り、アマネの隣に並ぶ。
僕はここを追放された身ではあるが、仮にもシュラーフロージィが了承の上でアマネの監視下に置かれている。監視しているはずのアマネが僕をここに連れてきているということが、兵士たちにも分かったのか、彼らは顔を見合わせながらも不満を言う者はいなかった。
「…三月兎はアマネさんが捕らえたんですか?」
「捕らわれたつもりはない。2人の言う通り、俺はあくまで眠り鼠と対話に来ただけだ。この街を潰す気なら、もっと戦力を付けた上で仲間全員を連れて奇襲する」
訝しむ兵士にイディオットは眉間のしわを深くし、不愉快そうに鼻を鳴らした。
「そもそも、たかが三月兎の俺が単体で乗り込んで何か仕掛けたところで、傍のアマネとジャバウォックに敵うと思うか?俺が変な動きをしたなら、その場で殺したらいい」
いつもと変わらず堂々としていて、高圧的にすら感じる彼の物言いは何も間違いではないが、自分が彼を敵視しているとしたら挑発のようにも聞こえる。訝しむようにざわめく兵士たちを見て、チェルシーは慌てたようにイディオットの後ろに回り込んで抱きついた。
「おい、何すん…」
「まあまあまあまあ!ちょっと言い方怖いけど、要約すると敵意はないよ~って話してるだけなの!ごめんね、このおじさん怖いにゃあ?でも悪い人じゃないんだ~!かわい~アタシに免じて許してあげて欲しいにゃあ?」
彼女の行動に異議を唱えようとするイディオットの口を流れるように手で塞ぎ、チェルシーはニッコリと笑った。
チェルシーと過ごしてみて分かったが、どうやら彼女が語尾を猫っぽくする時は最高に相手に媚びている時なのだろう。そんな彼女の様子に兵士たちの数人が何故か顔を赤らめて、もじもじと引き下がる。
もしかして、つまみ食いしてるんじゃないだろうか…身体で寄ってくる男性の数で自分の価値を確かめる人だ。なくらないだろう。今は結果として良かったのかもしれないが。
「アマネときちんと相談して、彼の理解を得て戻ってきました。三月兎の彼が言うように、僕らがおかしな行動をしていると判断された際にはアマネに処刑されることも覚悟の上です。どうか通して頂けませんか」
チェルシーに続いて僕も深々と頭を下げる。それでも兵士たちは困惑したように道を開けてくれない。
当たり前だ、上からの指示なく簡単に通していい案件ではないだろう。
「ソイツら嘘吐いてないよ」
「ソイツら本当のこと言ってる」
不意に兵士たちの後ろから子供のような声が二重奏で聞こえた。兵士たちをかき分けるように奥から出てきたのは、双子のドゥエルとメベーラだった。
「俺、馬鹿兎マジでイディオットだから嫌いだし、悔しいけど嘘ではないっぽい」
「私も嫌いだけど、嘘吐いてない人は疑えない。シュラーに会わせた方がいいと思う」
2人は不機嫌そうに腕を組んで口を曲げる。まだこの街を出て1週間程度だろうが、なんだかとても懐かしい気持ちにさせられる光景だ。
双子は幼いが、彼らの能力は嘘を見分ける力だ。それに関してはこの世界で誰よりも信用出来るだろう。兵士たちは再び顔を見合わせた。
「本当に信じていいのか?」
「話が通じる人は殺すなってフロージィが言ったんだぜ」
ドゥエルが兵士の言葉に反論すると、彼らはまだ疑いが拭いきれない眼差しのまま、じわじわと後退して道を開けた。その様子にアマネが息を漏らすように笑った。
「よお、クソガキ」
「アマネ~!三月兎なんかと仲良くなったなんて聞いてないわよ!」
怒ったように声を上げるメベーラの元へ彼は向かいながら、チラと僕らを一瞥する。
「は?バカ兎とは仲良くねーし」
悪態をつきながら、彼はメベーラの頭をがしがしと雑に撫でてから、ドゥエルを持ち上げて肩車をする。
「でも、アスカは嫌いじゃないから、連れて帰って来た」
「仲良しか~!俺とも仲良しだろ~!」
肩車をされたドゥエルが無邪気に笑う。そのまま振り返りもせずに歩き出してしまうアマネに、僕とイディオットとチェルシーも慌てて歩き出す。
兵士たちの視線を一身に浴びながら、メベーラはチェルシーと手を繋いだ。
「ねえ、チェルシーはまだ三月兎のこと好きなの?そんな男やめなって言ってるじゃん。わからず屋で頭かたいし、おじさんじゃん」
「メベちゃんは分かってないにゃあ。頭硬くてわからず屋で頑固なおじさんでも、それが魅力的だったりすんの!大人の恋愛ってやつ」
まるで女子校で聞くような恋の話が繰り広げられる。子供と大人の会話であるはずなのに、何となく話が成立しているのが少し微笑ましく、僕は思わず小さく笑う。そのすぐ後ろを歩くイディオットも神妙な顔で肩をすくめた。
「今に始まった話じゃないが、随分な言われようだ」
「ここでのオットーさんの悪評はなかなかのものですよ」
冗談まじりに僕が言うと、イディオットは目を閉じて片眉だけ上げて見せる。大体は彼の想像通りなのだろう。
「それだけの悪評を耳にしていて、アスカもチェルシーもよく俺を慕ってるとか言えたな。少しくらいは偏見もつくだろうに」
「周りが何て言おうと、僕はオットーさんと直接話して関わっているから、何か誤解があるんだろうとしか思いませんよ」
僕は集落で散々イディオットにお世話になってから湖を渡った。彼の悪評をこの街で幾度も耳にしたが、信じられるのはやっぱり自分が見てきた事実だ。
事実なんて人の数ほどあって、その事実はみんなの主観から成り立つ。どれが本当かなんて、今になってみれば迷うだけ無駄なのかもしれないと思う。僕が信じられる事実は、僕の中でたどり着いたものでしか、どうせ腑に落ちやしないのだ。
「アタシもオットーとフロージィどっちも知ってるから、どっちの悪評もどっこいどっこいだと思ってるよ~。みーんなクソ真面目。見てるこっちが疲れちゃう。どっちかに偏ったって良いことないんだから、曖昧にフラフラしとけばいーのにさあ」
夜通し船で方角を見ていた疲れが今になって出たのか、チェルシーは大きな欠伸を手で隠す。
そう言えば、チェルシーとは集落の傍でも城の中でも話したことがある。夢から目覚めたくないと言っていたチェルシーは、てっきり眠り鼠側の人間なのかと思っていたが、彼女が好意を抱いている相手はイディオットだし、今もこうしてすんなり城下町へと入れている。
「チェルシーさんって夢から目覚めたくないんですよね?でも、どっちにも味方しないんですね」
夢から覚める、覚めない。その2択しかないようなこの世界で中立を保つのは案外難しいことのように感じる。口をついた疑問に、チェルシーは不思議そうに首を傾げた。
「ん~まあ、目覚めたくもないけど、アタシは別に絶対にどーしても目覚めたくないとかではないし、目覚めちゃったら諦めつくもん。だったら、どっちの道を行こうが問題ないでしょ?そりゃ、誰かがアタシに何か絶対的な1番をくれるとかなら考えるけど、誰もくれないし?オットーも振り向いてくれないし?」
そう言いながら彼女は斜め後ろのイディオットをチラチラと見るが、イディオットは難しい顔をしたまま目を閉じる。見なかったことにしたいのかもしれない。
だが、そうやって聞いてみると、納得出来る部分は多かった。チェルシーにとっては、現実もここも大差ないのだろう。彼女が欲しているのは絶対的な誰かからの愛情であって、それが手に入っていないのはどちらも同じだ。だから、アリスが夢から目覚めようが目覚めまいが、それに合わせるだけなのだろう。
だからこその中立。だからこそ、境なく愛を求めて人々に関わる。それは短所でもあり、長所だ。彼女自身は満たされていないのだろうが、おかげで器用に立ち回れている。彼女でなければ、この状態にはなれていないのだから。
チェルシーと手を繋いでいたメベーラは僕に振り返ると、つり目がちな大きな瞳で僕をじっと見つめた。
「アスカ、どうやってアマネと仲良くなったの?あんなに仲悪かったのに、アマネが嫌いじゃないって人のこと言うの初めて見た」
初めて会った時のような、僕の口から出てくる言葉の真偽を確かめようとする眼差しだ。僕は首をひねって、肩を竦めた。
「…どうやったんだろうね。僕もよく分からないけど、僕はアマネとよく話をしてみたら、彼のことを好きになれると思ったんだ」
「ずっと命ねらわれてたのに?」
「そうだね。でも、彼も僕の言葉にきちんと耳を傾けてくれたし、僕は彼に共感することが出来た。彼も僕が共感することを許してくれた。前は僕もアマネのこと好きじゃなかったし、苦手だったけど、今は何て言うか…そうだね、嫌いじゃないんだろうね」
アマネに抱いている感情を表現しようとすると、やっぱり嫌いではない。好きかと言われたら、まだ悩むところが沢山あるが、アマネの言葉通り「嫌いじゃない」のだ。
放っておけない、憎めない、可愛らしいけど、面倒な時もある。怖い時だってある。だけど、嫌いじゃない。凄く不思議で言葉にするのが難しい情が僕とアマネの間にはあるのかもしれなかった。
メベーラはイマイチ腑に落ちていないような様子ではあったが、何度か頷いてから言葉を続けた。
「じゃあ、ミズキのことは好き?ちゃんと話す?」
彼女の言葉に僕は言葉を詰まらせる。
ミズキのことは好きなのだろう。替えなど効かない、大事な人だ。
なんとなく、その「好き」を言えないでいるのは、僕がミズキを疑ってかかってしまっているだけ。
「ミズキはアスカの命をねらわないよ。アマネと話せるのに、ミズキと話せないの?」
メベーラの追撃に僕はハッとする。そう言われてみれば、本当におかしな話だ。ミズキは僕の命など一度も狙ったことがない。むしろ、長い時間ずっと一緒に同じ道を歩いて旅をして来た人なのに、何故一回疑ってしまったからって話す勇気が出なくなってしまうのか。
本来、アマネと話すほうがよほど難題ではないか。
「…話すよ。話したい。話さなきゃいけないね」
ミズキと僕の間にある溝は、きっと長い間ずっと絆を築いてきたからこその溝なのだ。
よく話し合って、分かり合ってると思い込んで、実はすれ違っていたという事実が僕はきっと何よりも辛かった。こんなことを僕が言えた身ではないのかもしれないが、僕からすれば彼女と僕は互いに高め合っていける関係だと、対等だと思っていたからこそ、彼女の口から出てきた「アスカが怖い」「アスカは戦えば勝てると思っている」という言葉が傷ついたのだ。
対等だと思っていた人が、実は僕のことをずっと上に見ていたということがショックだった。そのショックの中身をよく分析すると、僕は確かに彼女のことを時折、自分より下のように扱っていたかもしれないという自己嫌悪も含む。
僕が何とかしてあげなきゃ。僕が支えてあげなくちゃ。それは保護者のようなそれだ。手塩にかけて大事に大事に守って育ててきたつもりが、彼女にとって害であったかもしれないということ。それが彼女の自尊心を傷つけてきてしまったかもしれないこと。
大事に思っていたからこそ、彼女が僕に畏怖することが裏切りのようにも感じられた。でも、それって詰まるところ、ただの僕の行き過ぎたお節介が招いた結果でもあるのだ。
相手への疑念や、裏切られたような身勝手な怒り、自己嫌悪がぐちゃぐちゃとない交ぜになって合わせる顔がないと思ってしまう。
僕とミズキに必要なのは、恐らくお互いが対等であるという同じ土俵。そして、時には彼女が自分で考えたことを尊重して見守るということ。それが出来た時、僕らはもっと前よりも良い関係を築けるのではないだろうか。
僕の様子を見ていたメベーラが少し満足そうな顔で口元に笑みを作った。彼女の目から見る真偽は、もしかしたら僕の言葉と表情から分かったのかもしれなかった。
6人でぞろぞろと薔薇の園を抜け、シュラーフロージィの城へと辿り着く。ついにやって来た真っ白な城内。赤い絨毯を踏み締め、イディオットが珍しく鼻から大きく息を吸って吐いた。緊張しているのかもしれなかった。
「居心地悪いですか?」
「そりゃあ、悪いさ。通りすがる兵士たちの反応を見ていれば、自分がどれだけ嫌われているのか身に染みる」
難しい顔のまま、イディオットが苦虫を嚙み潰したように笑った。
「…偏見を抜いて、自分の固定概念を壊す気で一応は対話に臨む気でいる。しかし、どうにも前に会った時の印象が抜けなくてな。上手く話せるか、情けないがあまり自信がない」
いつも堂々としているイディオットの態度は、いつもと変わらずどっしりと構えているようには見えるが、言葉からは不安が滲んでいる。こんな人でも弱気になる時はあるのだと思うと、僕は申し訳ないが少し親近感を抱いてしまう。
「悪評なんて大した影響はないって、さっき僕とチェルシーさんも言ったじゃないですか。だから、オットーさんも集落側の眠り鼠の悪評について一度考えるのをやめて、眠り鼠と改めて話したら変わることも多いと思いますよ」
「言ってくれるじゃないか」
「人に言うのは簡単なんですよね」
僕の言葉にイディオットは笑って僕の肩を小突くが、僕はそれに苦笑いする。自分にもブーメランだからだ。
赤い絨毯が続く長い廊下を抜け、一番奥の謁見室へと辿り着く。先頭のアマネがゴンゴンと乱暴に扉をノックすると、肩車をされていたドゥエルが声を上げた。
「フロージィ!あけてー!アマネが三月兎とジャバウォック連れて帰ってきたよー!」
その言葉に謁見室の扉がゆっくりと開かれる。両サイドに並んだ衛兵たちが扉を開けたまま敬礼する。その先の玉座にはいつかに見た時と同じように、小さな影がちょこんと鎮座していた。
「おや…伝令から聞いてはいたけれど、本当にここまで三月兎が来たとはね」
赤い小さめのシルクハットを頭に飾った眠り鼠、シュラーフロージィはいつもと変わらぬ穏やかな笑みを口元にたたえたまま玉座の肘掛に頬杖をついて僕らを見る。
「衛兵、ドゥエル、メベーラ。ジャバウォックを捕らえて」
続いて出た彼女の言葉に扉の傍にいた衛兵が僕に掴みかかる。何事かと驚いている間に僕は後ろ手を組まされ、膝裏を蹴飛ばされて乱暴にその場にひざまづかされた。
アマネが降ろしたドゥエルが僕の元へ駆け寄り、メベーラと一緒に僕のすぐ脇に線対称に立つ。ドゥエルのベルトにぶら下げられていた銃剣の銃口が僕の頭に突きつけられ、メベーラの鎖鎌の鎖は僕の喉元に巻くように引っ掛けられた。
「おい、なんの真似だ」
驚いたようにイディオットが僕に振り返り、すぐにシュラーフロージィへと視線を戻す。鋭い視線で睨む彼に、アマネがヴォーパルの剣の切っ先をイディオットに向けた。
「用心しているだけさ。今までずっと僕の命を狙っていた敵対者が単身で目の前まで乗り込んできた。それを何も警戒せずに受け入れたりなんて出来ないさ」
相変わらず穏やかな表情と口調だが、さすがにこれはやり方が乱暴なのではないか。立ち上がろうと僕が抵抗を示すと、首に巻かれた鎖がギリギリと僕の首を締め上げる。
「私、アスカのこと好きだから抵抗して欲しくない」
締まる器官に荒く呼吸する僕にメベーラがヒソヒソと耳打ちをする。彼女の顔を見ると、悲しそうに眉をひそめて下唇を噛んでいた。
「ジャバウォックは村人以外からのほとんどの攻撃は受け付けない。だが、呼吸に関しては万人に必要なものだ。あの人数で一斉に攻撃をすれば多少のダメージもあるし、首を締めあげれば人並みに苦しさもある。アマネが君を殺すまでの時間くらいは稼げるだろう」
シュラーフロージィの言葉にイディオットは拳を握りしめ、黙って彼女を睨む。アマネは口の中でキャンディを転がしながら、ただ前を向いていた。
「ねえ、女王様。ここまでしなくても大丈夫だよ。ちょーっと話すだけなんだからさ…」
「ちょっと話すだけなら、今の状態でも出来なくはない。そうじゃないかい?」
イディオットの後ろでチェルシーがおずおずと仲裁に入ろうとするが、シュラーフロージィは笑みを絶やさずにそれを拒絶する。その口調は優しくも、完全なる拒絶だった。
ピリピリとした空気の中、アマネがガリガリとキャンディを噛み砕く音がする。彼はキャンディの棒を口に加えて、それを遊ぶように上下に揺らした。
「フロージィ、アマネは三月兎を殺さない」
予想もしなかった言葉に、謁見室にいた全員がアマネを見た。玉座に座るシュラーフロージィも少しばかり目を見開くと、また口元に弧を描いて足を組んだ。
「驚いたな。アマネは三月兎のことを嫌いなんだと思っていたよ」
「いや、嫌いだし。でも、アスカと約束したんだ。もう人を殺さないって約束した。アスカはちゃんとアマネとの約束を守ったから、今度はアマネが守る番だろ」
「アマネ…」
彼の言葉に思わず声が漏れる。
どう表現したらいいか分からないような高揚感があった。歩み寄ろうとして築き上げてきたものが実ったような、達成感にも似た感動とでも言うのだろうか。
彼はそれに反応するように口元の片方だけを吊り上げて、小さく笑った。
「アマネはフロージィがいたから、食う飯があった。助かった。だけど、もう処刑人は出来ない。三月兎がフロージィに何かするなら叩きのめすくらいはするけど、殺しはしない。それでもいいか?」
フロージィはアマネの話を聞きながら、考えるように自分の唇を指先で叩く。ややしばらく間を空けて、彼女は納得したように首を縦に振った。
「…そうだね、アマネは元々アスカが嘘吐きかを確かめに城を出たんだったね。約束を守ろうとするほど、君があのジャバウォックとその仲間を信じるのなら、それだけの理由を見て感じて来たってことだ」
パンパンとフロージィが手を叩く。すると衛兵たちが僕の身体から手を離して離れる。それと同時に、安心したようにドゥエルとメベーラが武器を下げ、鎖を僕から取り払った。
「ごめんな」
「ごめんね」
申し訳なさそうにする双子に僕は首を横に振る。
「大丈夫、気にしてないよ。心配してくれてありがとう」
片手でドゥエル、片手でメベーラの頭を撫でると、彼らは嬉しそうに笑った。こんな幼いのに、敵意を持たない人間に武器を向けるのはさぞ大変だっただろう。
アマネもイディオットに向けていた剣を下げ、その切っ先を床につけた。フロージィも大概驚いてはいたが、渦中の人だったイディオットもかなり驚いていたようで、アマネのことを目を丸くして見ていた。
「…助かった。ありがとう」
悩んでから、イディオットが咳払いと共に言葉を絞り出す。その様子を視線だけで眺めながら、アマネは何を言うでもなく斜めに頷いた。
「さて、手荒な真似をして申し訳なかった。何の用でここに来たのか話を聞こう」
シュラーフロージィは椅子に座り直すと、イディオットに向けて問いかける。
「アマネがこれだけ庇うんだから、僕の命を狙ってきたわけではないんだろう?」
「最初からそう言ってる」
「君の日頃の行いがそうさせてるのさ」
不機嫌そうに返答するイディオットに、シュラーフロージィも穏やかに言い返す。武装は解いてもらっても、さすがは犬猿の仲といったところか。一瞬は和んだ空気が一気に凍りつく。
イディオットの斜め後ろにいるチェルシーがイディオットの背中をどついた。
「ちょっと!喧嘩しないんでしょ~!」
「分かってる!悪かった!」
ふーと大きく息を吐き、イディオットは大きく首を横に振る。自分の気持ちを落ち着けようとしているのか、彼は目を閉じて深呼吸してから、シュラーフロージィを見つめた。
「…今までの出来事に関して、まともに聞く耳を持たなかったことは詫びる。今日、こうして皆にここまで連れてきて貰ったのは、帽子屋を仕留めるためだ。都合の良い話かもしれんが、一時休戦とはいかないだろうか」
「一時休戦、ね」
イディオットの言葉をシュラーフロージィが復唱する。トントンと自分の唇を指で叩きながら、彼女は小首を傾げた。
「確かに僕らの街も帽子屋の出現で荒らされて困っている。利害は一致だ。だけど、やはり君の中には和平を講ずる選択肢はないのかい?」
和平を講ずる…つまり、シュラーフロージィはこれを機に争うことやめたいのだろうか。困惑しているのは僕だけでなく、イディオットも同じだったように訝しげに目を細めた。
シュラーフロージィはそのまま言葉を続けた
「まずは君が詫びたように、僕からも手段を選ばずに君たちの行動を阻害したことを謝罪しよう。すまなかった。だけど、そもそも僕は君たちと争いたいわけではなかったんだ。僕が目指しているのはこの不思議の国の平穏だ。君たちが夢から目覚めるにあたって、この国を壊さないでいてくれればそれでいい。前にも各自が夢から目覚める方法を探す選択肢を提案をしただろう?それを今からでも考えてくれないか?」
「前に提案…?された覚えはないぞ」
彼女の言葉にイディオットが険しい顔をして顎髭を撫でた。それにシュラーフロージィも首を傾げる。
「覚えてないのかい?君が初めてこの城に来た日に、僕から直にその提案をした。その時に君が全員で夢から覚めるべきだと僕に武器を突きつけただろう」
「いや、俺がここに来るのは今日が初めてだ。お前と俺が初めて出会ったのは森の茶会があった場所のはずだろう」
イディオットの返答に謁見室の皆が顔を見合せた。2人の話がまるで食い違っている。それも、聞き違いとかのレベルではなく、イディオットの言い分が正しければ初対面の場所さえも違うのだ。
「誰も嘘を吐いてない…」
僕のそばに居たドゥエルが言う。メベーラはそれに首を振った。
「でも変よ。だって、私たち見たもの。三月兎が聞き分けなくて、フロージィのお腹に短剣を刺したの。だから、私たちはアイツがヤな奴だって…」
「それ、本当?」
僕は思わず声を上げる。
「本当にオットーさんがフロージィさんのお腹に短剣を指したんですか?その時は何があったんですか?」
「三月兎の彼が僕に危害を加えたから、ドゥエルとメベーラが応戦して追い返したんだ。ドゥエルの銃撃に彼は逃げ帰ったが、到底話し合いが出来る相手はではないと思ったんだ」
いつもにこやかなフロージィもさすがに違和感を感じたのか、彼女も表情を険しくして俯く。話を聞いていたイディオットは全く身に覚えがないと言うように肩を竦めた。
「確かに双子の男の方…ドゥエルか?彼の銃撃は受けたが、場所は森の茶会広場だ。自分は夢から目覚めたいから、良い方法はないかと眠り鼠に尋ねたが、彼女は誰も帰す気はないと言ったんだ。それはあんまりだと俺が食い下がっただけで傍の双子が攻撃を仕掛けてきた。突然の発砲だったから、硬化が間に合わなくて肩に怪我を負った。応戦して俺は確かに彼女を刺したが…殺すことに躊躇して、肩を刺したはずだ」
そう言うと、イディオットは自分が羽織っていたケープを取る。シャツの前を開けて右肩を見せると、そこには確かに銃弾を受けたような古傷があった。
「えっ、俺だってまだ銃の扱い慣れてなくて、外した弾はお前の足に当たったはずだよ!足引きずって帰ってくの見たもん!」
「そうよ!ドゥエルの弾はそんなにしっかり当たってなかった!脛を掠っただけだったわ!」
ドゥエルの話にメベーラが同意する。
聞けば聞くほどおかしな話だ。イディオットとシュラーフロージィの当時の行動を両方正しいと考えれば、初対面できちんと話が出来ていた可能性は十二分にあったはずだ。なのに、2人ともいきなり相手から苛烈な攻撃を受けている。和解が難しいとなっても仕方がないほどの怪我まで負わされているのは、どう考えても辻褄が合わない。
シュラーフロージィは考えるように空を仰いでいたが、不意に彼女もシャツをめくって見せる。真っ白な彼女の腹部には確かに刺傷らしい傷跡が残っていた。
「君の言い分では肩らしいが、この通り僕の傷跡はここだ。肩を刺された覚えはない」
彼女はそう言って首を横に振ると、捲ったシャツを降ろす。その様子を見ながら、僕の頭の中に一つの可能性が頭を過ぎった。
「…帽子屋ってその時、本当にこの世界にいなかったんですか?」
思ったことをそのまま口に出すと、皆が僕に振り返った。
配役持ちが補充された時、その配役と繋がりが深い配役は補充を察することが出来ると聞いたが、誰と誰が深い繋がりがあるかは明確には分かっていない。
白兎であるジャッジは帽子屋の補充を察していたが、イディオットの様子を見る限り、三月兎と帽子屋にはその繋がりはなかったように思える。それならば、三月兎と同じ括りになりそうな眠り鼠も察するのは難しいのではないか?
「フロージィさんは今回、帽子屋が補充された時にそれを感じたりはしませんでしたか?」
「いや、感じなかったよ」
彼女はそう言うと、燕尾服の内ポケットから1枚の紙を取り出した。
「実は今回の帽子屋は、ここに来た時からずっとアスカの姿をしていた。アマネを連れていない君はあくまで追放の身だ。通せるわけがないから、僕らはすぐに追い返したが飛び去ってしまってね。何故ここに来たのか分からないままだったんだけど、僕の部屋に戻ったらこんな手紙が置いてあった」
「誰からの手紙だ」
イディオットの質問にフロージィは紙を開いて見せた。
「アリスからの置き手紙だ」
「ミズキの?!」
思わず僕は立ち上がって彼女の元へと駆け寄る。それを予想していたのか、フロージィはすぐに手紙を僕に差し出した。
彼女から手紙を受け取り、僕はそれに目を通す。そこには簡潔な文章が書かれていた。
白兎と一緒に私は一時的に城を離れます。急にいなくなってごめんなさい。帽子屋と私は今は会うべきではないと言われて悩みましたが、フロージィさんの話もあったので彼を信じてみることにしました。必ず戻ります。もしアスカが帰ってきたら、彼にも心配しないようお伝え頂ければ嬉しいです。
「…アリスは白兎と一緒にいなくなったのか?」
僕の背後から手紙を覗き込んでいたイディオットが言う。それにシュラーフロージィは静かに頷いた。
「そうみたいだね。白兎については1度も会ったことがないから、僕は彼がどういう存在なのかは分からないけど、アリスの手紙で帽子屋が補充されたことを初めて知った。アスカがこうしてアマネを連れてきてくれたから、少し前に飛び去った彼は別人…帽子屋の能力は知っているから、あのアスカは帽子屋だったんだろうと推測したんだよ」
「そうだったんですね」
彼女の話に僕は独り合点する。白兎は周囲の時間を止めてしまう。ジャッジは確かに帽子屋とアリスが出会わないように城へ向かうと言っていたし、もし彼がミズキを連れて逃げたのであれば、誰もミズキを見つけられない理由も分かる。時が止まっているのだから、誰も2人の気配を察知できないのだ。
「では、フロージィさんとオットーさんの初対面は帽子屋が変幻していた偽物との初対面であった可能性は?」
続けて僕が質問を投げかけると、2人は僕を見て首を傾げた。
「…眠り鼠の前に現れた俺が別人だった可能性については存分に有りうるだろうな。だが、俺は眠り鼠と双子が傍にいた。それについてはどう説明する?」
「オットーさんがお茶会の場でフロージィさんと出会った時、オットーさんは1人でしたか?」
イディオットの疑問に僕は一つの可能性にかけて問いかける。
ジャッジは言っていた。帽子屋は鏡のような性質で、覗き込んだ人に合わせて変幻するのだと。
イディオットは眉間のしわを深くすると、鼻からため息を吐いて俯いた。
「…仲間を2人、連れていた。彼らは双子の攻撃で大怪我を負って、逃げおおせた後に死んでしまった」
「それは…僕が言うのも変かもしれないが、気の毒に」
シュラーフロージィが目を伏せる。確かに偽物に殺された…それも自分たちの姿でとなれば言葉にも悩むだろう。
しかし、イディオットの周囲に2人いたのならば、僕の推察は当たるかもしれない。
「帽子屋は鏡のように覗き込んだ人に合わせて姿を変えると言います。鏡を見た人が3人いたとしたら、鏡の中の人は3人写りますよね?そしたら、帽子屋は1人でも3人分の変幻が出来ると言う可能性はありませんか?」
「なんだそれ、アスカとアマネが戦った時は1人だったじゃねえか」
僕の話にアマネが不愉快そうに異議を唱える。
「カードゲームでも、切り札は最後まで見せない方が勝率が上がるだろう?もし、帽子屋が僕たち不思議の国の住民たちが争うように仕向けたのであれば、いきなりネタばらししてしまっては、フロージィさんとオットーさんが戦争を止めてしまう可能性が出る。それを避けるなら、1人にしか変幻できないと思い込ませた方がいいと思わない?」
僕が言うと、アマネはよく分からないのか眉間にしわを寄せて黙る。代わりに後ろで話を黙って聞いていたチェルシーがうんうんと頷いていた。
「だって、オットーとフロージィの話を聞く限り、誰かが意図的に2人が戦争するように仕向けたのは間違いなくない?誰も嘘吐いてないんでしょ~?ねえ、双子ちゃん?」
「ついてない!」
「みんな正直!」
彼女の言葉にドゥエルとメベーラが口々に彼女を肯定する。それにチェルシーはニヤリと笑う。
「すぐに複数人になれることを知られちゃってたら、オットーの前に現れた3人が偽物ってすぐバレるっしょ。最悪、フロージィの前に来たオットーが偽物ってバレても、オットーが今まで通りに聞く耳を持たずに自分が受けた仕打ちに説明がつかないと怒っていたら、間違いなく和平なんて無理。そしたら、戦争は続行になるんじゃない?だとしたら、アスカとアマネの前で易々と切り札はだせないよねえ?」
「ふーん」
彼女の説明を聞きアマネは首を傾げたが、一応は納得したのか頷いた。
イディオットは固い意思とリーダーシップで人々を導く力に長けた人だが、だからこそ頑固で本人が1度決めた決断を覆すのが難しい人だ。今でこそ彼はこうして聞く耳を持っていてくれて、シュラーフロージィとの対話が実現したが、最初の誤解から4年間ずっと対立していたくらいだ。誰かが間に立たない限りは誤解は誤解と認識されないまま、彼が戦争に乗り出していた可能性は低くはない。
話を聞いていたイディオットは自分の眉間をおさえながら深いため息を吐いた。
「痛いところを突くな…しかし、否定はしきれない。俺が疑り深いのは認める。アスカやアマネと関わらずに、その話だけを聞いていては恐らく信用に値しないと考えただろう」
「それについては君ばかり責められた話ではないさ。僕もきっと疑っていただろうからね」
シュラーフロージィは柔和な笑みを浮かべたまま肩を竦めると、僕を見た。
「アスカにも非礼を詫びよう。本音を言えば、ずっと僕は君が三月兎の傘下であると色眼鏡で見てきてしまった。アマネに殺害を依頼したこと、この街から追放してしまったこと、申し訳なく思うよ」
「いえ、全然。仕方ないと思います。僕は滞在期間中にほとんど対話に臨めない臆病者でしたから…アマネがいたから、みんなと話せる機会が生まれたんだと思います」
シュラーフロージィからの視線を受け、それを僕は続けてアマネにパスする。アマネはポケットから出して食べていたマドレーヌを口に運んでいたが、彼は突然自分に話題の矛先が向いたことに驚いたようで、黙って僕を見つめ返す。
「…え?アマネは別に…」
「ありがとう」
時間差で口を開いた彼に微笑んで礼を言うと、アマネは目を逸らして頬を掻く。ほんのり赤く染まる頬から照れているのが伺えたが、彼は目を逸らしたままこちらを見なかった。
「では、改めて聞きたいんだが、和平を講ずる選択肢は視野に?」
シュラーフロージィは改めてイディオットに尋ねる。イディオットは迷いなくそれに頷いた。
「ああ、もちろんだ。視野に入れたい。皆が協力できるならそれが一番だ」
そう言うと、イディオットが僕らの1歩前へと出る。シュラーフロージィのまえで彼は目線が合うように膝まづくと、彼は口元だけで笑って手を差し出した。
「今、俺たちの敵は帽子屋だ。無闇に人々を争わせて、秩序を乱すなんてさせない。協力してくれないか、眠り鼠」
シュラーフロージィはイディオットの様子にフッと小さく笑うと、玉座から立ち上がり、その手を握った。
「その言葉を待っていたよ。交渉成立だ。僕らの可愛いアリスをかどわかす悪い男は、僕らでお仕置きといこうじゃないか」
2人のその様子に謁見室にいた皆が安堵したように笑い、嘆息する。4年も続いた誤解はなくなり、ようやく2つの勢力がひとつになった瞬間だった。
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