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5章

3 眠り鼠の庭

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3.
「メベーラとチェルシー、君たちにはオットーの集落に今回の和睦についての連絡を入れて欲しい」
会議室に集まった7人を前に、シュラーフロージィが口を開く。長机に向かい合うように全員が顔を突き合わせて座っていた。イディオットとシュラーフロージィが和解してから次の日の夜のことだ。
昨日は丸1日森を歩いて抜け、そのまま湖を渡った僕らは正直ヘトヘトだった。帽子屋が動いていることを考えれば急がなくてはならないのは分かっていたが、話し合いの緊張感が抜けると同時に激しい睡魔に襲われてしまった。
シュラーフロージィの計らいで僕とアマネとイディオットの3人は明け方に眠り、つい先程起きてきたばかりだった。
まだ眠たそうに机に突っ伏すアマネについては誰も触れないが、僕はまだ少し残る眠気に目を擦りながら会議に参加していた。イディオットは普段からいつ眠っているのか分からない人だったが、彼は今日もパリッと整えられた髪と衣服で、眠気も感じさせない普段通りの険しい顔をしていた。僕とアマネとでは貫禄が違う。
「えー、メベちゃんだけで良くない?フロージィとオットーが作成した和睦の証明書はあるんでしょ~?アタシ行く意味なくない?」
会議は開始したばかりなのに、いきなりチェルシーが異議を唱える。それにシュラーフロージィは変わらず穏やかな様子で机に両肘をつき、絡めた両手の甲に自らの顎を乗せた。
「メベーラはまだ幼いし、つい昨日まで僕の傘下として湖の向こうで悪評を広めていたはずだ。そんな子供1人で証明書を見せても信じて貰えるかも怪しいし、そもそも見せられるチャンスが来るかも分からない」
シュラーフロージィが言うことは最もだ。集落の人々は確かにイディオットが見定めて選んだ人ではあるだろうが、考え方は千差万別だ。たとえ信じて貰えたとして、全員が和睦を良しとするかはまた別の話になる。メベーラ1人で行くには危険が多いだろう。
「もちろん、護衛の兵士もつけるよ。だけど、悪評はメベーラ1人とならず僕の軍そのものにある。大人数でいきなり姿を見せて警戒させる前に、チェルシーに警戒を解いて貰いたいんだ。」
「メベーラがいれば相手の意図も詳しく読み取れるし、お前なら未来が見えるかもしれないだろ。俺も良い人選だと思うが」
シュラーフロージィの説明にイディオットが頷いて肯定の意を示すが、チェルシーはますます不機嫌そうに口を曲げてしまう。
「それならアタシじゃなくてオットーが行けばいいじゃん!アタシの未来予知なんか好きなタイミングで見れないし!」
「行きたいのは山々だが、俺は2人が伝令をしている間に帽子屋を探して叩きに行く予定になっている。事態は一刻を争うとお前も言ってたじゃないか」
イディオットは困ったように肩を竦める。
そもそもイディオットは対帽子屋戦を考えて、はるばる集落からここまで出て来たのだ。彼が集落に帰っては本末転倒だろう。
むむむとチェルシーは顔を赤くして黙り込むと、不意に立ち上がって机に身を乗り出した。
「未来なんか見えないもん!アタシが湖の向こうに行っても役に立たないし!アタシが帽子屋倒すから、オットーは帰って!」
溜め込んだ言葉を一気に吐き出すように捲し立てる彼女に双子がジッと視線を向ける。
「チェルシー嘘つき」
「ホントのこと言え」
呆れたような彼らの言葉にチェルシーは後退する。彼女の足に当たって椅子が倒れ、ガタンと大きな音が会議室に響き渡った。
「うううう嘘なんか!オットーよりアタシのが帽子屋と戦うのに向いてるってだけで…!」
「嘘はダメってシュラーが言ってた」
「嘘はダメってフロージィが言ってた」
「まあまあ…」
どんどんドツボにはまっていくチェルシーを問い詰める双子は、無邪気ゆえに尋問のように追撃していく。僕はそれに苦笑いしながら仲裁に入った。
「せっかくこれだけの人数がいるんです。そんなにオットーさんを集落に帰したい理由、教えてくれませんか?何か悪い予知を見たなら、回避する方法をみんなで考えましょうよ」
話を詳しく聞かずとも、これだけ彼女がイディオットを集落に帰すことに固執する様子を見ていれば嫌でも少しは察せる。恐らく、イディオットがこの場に残って良いことが起きないといった具合だろう。
それなら、先に詳細を聞いてしまった方が間違いなく皆のためになるはずだ。彼女が知り得る情報がどれだけ辛いものだとしても、回避できる可能性はゼロとは限らない。
「…これだから勘のいいガキは嫌いだよ」
チェルシーは口をへの字に曲げたまま、よく聞くネットスラングで悪態を吐く。彼女は渋々と椅子に再び腰を降ろすと、俯いてため息を吐いた。
「…あんまり詳しく見えないから、詳細は分からないの。アタシに見えるのは、オットーが死んでいる光景だけ」
「オットーが?」
シュラーフロージィが首を傾げる。それに対してチェルシーは目を伏せたまま頷いた。
「死因は分からない。傍にはアスカがいて、アスカがオットーの身体を揺すって起こそうとしてる。だけど、オットーの怪我は酷くて、息をしない…瞬きもしない。場所はここの城下町なんだろうなって、建物の雰囲気でなんとなく…」
何となく、何となくそんな未来も有り得るだろうとは思っていた。話を聞きながらチラとイディオットを見ると、彼は特に動揺した様子もなくその話を聞いていた。もしかすると、彼も最初から多少はそれを予想していて、その上でここに来たのかもしれない。
「俺が死ぬ以外の犠牲者はあったか?」
イディオットが問いかけると、チェルシーは上目遣いで彼の様子を一瞥し、首を振る。
「アタシが見た光景ではオットーだけ、かな」
「帽子屋は止められたのか?」
続くイディオットからの質問にチェルシーは今にも泣きそうに顔を歪めるが、今ここで嘘を吐いたって見抜いてしまう子供たちがいる。
嘘は悪いなんて双子たちは言うが、世の中には優しい嘘などいくらでも存在する。チェルシーが嘘を吐いて、真実を隠しとおそうとするのは、少なからずイディオットを救いたい気持ちがあるからだろう。それが許されないこの場は残酷だ。
チェルシーはややしばらく口を閉ざしていたが、首を横に振って、言葉を絞り出すように発した。
「…多分、帽子屋は倒せたんだと思う。アスカがアンタを起こす時に言っていたから…」
イディオットと引き換えに帽子屋が倒せる。それは帽子屋とイディオットを天秤に掛けなくてはならないことを意味する。
イディオットが死んで、帽子屋が倒せないなら回避一択だ。だけど、倒せてしまう。帽子屋がいることで、もしこの場にいる他のメンバーや不思議の国の住民たちが大勢犠牲になる可能性があるなら、大勢を救うかどうかという問題になってしまうだろう。
そんな選択肢を与えられた時、イディオットがどうするかなんて予想がつく。きっとチェルシーもそうだ。だから言いたくなかったんだ。分からないとか、倒せないとか、そう言えたら話は別だったのに。
「それで俺を支えてくれた大勢が現実に帰れるなら、やはり俺は行くべきだろう。」
イディオットの口から出た言葉は何の迷いもなかった。彼は意志の強い人。1度、彼の中で出た決断は覆し難い。
覆せるなんてできないと思われ続けたから、彼はずっとこの城へ来れなかったのだから。
「現段階ではたしかに能力的にアスカとイディオットの2人で帽子屋に挑んでもらう予定だった。それを変えたら、少しは未来に変化が起きたりしないのかい?」
静かに話を聞いていたシュラーフロージィが小首を傾げた。彼女なりにイディオットの身の安全を考えての提案なのだろうが、それは正直難しかった。
「予測が正しければ、帽子屋は目の前にいる人数分だけ変幻します。アマネがいては、アマネの父親が出てきてしまうでしょうし、彼を抑え込める戦力を持つ者はほぼいません。なので、アマネは難しい。チェルシーも戦いに向いた能力ではないし、双子もあなたも同じです」
僕は彼女の青い目を見ながら言葉を続ける。
「僕を相手にする時、帽子屋はきっと僕の母に成りすますでしょうが、母は戦力にはならないはず。万が一、帽子屋がアマネに化けたりしても、僕なら戦えます。オットーさんはトラウマがないとのことなので、やはり一番安全な組み合わせは僕とオットーさんかと…」
「いや、帽子屋と戦うことだけを考えれば、君は1人見落としているよ」
シュラーフロージィはクスクスと笑うと、僕に穏やかに微笑んだ。
「僕は前に帽子屋を殺したことがあるんだよ?それを忘れられては困るな」
彼女の言葉に僕は驚いて目を開く。イディオットもチェルシーも顔を見合わせる中、双子たちは自慢げに頷いていた。
言われてみれば、彼女は最初のお茶会でアリスを除いた唯一の生き残りだ。あまりに華奢で可憐な容姿から、そんな修羅場を潜ってきた人であることを忘れてしまっていた。彼女の話では帽子屋を弱らせたのは先代の三月兎らしいが、つまりは2人がかりでなら勝てる見込みを彼女は持っているということになる。
シュラーフロージィは頬杖をついたまま、優雅に片手を返した。
「僕のトラウマは物理的なものでね。こんな性格なものだから、人間に対しての精神的な苦痛をあまり感じたことがないんだ。帽子屋が僕を絆すのも脅すのも非常に難しいし、アスカが手助けをしてくれるなら、ちょっと倒し方に心当たりがあるんだ」
「なるほど…確かに一度勝った相手に挑むということなら、俺が出るより勝率は上がりそうだな」
意固地になりかけていたイディオットが背もたれに寄りかかって、思い直したように眉間のしわを浅くして自分の顎髭を撫でる。しかし、その表情には苦笑が浮かんでいた。
「結局、出てきただけで俺は何も役に立ってないな。面目ない」
「いや、和平に同意してくれただけで、この不思議の国からすれば大きな進歩だろう。はるばるご足労掛けたが、出てきてくれて非常に助かったよ」
確かにイディオットがいなければ、2人の対立が解けることはなかっただろう。シュラーフロージィの言う通り、彼はこの場に来て正式に和平に同意してくれたのは大きい。
願うは誰も犠牲のない勝利と、アリスの奪還だ。それは今、この場の全員が思っているに違いない。
「せっかく分かり合えた人間をみすみす死なせるのはあんまりだ。オットーはチェルシーの言う通り、一度集落に帰って事情を説明してもらう方針に変更するのはどうだろう?そうすれば、君の死を回避する大きな足がかりになるんじゃないかな?」
シュラーフロージィの提案にチェルシーは小さくガッツポーズを決めてから、イディオットに向き直ってこれみよがしにウィンクをして見せた。
「だってよ、ダーリン?やっぱりアタシと一緒に帰って、集落のみんなに戦争はないよって安心させてあげようじゃないかにゃあ?」
「ああ、まあ…そうだな。俺の口から説明するのが1番早いのはお前に同意だしな」
苦笑を浮かべたまま、イディオットは素直に同意する。それに対してシュラーフロージィは続けて双子に視線を投げた。
「と、言うことで僕はアスカと一緒に城を開けて帽子屋を探しに行くよ。その間の城の留守と街の守備をアマネと君たちに任せたい」
「イエッサー!」
「イエスマダム!」
元気に双子たちは立ち上がると、机に突っ伏したまま眠り続けるアマネの肩を揺さぶる。アマネはまだ眠いのか起きる様子は見られない。
その傍らで、シュラーフロージィは僕に柔らかく微笑んだ。
「さて、ということでメンバーチェンジだ。僕と2人行動となるが、アスカは問題ないかな?」
当初は全く予想していなかった人との行動だが、僕がそれを拒否する理由もない。全てはしっかりと道筋が立てられていて、理にかなっている。
シュラーフロージィは初めて会った時から論理的な女性だとは思っていたが、彼女はまたイディオットとは違うリーダーシップを感じる。穏やかでいて冷静な、ロジカルにも思える言動だが非の打ち所がない。
今もこうしてあっという間に場を制し、メンバーをまとめてしまう手腕には、本音を言えば圧倒されてしまっていた。大勢が彼女を慕う理由がここにあるのだろう。
「もちろんです。僕の力が役に立つなら!」
「心強い。こんなに立派なジャバウォックが味方になってくれる日が来るとはね」
彼女はクスクスと鼻を鳴らすように笑い、席を立つ。合わせてアマネ以外の者が僕を含めて全員が立ち上がり、各々の行動を開始した。
イディオットとチェルシーは一足先にまた湖の向こうへと旅立ち、アマネと双子を残して僕とシュラーフロージィが城の門を出る。大勢の兵士たちが門前に集うと、心配そうに彼女を見送る。
「どうかご武運を」
「大丈夫さ、すぐに戻る。アマネはまだ寝るだろうけど、彼にはよくよく城を守るように君たちからも伝えておくれ」
シュラーフロージィの言葉に衛兵たちが深々と頭を下げた。それらに彼女は小さく手を振ると、僕の隣へと並んで歩き出す。
僕も衛兵たちに会釈だけ返し、小さな彼女から歩幅が離れすぎないように歩みを進めた。
「…さて、こうして君と2人になるのはいささか久しぶりだね。一度追放されたにも関わらず、力を貸すことを快諾してくれて感謝しているよ」
薔薇の園を歩きながらシュラーフロージィは視線を進行方向に向けたままふと口を開いた。それに僕は慌てて両手を振った。
「いえ、こちらこそ!僕らの話にも耳を傾けて頂いてありがとうございました」
「手荒に迎えてしまったけどね。君は心が広いな」
小さく笑う彼女に僕は首を傾げる。
心が広いと言うのは違う気がする。ずっと命を狙い合っていた宿敵が、追放者を引き連れて戻ってきたなら警戒して当然だ。もちろん、強引すぎると感じた場面もなくなはいが、概ね仕方のない対応であったのではなかろうか。
「膝裏を蹴られたのと、鎖の首絞めはちょっと痛かったですけど、あえて乱暴する相手にジャバウォックを選んでくれたフロージィさんの方が心が広いのでは?」
あえて死なない僕を拘束して脅したのは、冷静に考えれば彼女の国にはリスクしかない。もし、三月兎と僕が本当に彼女の命を狙っていたなら、三月兎を拘束した方がいざと言う時に確実に殺せるだろう。だが、彼女はあえて僕を選んだ。それは、多少手荒にしても僕が死なないとわかっていて、出来れば犠牲を出さずに解決させようという彼女の情けのようなものを感じていた。
笑う僕を振り返り、シュラーフロージィは珍しく驚いたように目を丸くしたが、クスクスと口をおさえて笑った。
「乱暴されておいて、そんな感想が出るなんてね。君は特殊な考え方をする。非常に興味深いね」
杖を地面につきながら、シュラーフロージィはそう言って僕を見た。
「君は理性的で合理的な考え方をする人だ。悪く言えば少数派だが、僕は君のような人の方が気楽だ。君と手を組めて良かったよ」
「はは、フロージィさんに言われると照れますね」
「まあ、ミズキを前にした君はちょっと子供のようだけどね。城にいた君とは全く話す時間がなかった」
「うっ」
ちょっと得意げになっていた僕はシュラーフロージィの追撃に顔を引き攣らせる。
ミズキとこの城に滞在した時、僕がシュラーフロージィときちんと対話したのは1週間のうち、初日と最後から2日の3日間だけだ。つまり、僕らがこうして関わった時間は限りなく短い。僕が拗ねて部屋に引きこもってしまったのが原因なのは火を見るより明らかだろう。
僕は項垂れながら震える声で謝罪する。
「本当にあの時は失礼を…」
「いや、人間らしくていいんじゃないか?別に僕は悪いとは思ってないよ。それだけ君がミズキを好きと言う証拠さ」
城下町に出てシュラーフロージィと共に外へと向かう。まだ明るい城下町は活気に溢れ、冷戦など最初からなかったかのように平和そのものだ。
鳩が空を舞い、子供たちの笑い声がする。店の呼び込みの声と香る薔薇の香り。広場にある薔薇の生垣に囲まれた噴水はとても優雅で、まるで作り物のようだ。
いや、作り物なのか。ここは作られた楽園。この街に望んで住む人々にとっての理想郷だ。
「ミズキは君と街を回りたがっていたよ。アスカがいなくて寂しいと常々嘆いていた」
街の様子を眺めながら、シュラーフロージィが呟いた。
「彼女は君がいないと1人でロクに店にも入れないんだ。怖いのだと言う。かと言って、僕が頻繁に付き添うわけにもいかないし、双子たちでは逆にミズキが子守りになってしまって落ち着かないらしい。チェルシーとはたまに出かけていたようだが、君が1番良かったのだろうね」
「それは…単に保護者として僕が1番都合が良かったとか、そういうことはないんでしょうかね…」
嬉しいような、嬉しくないようなミズキの話に僕は笑いながら頬をかく。
ミズキも大概、人に良いように使われてきた印象を受けるが、僕もかなり人の都合良く動いてしまう節はあった。僕の場合、僕が自らそう動いてしまうのだから、別に誰かを責められた話ではなくて、僕自身に責任があるのだと思う。
小さな頃からずっと人の顔色ばかり伺って生きてきた。顔色を伺って、相手が求める正解を何とか探り当てて奉仕する。それが僕の処世術ではあったが、イディオットが言ったように、僕はもう大人になったのだから、いちいち誰かの顔色を伺うなんてするべきではないのかもしれない。
「ミズキがあれだけ甘えているのだから、保護者になっている部分はあるんだろうね。詳しくは本人に聞かねば、真意など分からないけどね」
トントンと自分の唇を指先で叩きながら、シュラーフロージィは空を仰ぐ。
「アスカは彼女の保護者となるのは不服かい?彼女は君に守られるのを好んでいるように思えるが」
「まあ…保護者オンリーというのはちょっと」
僕は彼女の良き友人でありたいのであって、保護者になりたいわけではない。とは言え、過保護になりがちな自分のお節介もよく知っている。またお節介を焼いて、彼女に怖がられるのも悲しい。正直、再会して仲直りした時に同じことを繰り返してしまうのではないかという心配だけは残り続けていた。
僕が苦笑いしていると、シュラーフロージィは意外そうに小首を傾げた。
「てっきり君はミズキの保護者でありたいのかと思っていたよ。オットーをリスペクトしているのも、彼の部下や弱者を守り抜こうとする上司気質が好きだからなのだとばかり」
「そう見えますか?」
「君は人の喜びに依存するように見えるからね」
人の喜びに依存するという彼女の言葉に僕は首を傾げる。
人が喜んでくれることをするというのは、極々当たり前のことではないだろうか。
「ミズキが喜んでくれるなら、僕だって嬉しいですし…彼女が幸せになってくれたらとは思ってますよ?」
「それは良い考えだと思うし、僕は好感を持つと先に言っておこう。だけどね、その上で言わせて貰うと、一般的に優しすぎる人間はみんな狂っていると言われる類いなのだと思うよ」
彼女の言葉は酷く穏やかで優しい。それでも、何を言われているのか僕はすぐに飲み込むことが出来なかった。
それに、優しいという言葉を僕はずっと違和感を感じてきていた。僕は誰かに優しくしているつもりなどない。遡りを避けたいだけ。返す恩がなくてもやって当たり前だから、相手に喜んでもらいたいから、自分がしたくてやっていることなのだ。
逆に言えば、何故周りがそうではないのかが僕はずっと分からなかった。
「いいかい、アスカ。他人を喜ばせる人生を生きることなんて、到底無理なんだよ。他人の喜びも幸せも、それは君のものではない。それは君の人生ではないんだ。アスカの選択で君の人生は成り立つ。君が思う他人の喜びと、その他人が感じる喜びに齟齬が出た時、必ずそこには摩擦が起きる。君がミズキの保護者になりたくないのであれば、すでにそこには摩擦が起きている証拠なのさ」
チラとシュラーフロージィは青い瞳で僕を見つめて微笑む。ミズキとは違う藍色に近いその目は凪いだ海のようだ。
「生態系には必ずピラミッドが存在する。ピラミッドとは、下の者ほど大勢がいるだろう?僕は別に自分のことを偉大だなんて思ってはいないが、僕のこの理屈っぽい考え方は少数派であり、少数派であると言うことはピラミッドの上に位置すると思っているんだ。君もそうだ。人の喜びを優先し、群れの存続を優先する。それは上手く行けば生態系の進化を促すが、上手くいかなければ弾かれる気狂いというわけさ」
「群れの存続を優先したつもりはないんですけど…そもそも、僕は誰も率いてないですし」
「率いていたじゃないか。ミズキを、アマネを。仕舞いにはオットーやチェルシー、僕まで味方につけた君は間違いなく群れを率いる側の人間だ。オットーの集落を追放され、僕の領土から追い出され、アマネと対峙してまでミズキを導こうとする君を気狂いと呼ばずして何と呼ぶ?僕も君も似た者同士の、気が違った人間でしかない」
城下町の外れまで行くと、街の喧騒が随分と遠のいた。彼女は裏路地の方へと招くように僕を連れて歩く。
帽子屋を探すのは、ついこの間に雨が降った形跡がある城下町の外れであると前もって聞かされていたが、裏路地はあの華やかな街並みと比べてかなり閑散としていた。
「気狂い、ですか。でも、ちょっと腑に落ちてしまいますね」
シュラーフロージィの話は不思議と嫌な気持ちにはならなかった。言葉の通り、腑に落ちる自分がいたのだ。
僕は周囲から聞く話に共感出来るには出来る。相手がどんな気持ちになったかを想像することも出来る。だけど、僕が思う常識がそれほど周囲からは共感が得られないということも、薄々だが感じてはいたのだ。
シュラーフロージィの話は理屈っぽくて難しいが、聞いていて素直に面白いと思った。それはイディオットとはまた違った意味合いでだ。
イディオットの話は熱くて厳しい、自制心と向上心が溢れていて好きだ。僕も彼のように成長を止めずに伸び続けていきたいという勇気がわく。だが、彼女のようなロジカルな話ではない。
シュラーフロージィは僕の反応を面白がっているようにクスクスと笑った。
「だから、君はオットーともウマが合うんだろうね。あんな自制心の鬼なんか、普通は対等であれば上手くやれない。大多数は楽で甘い道を選ぶ。辛い道ばかり好んで進む彼は配役名に違わぬイカれ兎さ。アマネだって普通ではない。君の周りはみんな、僕を含めて気狂いばかり。だからって、ミズキも同じ気狂いなのだと思って接するのはやめるべきかもしれないが」
「僕とミズキは上手くやれないと?」
「そうではないよ。彼女が同類かは分からないってだけさ。そうだな…彼女が選ぶ選択肢を君が見て、どう感じるかではないかな」
人通りの少ない路地裏のタイルの隙間からは雑草が生え、建物の塗装の剥げが目立つ。日当たりも悪く、薄暗いその道を見回し、手入れが行き届いていないなと彼女は独り言を呟きながら肩を竦めた。
「君も彼女がいたから今があるんだろう?甘えることは必ずしも悪ではない。この考えが僕とオットーとの一番反りが合わない部分だ。彼は常に険しい道を行くが、僕は甘えて良い部分は甘えるべきだと考えている。時に訪れる困難に立ち向かえるだけの力を蓄え、成長出来ているのであれば、多少手を抜いたって誰も困りはしない。甘やかされることで伸びる人間だっているし、逃げ場も必要だ。だから、僕はできる限り見守るんだ」
言われてみて、僕はシュラーフロージィの行動を思い返してみる。彼女はミズキに決して強い言葉を言わなかったし、アマネが僕について行くと言っても咎めなかった。彼女が反論する時は、彼女の周囲に大きな影響が出るような事態だけ。可能な限り見守り、本人の意志を尊重していたように思う。
甘えることは必ずしも悪ではない。その通りだと思った。僕はミズキに甘やかしてもらったから、立ち上がることが出来た。立ち上がれたから、僕は歩き出せたのだ。
「かと言って、甘やかしすぎは毒だけどもね。帽子屋とは仲良く出来そうにもないよ」
塗装が剥がれた塀を指先でなぞりながら、シュラーフロージィは苦笑する。そう言えば、帽子屋はアリスを極限まで甘やかして世界を腐らせたと聞く。帽子屋と話していて、彼の倫理観がぶっ壊れているのは何となく察しがつくが、彼女をここまで言わしめる帽子屋はどれだけ彼女を甘やかしていたのか1周まわって気になってしまう。
「そんなに帽子屋は毒になるような甘やかし方をするんですか?」
「ああ、反吐が出るよ」
尋ねてみると、シュラーフロージィはニッコリと笑うが、言葉には今までに聞いたことがないほどに殺意がこもっている。彼女の目が座ったその笑顔は背筋が凍った。
「この楽園は確かにアスカが言う通りの作り物だ。だけど、僕は作り物だからこそ手入れを怠らない。僕が大事に手入れする庭園を腐らせる害虫など、一匹たりとも息をすることを許さない」
そこまで言われ、ふと僕はメベーラとドゥエルの言葉を思い出していた。シュラーフロージィはこの街の隅々まで手入れをしていて、どこも手を抜かないのだと。つい今も彼女は少し剥がれただけの外壁に嘆息していた。それは、彼女がこの街にそれだけの強い思い入れがあるからなのだろう。
「この街はフロージィさんの大事な庭なんですね」
「この領土だけじゃないさ。僕はこの不思議の国を愛している。オットーの領土も、忌々しい帽子屋が好むお茶会広場も、霧が深い湖も、その近くの村も、森も、帽子屋を除いた全てを愛しているよ。これでも、敵対していた時だってオットーにはあの鉱山地方を美しく保ってくれていたことには感謝していたんだよ。彼は優秀な庭師さ」
そう答えるシュラーフロージィはしてやったり顔で微笑む。その笑みは珍しく無邪気で、童女のようにも見えた。
庭師と揶揄されるあたり、イディオットは彼女の手のひらで泳がされていたのだろうか。しかし、泳がせるには強敵なような気もする。
「でも、オットーさんがいたら反対勢力が育って、邪魔になりません?」
再び歩き出すシュラーフロージィの後を追いながら尋ねると、彼女は進行方向を見たまま答える。
「ああ、非常に厄介だし、邪魔だったよ。だけど、彼は僕と真逆だからこそ、僕には救えない人々を救える。君じゃないけど、僕も人が幸せであるに越したことはないと思っている方でね。彼は現実に帰りたいと願う人々の希望であり、救いだ。だから、和解できた今は尚のこと彼に死なれたら困るのさ」
チェルシーが言ったように、守るべき者のためにシュラーフロージィは手段を選ばないだろう。それでも、アマネという戦力がいながら、すぐにイディオットを探し出して襲わなかったのは、やはり攻め込む気がなかったといったところか。
シュラーフロージィの思想は壮大な博愛主義のように聞こえた。この世界を丸ごと愛しているから、敵対している者も、それを慕う者たちすら幸せであれと思っているのだ。戦争に踏み切らなかったのも、これだけこの城下町が豊かで平和なのも、彼女があえて国民に危機感を持たせなかったからだろう。
路地裏を中心に僕と彼女は人々に雨について聞き込みをした。その人々は皆、シュラーフロージィの姿を見ては顔を綻ばせ、嬉々として情報をくれた。その様子はイディオットの集落で見た、彼を慕う者たちとよく似ていた。
シュラーフロージィが救えない人々をイディオットが救っていると言うのは、その光景を見ていて非常に納得がいった。彼女は夢から目覚めたくないのだから、夢から目覚めたい人々を救えない。だけど、同じ思想のイディオットならその人々を護り、導くことが出来る。行動も思想も違えど、確かに彼らはそれぞれの派閥の人間を慈しみ、大事に想っていた。
雨が降った形跡を追いかけ、街を巡っているうちに日はすっかり傾き、夕闇色に街が染まる。僕とシュラーフロージィは街外れの枯れ井戸に背を預け、地面に座って休憩をとることにした。
「この枯れ井戸も何かに生かせないかと考えているんだが、思いつかなくてね。ミズキに相談したかったんだが、相談するタイミングを逃してしまった」
膝を抱えるように座ったシュラーフロージィは大きな溜息を吐く。彼女は本当に街の手入れに余念がないようだ。
「早くミズキを見つけないとですね」
「ああ、全くだ。しかし、普段あまり歩かないものだから足が痛くなってしまったよ。せっかく歩ける足があると言うのに、我ながら勿体ない」
苦笑いする彼女につられて僕も笑うが、ふと流しそうになった言葉回しに首を傾げる。
「歩ける足がある…?」
てっきり外回りを部下に任せているという意味合いかと思ったが、復唱するとますます違和感を覚える。それでは、まるで普段は歩ける足がないようじゃないか。
彼女は僕の顔を見て一緒に首を傾げたが、思い出したように手を叩いた。
「ああ、アスカには言っていなかったね。現実の僕は事故で両足と片腕を失っているんだ」
まるで何でもない世間話のように言うが、僕は思わず言葉を失う。
絶対に不思議の国から現実に帰りたくない彼女の理由はあまりにも残酷で、非情だった。アマネのように今から対処を練ることも出来ない。取り戻しようのないそれだ。
彼女は僕の表情から気を使ってくれたのか、はたまた僕のようなリアクションを五万と見てきたのか、小さく笑って首を横に振った。
「いや、僕はきっと良い方だったんだと思うよ。事故を起こした相手は真摯に謝罪してくれて、慰謝料もきちんと払ってくれた。見舞いにも来てくれて、こちらが申し訳なくなるほどに尽くしてくれて、最良の義手も義足も頂いた。不幸中の幸い。それなのに…僕にはそれを使いこなすほどの努力が出来なかった」
膝を抱えたまま、彼女は自分の頭を膝に乗せて微笑む。凪いだ海のように青い瞳は、どこまでも穏やかで、深い水底のようでもあった。
「言っただろう?人は大概楽な方へと、甘い方へと流れるのだと。僕はこの世界に来た時に、風や温もりを感じることが出来て、痛みを伴わない今の身体を手離したくないと思ってしまった。汗水垂らして義手義足を使いこなしても、決して戻ることの無い五感がここにはある。テレビで見るような凄惨な事故から立ち直るドラマチックな人間に、僕はなれなかったんだ」
僕は彼女の言葉に目を伏せる。
僕はずっと彼女の前で無神経なことを言ってきてしまった。僕には身体的な障害などない。それこそ、ずっと抱えてきた僕の不自由さは、努力次第で取り戻せるものだ。予防することも、対策をとることも叶う。
強いて言うならば得たことがないものを得るのは難しい。僕にはきっと暖かい家族はなかっただろう。家族を新たに得るのはとても難しいだろうが、得たことがないのだから、これ以上失うことはない。
だけど、手足は違う。大半の人間が最初から持っているもので、失わずに生涯を過ごす。それを失うショックは計り知れない。
「…多くの人が立ち直れないから、立ち直った人はドラマチックなんですよ」
僕が言うと、シュラーフロージィは膝を抱えたまま顔を上げる。僕は彼女に口元だけで微笑んだ。
「立ち直ってドラマチックに生きる人のドキュメンタリーでは、その人生を奇跡だって言うじゃないですか。奇跡なんですよ、立ち直るのは。想像絶する困難だと思うんです。その困難に直面して、誰も恨まずにいられたフロージィさんは十分凄いと僕は思います。持っていたものを手放すって凄く悲しいですから」
シュラーフロージィは黙って目を丸くして僕を見ていたが、再び自分の頭を膝に乗せて微笑む。
「さては、君はまた人を喜ばせようとしているのかい?」
「そんなつもりはないですよ。本音を言えば、フロージィさんにも現実でまた人生を謳歌して欲しいと思ってますし、頭の隅では現実での解決方法を探してます。でも、何も浮かばないのに、一緒に帰ろうなんて無責任なことはささすがに言えないです」
「君はリアリストだな」
冗談交じりに答えると、シュラーフロージィは小さく声を上げて笑った。
でも、彼女がどうしてここまで不思議の国を愛していて、手入れを入念に行うのかは理解出来た気がした。彼女にとってはこの世界は失ってはならない唯一無二の居場所だから、彼女は自分の居場所を守ろうという確固たる意志を持っているのだろう。だからこそ、その場所の手入れを怠ったりなどしない。害虫など許さない。
イディオットとは違う方向性であるのは確かだが、彼女も間違いなく努力家だ。いつ消えるとも分からない楽園を自分の力でコントロールして維持することを試みるなど、それこそ並々ならぬ力を要する。不安もあるはずだ。
僕なら出来ない。誰かの采配で消えるかも分からない楽園に腰を落ち着けることも、そこを自分の居場所とすることも。
それこそ「怖い」のだろう。大事な人がその場に残り、後で居場所を失って悲しむことも怖い。だから、ミズキを連れて帰りたい。現実でアマネに会いたい。イディオットにも、チェルシーにも、出来ることなら…本当ならシュラーフロージィや双子にだって。
でも、居場所をいつか失うかもしれないリスクを承知で立ち向かっている彼女にそんなことを言うのは野暮というものだろう。
「さて、良い時間だ。そろそろ行くとしよう」
月が顔を出す夕闇を見て、シュラーフロージィが立ち上がり、ズボンについた土埃を叩いて落とす。
「良い時間って、大分暗くなってきちゃいましたけどね」
続いて立ち上がる僕を見上げ、彼女は不敵に笑う。
「だからいいのさ。闇討ちには持ってこいの時間だし、街の住民たちは家に帰る頃合だ。誰も巻き込まず、誰にも血なまぐさい光景を見せずに、帽子屋を綺麗に葬れる時間帯だからね」
穏やかで優しい声色だが、相変わらず殺意マシマシだ。眠り鼠の配役持ちとは言え、さすがハートの女王を兼任していると言われているだけある。僕は苦笑いする。
「そう言えば、元々いたハートの女王はどうしていなくなったんでしょうね」
歩きながら何気なく疑問を口にすると、シュラーフロージィは杖をくるりと回して自分の手のひらに乗せた。
「ああ、ハートの女王か。誰でも気に入らないとすぐ処刑してしまう恐ろしい男だったから、僕と双子が暗殺したよ」
「男だったんだ…」
さすがとしか言いようがない。この世界を安泰で平穏でいさせるためには手段を選ばないという噂は伊達じゃない。もう彼女がハートの女王でいいのではないだろうか。というか、相応しすぎるからハートの女王が補充されないのではないかという気すらする。
それから、ハートの女王が統治していた時代のこの街の荒れ具合だとか、イディオットが来る前までの鉱山近辺の荒廃具合だとかを聞きいた。街を建て直したのは彼女の成果だが、イディオットのおかげで鉱山地帯もかなり文明が発達し、あれだけ人が住める環境になったのだとシュラーフロージィは満足そうに語っていた。
一方でしらみ潰しに街を歩けど、当たり前だがジャッジも帽子屋からミズキを隠すために移動している。雨が通った形跡を追えど、その頃には街のタイルは乾いていたし、湖の向こう側に匹敵する広大な面積を誇る城下町を歩いて移動するのは骨が折れた。かと言って御者を頼って馬車で帽子屋に遭遇して、帽子屋の変幻人数が増えても困るし、僕が上空を飛べば目立ち過ぎて逃げられる可能性もある。捜索は困難を極めていた。
「あっ、フロージィさん!このタイル…!」
月が空の真上に上がる頃、僕は濡れて色が濃くなっているタイルを見つけて声を上げる。細い路地、そのタイルから先は地面が生乾きなのが色で分かった。
「白兎が通ったばかりかもしれません、このタイルを追えば…」
ミズキに会えるかもと言いかけた僕の口をシュラーフロージィが手で塞ぐ。何事かと目を丸くしていると、彼女は沈黙を促すように自分の唇に人差し指を立てる。
そのまま彼女に押し込まれるように路地の壁際へと追いやられ、僕は背中を壁に付けた。シュラーフロージィは視線だけで路地の曲がり角を見て、僕を見る。彼女の視線を追って角を覗き込むと、そこにはどこかで見たような背中があった。
大きなドラゴンともコウモリとも見える翼と、長くて黒いトカゲのような尻尾。頭から生えた闘牛のような角。その背中の主は、目深にフードを被った誰かの手を握って優しく話しかける。
「僕がいけなかったんだ。ミズキの話にちゃんと耳を傾けないで、なんでもかんでも自分の意見を押し付けて…本当にごめん」
その横顔が月明かりで照らし出される。困ったように微笑むその顔は…僕だった。
「私こそごめんね、アスカにたくさん酷いこと言ったよね」
僕と同じ姿で、僕と同じ声で喋る誰かに手を握られている少女が被っていたフードを取る。月明かりに反射する金色の長い髪と水色の瞳をした彼女は見間違うはずもない。ずっと探していたミズキだ。
なら、彼女の前にいるもう1人の僕は帽子屋だ。話には聞いて覚悟していたが、こうも目の前で動いていると気味が悪い。僕の姿で、僕が思ってもない言葉で喋っている。
「謝らないで、全部僕が悪かったんだ。ミズキの言う通り、現実に帰ることだけが全てじゃないよ。ミズキがこの世界を豊かにして、ずっと続けてくれるなら何も怖いことないよね。ミズキが辛い記憶を取り戻す必要もない。恐ろしいことをミズキに強要してしまった」
帽子屋の言葉に怒りにも似た不快感が湧き上がる。他人の姿で好き勝手に話すなんてとんでもない。こんな様子じゃ、シュラーフロージィの前に現れた僕もきっとロクでもなかったに違いない。
僕は思わず身を乗り出そうとするが、シュラーフロージィが僕の腕を引っ張る。
なんで止めるんだ。あんな嘘つき、早く止めないと。眉間にしわを寄せて首を振る僕に、シュラーフロージィも首を振る。
「帽子屋の変幻は人数分なんだろう?もし、僕らを見つけた上での自作自演だったらどうする。罠かもしれない」
小さな声で彼女が一息に言う。
「それに白兎はどこに行ったんだい?ミズキは彼と一緒にいるはずだろう?」
そう言われ、僕はハッとする。そうだ、ジャッジはどこへ言ったんだ。彼がいるなら、シュラーフロージィは動けないはずだ。なのに、この場の誰もが動けている。雨も降っていない。
「もう少し様子を見るべきだ」
彼女の意見に僕はしばらく口を噤んでいたが、渋々と首を縦に振る。僕を見て、シュラーフロージィは苦笑いしながら小さく手招いた。
「少し耳を貸して欲しい」
言われるがままに僕は屈んで彼女に耳を寄せると、彼女はこそこそと耳元で僕に話の続きを囁いた。
その内容に思わず片目を細めて訝しむが、彼女は悪戯に笑った。
「そんな顔をするな。どうってことのない話だろう?」
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