シュガーポットに食べかけの子守唄

Life up+α

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5章

4 どちらが本物だ

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4.
「一緒にこの世界で暮らそう。フロージィさんにもちゃんと謝るから、この街に住もうよ。ミズキとずっと一緒にいたいんだ」
僕の顔をした帽子屋がミズキの手を握って笑う。ミズキはその手を照れたように見つめ、握り、目線を泳がせる。
「あ、ありがとう…私もアスカと一緒にいたい」
「良かった!怒ってるんじゃないかと思ってた!」
「私こそ…もうアスカは戻って来てくれないんじゃないかと思ってた」
彼の笑顔につられてミズキも笑う。その様子を見ていると、どうにもならない苛立ちが込み上げる。
反吐が出るってこういうことなのか。ネット上のアカウントを乗っ取られた感覚に近いのかもしれない。もう1人の自分が闊歩しているなど気持ちの良くないものだと知った上で、チェルシーやシュラーフロージィから聞いていた時はどこか他人事であったことを嫌という程思い知る。現場を目の前にして僕は初めて腹の底から湧き上がるような激しい怒りを感じていた。
ミズキにそんな脳みそを介してすらいないような適当な言葉をかけて、この世界への永住を唆すなんて、とんでもないことをしてくれるものだ。一刻も早く止めたいが、あのミズキが本人とも分からない。僕はギリギリと歯を食いしばりながらその様子を影から見つめていた。
「じゃあ、一緒に暮らす準備をしないとね!だけど、実は森に傘を置いてきてしまって…取りに戻らないといけないから、一緒に来て貰えないかな」
帽子屋が優しくミズキの手を引く。彼女はその手を掴んだまま…その場から動かなかった。
「あっ、あのね、アスカ…先に私も話したいことがあって」
もじもじと彼女は口ごもりながら、帽子屋の顔を見上げる。帽子屋は不思議そうに笑顔のまま首を傾げた。
「どうしたの?歩きながら聞くよ」
「ありがとう。でも、ここで聞いて欲しくて…その…二度手間になっちゃうし、ジャッジさんも来るはずだから…」
ジャッジも来る。彼女の言葉に僕は目の前のシュラーフロージィを見つめる。シュラーフロージィは相変わらず様子を伺うように静かに帽子屋とミズキの様子を眺めていた。
あそこにいるミズキが本物であるならば、何らかの理由があってジャッジは別行動しているのだろう。それならば、今までずっと見つからなかったミズキがこうも1日ですんなり見つかったことも、雨が降っていないことも説明がついた。
「私もね、あれから凄く考えて…私はこの世界に来てから、ずっと都合の悪いことをフロージィさんに忘れさせてもらって、自分のしてきた過ちすら覚えてないでしょう?それじゃ前に進めないってアスカが言ってたの、その通りだなと思って」
ミズキの口から出てくる声には不安が滲んでいて、微かに震えているのが分かった。なのに、出てきた言葉は真逆だ。
彼女は僕が言ったことを本当に考えていてくれていたんじゃないだろうか。辛くても、自分の足で歩くことを考えてくれていたんじゃないだろうか。
僕は唾を静かに飲み込んだ。怯えるように揺らぐ彼女の瞳の中には、今まで僕が見たことのない意思が宿っているように僕には見えた。
バクバクと自分の胸から鼓動が聞こえる。まるで小さな爆発を起こしているような大きな音。こめかみが痛いくらい血が身体を巡って、体温が上がる。
帽子屋に対する言い表しようのない怒りと同時に、ミズキの言葉に張り詰めるような緊張感が走った。
それは恐怖でもあり、大きな期待だった。彼女の次の言葉を待ちながら、僕は間違いなく胸を踊らせていた。こんなタイミングでその感情を持つのは正しくないのかもしれないが、コントロールが出来なかった。
「アスカと一緒にいたい。でも、この街で一緒に暮らすか、現実で再会するかはまた改めて考えたいなって。だから私、フロージィさんに今まで眠らせてもらっていた記憶、全部返してもらいたいと思ってる。せっかく私の気持ちを尊重してくれたのにごめんね…」
「どうして?」
ミズキの言葉に間髪入れずに帽子屋は笑顔のまま首を傾げた。
「そんなに辛い思いなんかしなくたっていいんだよ。辛いなら忘れておこう。思い出さない方がいいこともあるよ。知らぬが仏って言葉もあるじゃないか」
「思い出さなかったら、私はずっとこのまんまだよ。自分が間違えたこと、また絶対繰り返す。アスカが忘れたままじゃダメって言ってた理由が、今はなんとなく分かるから、そこまで優しくしなくて大丈夫だよ」
帽子屋の手を握るミズキの手が震えていた。彼女の中に巣食う恐怖を僕は知らない。きっと詳しく彼女の過去を知ろうと、完全に理解など出来ないだろう。だけど、彼女は今その恐怖の向こうへと足を踏み出そうとしていた。
傍らで話を聞いていたシュラーフロージィがミズキの姿を見て小さく口元をほころばせる。
彼女がシュラーフロージィに眠らせてもらってきた全ての記憶を思い出すのは、きっと想像より辛いに違いない。溜め込んだ自己嫌悪を自分の中で吸収しなくてはならないのだから。
すぐに飛び出していきたい気持ちと、彼女がこのままどう話を続けるのかを聞きたい気持ちがあった。
僕がいない間にミズキはどうしてその考えに至ったのか。優しく甘い言葉だけを吐く僕の前でしか聞けない言葉があるんじゃないのかと、不覚にも気になってしまったのだ。
ミズキは困ったように笑って、言葉の続きを紡ぐ。
「私もアスカみたいになれるなら、本当はそうなりたい。私ずっとあなたの姿に憧れていたの」
彼女の言葉に僕は思わず口元だけで笑う。
嬉しかった。そこにあるのは、紛れもない彼女の本音だ。ずっとずっとミズキから離れてからも疑って、勘ぐって、訝しんできた僕が聞きたかった答えの全てがそこにあった。
ああ、僕は馬鹿だなあ。本人からやっぱり聞かなきゃいけなかったのに。ミズキはもう僕を信じてないんじゃないかって疑った僕こそ、ミズキを信じられていなかったのだ。
「…分かんないな?」
僕の姿のまま、帽子屋が不思議そうに首を傾げた。
「僕になる必要はないよ。そのままでいいじゃないか。僕はミズキのこと、全部愛してあげられる。どんなことをしたって、どんな間違いをしたって、僕はあなたを肯定するよ」
「えっ…?だって、アスカは私が困るところ見たくないって…」
ミズキが帽子屋の手から自分の手を離す。それを帽子屋が掴んで引き留める。
「僕が守ってあげるよ。ミズキが困るような状態に僕がさせない。それじゃダメなのかな?」
帽子屋が首を傾げる。心底理解できないと言いたげな、子供のような声色だった。
「僕は絶対にミズキの傍を離れたりしないよ。君が僕にどれだけ愛情を求めたっていい。べったりと依存していい。僕はあなたを愛してあげられるよ。自分の足で歩けなくたって、僕はずっとミズキが好きだよ」
帽子屋の言葉にミズキが訝しげに首を傾げる。その瞳に再び強い恐怖が宿る。
帽子屋が向けるミズキへの無条件の愛情。それは、こうして聞いていると、もはや狂気に近い。彼女もそれをどこかで感じ取ったのかもしれない。
「アスカ…どうしたの?」
ミズキが手を引っ込めようと帽子屋から手を離す。しかし、帽子屋はその手を掴んで無理やり引き寄せた。
「どうもしないよ。僕はミズキに幸せでいて欲しいだけ。辛い思いなんか絶対させたりしない。なのに、どうしてそんなに恐ろしい道を歩むの?」
帽子屋が話している横で、シュラーフロージィが僕の背中を叩いた。彼女を見ると、彼女は声に出さずに口の形だけで僕に合図を送る。
行け、と。
「ミズキ!」
路地の角を飛び出し、僕はミズキの手を掴む帽子屋の腕を掴み上げる。僕と同じ顔をした帽子屋とミズキが驚きに目を丸くした。
「記憶、取り戻しに行こう!僕はあなたのことをもっと知りたい!」
透き通った空のようなミズキの瞳の中に2人の僕が写り込む。彼女は一歩だけ後ずさり、見開かれた目で僕と帽子屋の顔を交互に見た。
「えっ…アスカが2人…?」
「ミズキ、違うんだ!帽子屋が能力で僕に化けてるんだ!コイツは僕の偽物、騙されないで!」
戸惑うミズキの前で、帽子屋が僕の手を叩き落として叫ぶ。
なんてことだ、先手を打たれた。帽子屋は人間の範疇を超えた考えを持っていることを考慮してはいたが、こんなに何の戸惑いもなく嘘が吐けるほど倫理観が壊れているとは思っていなかった。
怒りに頭が熱くなり、僕は思わず怒鳴り声を上げる。
「ふざけるな!お前が偽物だろ!ミズキに変なこと吹き込むな!」
「ミズキの真の幸せを願っているのは僕だ!急に出てきて久しぶりの再会を邪魔するなんてやめてくれ!やっと会えたのに!」
「どの口が!ミズキが頑張って考えてくれたことを否定しやがって!聞く耳を持ってないのはお前の方だろ!」
僕の怒鳴り声に応じて、まるで真似るように帽子屋が怒号を飛ばす。元から燻っていた怒りがそれに触発されるように僕の中で点火していく。
怒鳴り合いの喧嘩など、生きていてほとんどしたことがないが、こればかりは譲れない。僕が帽子屋の手をたたき落とし、ミズキの手を取ろうとすると、彼はそれを阻止するように僕の手を掴む。
「手を離せこの!」
「ミズキから離れろ!」
もうここまでくると小学生の喧嘩のようだ。僕と帽子屋は互いに手を掴みあって取っ組み合いになる。配役はコピー出来ずとも、パワーはそのまま僕のようで力が拮抗した。
もはや滑稽にすら見えるその喧嘩の真っ只中で、ミズキはどうしたらいいか分からないと言うように口に手を当てて僕らを見つめている。
「に、偽物なの…?ジャッジさんは、ここにアスカが来るとしか…」
ジャッジらしい説明不足だ。彼の言葉はいつも抽象的で情報が足りなくなりがちだ。こんな時ばかりは彼の口下手を恨む。
「偽物はアイツだ!」
「あっちが偽物だ!」
帽子屋と僕は同じタイミングで互いを指さして叫ぶ。その様子にミズキは見開いたままの目で僕らを見つめてから、静かに深呼吸をした。
「…アスカは記憶を忘れたままの私とここにいてくれる?それとも、私が考えた道を一緒に歩いてくれる?」
彼女の質問に帽子屋と僕は顔を見合わせ、先に声を出したのは帽子屋だった。
「記憶を忘れたままのミズキを僕は幸せにする力があるよ。ずっと一緒にここにいよう!どんな困難を前にしても、僕が絶対に守ってみせる。ずっと僕を支えてくれたミズキを僕が支える番だ」
まるでそれっぽい理由を力強く言い放ち、彼はミズキに手を差し伸べる。僕はそれを睨んでから、ミズキと同じく深く呼吸をしてから言葉を選んだ。
「僕はミズキが選んで、新しく作っていく道が見たい。ここに留まる選択肢も勿論あるけど、理由が聞きたいし、出来れば記憶を取り戻したミズキに会いたい。あなたが自分の足で歩いて行けるようになるのが、あなたの幸せだと僕は思う。絶対に守るなんて無責任なことは言えないけど、歩いていくなら手伝いたい。手伝わせて欲しいんだ」
そこまで行って、僕は自分の胸に手を当てる。
「僕はたくさん考えて出したミズキの答えを聞きたい。たとえ険しい道を歩くことになってもついて行く。支えたいんだ。ミズキは…僕の大事な友達だから」
本当は話したいことがたくさんある。ミズキの話だって、僕がほとんど盗み聞きしただけのようなもので、こんな慌ただしい再会でなかったのなら、ゆっくりと腰を落ち着けて互いが考えたことをよく聞いて話したい。
だけど、帽子屋が僕の姿でミズキをどこかに連れ去ろうとする今、それはすぐには叶わない。今の僕に出来るのは、ずっとあなたの隣りで色々なもの見てきた人が僕であるという主張だけ。
僕は絶対に自分の主張を曲げたりしない。ミズキが僕の隣りを望んでくれている今であれば尚更だ。
僕と帽子屋の視線が集中する中で、ミズキは頷いてから少しだけ笑って僕の手を取った。思いのほか、彼女はあまり迷う素振りを見せなかった。
「途中から来てくれたアスカがあなたで間違いないよね?立ち位置が逆だったら、答えも逆になっちゃうから…」
僕と帽子屋がもつれ合っているうちに、自分でも気付かずに立ち位置をシャッフルしてしまっていたようだ。僕はミズキに強く頷いてみせると、彼女は久しぶりに見せる屈託のない笑顔で僕を見た。
「来てくれてありがとう!」
「久しぶり!会いたかった!」
僕の手を取ってくれた彼女の手を強く握り返す。怒りで頭が沸騰しそうだったのに、彼女の笑顔で僕の頭から登りすぎた血が正常に戻っていくのが分かる。
高揚感と、懐かしさ、欠けていた自分の一部が身体に収まるような安心感。
嬉しいという感情はこんなにも人から知性を失わせるのだと初めて知った。今の僕にはすぐに口に出せる言葉が思いつかなかった。
「ミズキ、違うよ!そいつは偽物…」
「偽物じゃない!」
食い下がる帽子屋にミズキが珍しく語気を強めて言い放つ。
「私が好きなアスカは自分の足で歩かなくていいなんて、そんな無責任なこと言わない!」
ミズキのこんなに大きな声を聞いたのは老人と喧嘩した時以来だろうか。彼女も腹から声が出るのだなという妙な感心と、不意打ちで出てきた好意の言葉に僕は口を半開きにしたまま、ますます言葉に詰まった。
困るとかでなく、なんと言うか、照れた。見た目そのままの僕を2人並べてシャッフルした上で、本物を見抜いてそう言われるとむず痒くて、僕はちょっとにやけそうになる自分の口元を片手で隠す。今は浮かれて笑っていい場面ではないのだ。
帽子屋は僕の顔をしたままポカンと口を開けてミズキを見つめていたが、徐々にその口元に笑みを浮かべて、ミズキへと伸ばしていた手を降ろした。
「…本当に彼が本物でいいの?」
無邪気に笑う彼の姿はそのまま僕であるはずなのに、それはまるで無機物のように人間味がない。にっこりと弧を描く彼の瞳が、僕の瞳の色からあの宝石のようなエメラルドグリーンへと変わってゆく。
「本当に彼とやっていけるかい?僕を選べば、僕は君の願う彼にだってなれる。ずっとずっとずっとずっとこの世界で君の隣にいたのは僕だ。何年も何年もこの世界で迷子になって、泣き濡れる君を慰めてきたよ。僕は君のこと、何でも知ってる。半年くらいしかこの世界にいないジャバウォックより、僕の方が君を知っている」
パチンと指を弾いて帽子屋が変幻を解く。真っ白な薔薇が彼の身体を覆い、それが散ると彼は僕が初めて出会った時と同じ金髪の青年へと姿を変えた。
「君が記憶を取り戻さなくたって、君の過ちも、臆病さも、不自由さも、何もかも僕は姿を変えて君の傍で見てきたんだから知ってるよ。それを隣りのジャバウォックが知っても大丈夫?嫌われたりしない?君の愚かさも僕は絶対に愛してあげられるのに」
「それくらいで僕がミズキを嫌うと思ってるなら、見くびるな」
帽子屋の言葉に被せて僕は低い声を出す。今更、彼女の過ちを知ったくらいで嫌いになるなら、僕は再会を諦めている。そんなに脳みそが足りてないように見られているなら、それは心外にも程がある。
それに、彼の言葉は優しいのに、何もかもが毒でしかない。偽善の皮を被った言葉の凶器。
物理的に傷が付かないから当人同士も気づきずらいだろうが、人の心は傷つきやすい。傷ついたら絆創膏を貼ればいいって話でもない。かすり傷をずっと抉られれば、いつかは大怪我になるのだ。心も同じだ。
「半年そこらしかいないジャバウォックで悪かったな。でも、もしお前が本当に何年もミズキの傍にいたなら、どうしてその不自由さから逃れる術を一緒に考えなかったんだ。お前がいくらミズキを愛したって、本人が満たされない愛がどれだけ虚しいか」
ミズキの手を握りしめる。僕の顔をミズキが見ているのが、何となく視界の端でわかったが、僕は帽子屋を睨んだまま目を離さない。
そうだ、望まない愛など苦しいだけ。押し付けがましい無邪気な愛こそ邪悪なんだ。悪気なく好きなだけ注いで、愛しているという大義名分で僕らを意のままに操ろうとする。
帽子屋は、僕の両親と同じ類の人間…敵なんだろう。
「ミズキは僕を選んだ。お前より短い時間しか傍にいなくたって、お前より僕をミズキは信頼してくれた。彼女の選択にお前がとやかく言う権利なんてない。全て、ミズキが決めるんだ」
僕が握りしめたミズキの手が、僕の手を握り返す。震えるその手は、それでも力強く、温かい。
「誰かの意見に流されて、都合のいい方に傾きやすいなんて、私だって分かってる…。だから、私はずっと迷子だったんだよ。私の配役は童話の主人公であるアリスのはずなのに、記憶を捨てるほど生きるのに不自由したんでしょう?」
ミズキは目を伏せて首を振る。それから顔を上げた彼女は帽子屋を見て、笑った。
「私がアスカに出会うまで、もしかするとあなたは私を守ってくれたのかもしれない。どんな泣きごとを言ったのかさえ覚えていなくてごめんなさい。でも、これが私の夢なら、これからどう進むかは私が決めるの!アスカの背中を見てそれを学んで、憧れたから、これからも一緒に歩いて考えたい」
「そうなんだ」
ミズキの話を聞きながら、帽子屋は微笑む。
アリスであるミズキの言葉なら言うことを聞くのだろうか。そんな淡い期待が一瞬、頭を過ぎったが、彼は自分の被っていたシルクハットを手に取ると指先でくるくると回し始めた。
「それだけ僕の力が及ばなかったんだね!それなら、今度はきっと君をもっと楽しませられる人間に変幻してみせるよ!君がもっとこの世界を好きになれるように!」
回したシルクハットを被り、彼の姿を大量の白い薔薇が覆っていく。
「僕の愛しいアリス!君の何でもない日を僕が毎日パーティーにしてあげる!」
変幻だ。彼はまたミズキを惑わす何かに、僕を止める何かに姿を変えるつもりだ。
呆気に取られてるミズキの両目を僕は片手で覆い、彼女を隠すように帽子屋に背を向けた。
「今だ!フロージィさん!」
僕が叫ぶと、隠れていたシュラーフロージィが帽子屋の背後から飛び出す。彼女は杖の先を掴んで引っ張る。
常に持ち歩いていた彼女の杖は仕込み杖。鞘から抜かれた細身の刃を彼女は帽子屋の背中に容赦なく突き立てた。刃は彼の身体を貫通し、帽子屋の口から血が溢れ出す。
帽子屋の全身を覆おうとしていた白い薔薇が散り散りになり、流れ出す血液に身体半分を薔薇で覆われたままの帽子屋が驚いた顔でシュラーフロージィに振り返った。シュラーフロージィはニヤリと笑って声を張り上げる。
「アスカ!彼の首をはねろ!」
僕は首に下げた短剣を握りしめ、それをいつもの黒い大剣へと変える。ミズキを背中に隠したまま、僕に背中を向けている帽子屋の首めがけて力いっぱい振るう。
虹色に光る剣の軌道が帽子屋の首を分断する。アマネの肩を切り落とした時と同じように、何かを切ったような感覚はなかった。
「どうして…そんなに酷いことをするの…」
薄ら笑いを浮かべたままの帽子屋の首がゴロンと床に落ちる。それに続くように彼の身体が膝を付き、床に崩れ落ちた。大量の血と薔薇の花弁が床に撒き散らされ、帽子屋の身体と首を中心に大きな赤い水溜まりを作る。
アマネの腕を切り落としたり、アマネの襲来で死んだ人々の遺体は見たことがあるが、自分の手で何かを殺めるというのは、たとえ相手が架空の生き物だろうと気分が良いものではない。広がっていく水溜まりを見ていると、頭から血の気が引いて目眩がした。
「アスカ?フロージィさんもいるの?」
僕の背中に隠していたミズキが振り返ると、目の前に広がる惨状を見て顔を青くする。口元をおさえ、わなわなと小刻み震える彼女はもしかしたら具合を悪くしてしまったのかもしれなかった。
「あんまり見ない方がいいよ」
彼女の目を再び手で覆いながら、僕はシュラーフロージィに振り返る。彼女は血のついた仕込み杖の切っ先を侍のように払ってから、丁寧にハンカチで拭き取ると鞘にしまう。顔色ひとつ変えずに死体を見つめている彼女は、さすが暗殺だの処刑だのと修羅場を潜っただけあって貫禄が違う。
「作戦成功だ。ありがとう、アスカ。前回よりもすんなり殺せたよ」
「上手くいって良かったです。でも、こんなにあっさりと…」
彼女の言葉を聞きながら、僕は首を傾げる。
シュラーフロージィから聞いていた作戦は、そもそも帽子屋が鏡であるならば、彼を覗き込まなければいいというものだった。彼の瞳を鏡と仮定するなら、目が合わなければいいのかもしれない。なので、僕とシュラーフロージィは挟み撃ちを考えたのだ。
しかし、帽子屋の能力については僕とシュラーフロージィが考えたもので、あくまでも仮定でしかないし、仮定のまま帽子屋は死んでしまった。
正直なところ、あまりに手ごたえがなくて逆に心配だった。これだけ世界を掻き回す存在が、こんなにも呆気なく倒せてしまうだろうか。
「ねえ、アスカとフロージィさん。帽子屋さんって、ジャッジさんも言っていたけど、本物の人間ではないんでしょ?死んだと言っても、補充ってそんなに時間が必要なのかな」
僕に目を覆われたのミズキが言う。それについては僕もずっと疑問に思っていた。
帽子屋の補充はどのタイミングで行われるのだろうか。今回はジャッジが知らせてくれたが、そもそもジャッジは僕がいなければ知らせる相手などいないに等しかった。今回はたまたま僕がいたから、帽子屋の補充を知ることが出来ただけなんじゃないだろうか。
「帽子屋さん、さっき言ってたよね。姿を変えてずっと私の傍にいたって…もしかして倒せても、またすぐに補充されたりとか…しないよね?」
「うーん…」
シュラーフロージィはいつも考える時と同じように自分の唇を指先で叩きながら首を捻る。
「補充のタイミングが分からないにしても、今までミズキの傍にいたのは確かにアスカなのだろう?形を変えて何度もミズキの傍にいたというのも帽子屋の狂言である可能性もある。アスカの姿であれだけのことが言える生き物だ。嘘の1つや2つ、吐かない方が無理があるさ」
彼女が言うことも頷ける。帽子屋が僕らの恐怖を煽るために、ミズキの気持ちを少しでも自分に傾けるために嘘を言う可能性は十二分にあるのだ。
「何にせよ、白兎が来てくれれば補充のタイミングは分かるんじゃないでしょうか?ミズキはここで白兎と待ち合わせしてるんだよね?」
「うん、ここで待っててって」
僕の問いに、ミズキが頷く。それを見たフロージィはゆっくりと頷くと、先程僕らが隠れていた路地の曲がり角を指さした。
「なら、あっちで待っているといい。僕は掃除夫を呼んで、この醜い害虫の死体を片付けてもらうとするよ。こんな汚いものを街の住民に見せたくないからね」
「なら、僕が呼んできましょうか?」
僕には翼がある。呼びに行くだけならシュラーフロージィよりも早いだろう。しかし、彼女はクスクスと鼻を鳴らして片手を振った。
「いいや、僕の指示の方が彼らは命令を聞いてくれるから、僕が行こう。それに、君はミズキと積もる話もあるんじゃないか?どうせ、白兎が来るまで何も出来ないんだ。ミズキと2人でよく話したらいい」
そう言われて僕とミズキは顔を見合わせる。僕は自分の頭を掻きながら苦笑いした。
これが粋な計らいというやつなのかもしれない。それならば、これは有難く享受するべきなのかもしれなかった。
「…じゃあ、お言葉に甘えてそうします」
「ああ、そうしてくれ」
目を閉じてシュラーフロージィはクツクツと喉を鳴らして笑うと、宣言通り掃除夫を探しに街の大通りの方へと歩いて行った。
僕とミズキはそれを見送ってから、ミズキは少しだけ笑って肩を竦めた。
「フロージィさんって見た目も凄く素敵だけど、中身もカッコイイよね」
「同感だ。ああいうのも魅力的だね」
僕はミズキの手を引いて帽子屋の死体や血溜まりを踏まないように回り込みながら、シュラーフロージィに指定された角へと向かった。
「ミズキって、ずっと思ってたけど、動物が好きなの?」
帽子屋の死体は出来るだけ視界に入れたくないので、僕らは路地の壁に背中をつけて一緒に座り、ずっと気になっていた素朴な疑問を口に出した。すると、彼女は不思議そうに首を捻る。
「動物は好きだけど…なんで?」
「僕の尻尾や角もだけど、人間離れした人の容姿が好きみたいだからさ」
ミズキは自分が帽子屋だと思い込んでいた時から、僕の容姿の変化をよく羨んでいた。もしかしたら、彼女もアニメに出てくるような可愛らしい兎耳や猫耳に憧れていたりするのだろうかと、疑問に思っていたのだ。それが、先程のシュラーフロージィの見た目について触れていたことでますます気になっただけだが。
僕の質問に彼女は困ったように笑いながら、視線を逸らした。
「そうだね…好きなんだと思う。凄く魅力的。いいなあとは思うかな」
「やっぱり可愛いやつがいい?」
冗談まじりに言葉を重ねると、彼女は首を傾げた。
「うーん…私ならアスカみたいな方がいいかな。なんなら目がたくさんあったり、口がたくさん付いてたり、人から離れていれば離れているだけ好きかも?」
「それはもはや化け物なのでは?」
思っていた回答とは随分と異なった。思わず笑うが、ミズキはすこし不満だったのか唇を尖らせる。
「セクシーだと思うんだけどな…」
「僕も好きだけどね、クリーチャー」
この不思議の国にはいないようだが、ゲームや漫画で見るようなおぞましい化け物というのは、表現力しがたい魅力があるのは確かだと思う。
身の毛もよだつような、一目見ただけで目がおかしくなるような異形の者は醜くて美しい。会いたいとか、なりたいとかは僕は思わないが。
そんな世間話をしていたものの、いざ本題に移ろうとすると不自然に話題が途切れた。突然、訪れる沈黙。地面で2人で並んで三角座りをしているだけ。沈黙を置いてからだと、なんだか変に照れてしまって急に言葉が出なくなってしまう。隣のミズキも話の導入が分からないのか、僕と地面を交互に見ている。そんなミズキを横目で見ると、意図とせず目が合って、2人声を揃えて笑った。
「…さっきはごめんね、帽子屋がいたからちょっと盗み聞きしてしまったんだ」
先に僕が口を開くと、ミズキは慌てたように両手と首を横に振った。
「仕方ないよ!フロージィさんと立てた作戦とか、タイミングとかあったんでしょう?」
「まあ…」
タイミングは確かにあったが、ちょっと興味で聞き耳を立ててしまったのはある。全肯定するのは罪悪感があって、僕は曖昧に返事をしながら目をそらす。
正直に謝った方がいいかなあ…。そんなことを考えている間にミズキが話を続けた。
「あのね、それなら多分アスカも半分くらい聞いてるかもなんだけど、凄く今更になっちゃうけど、私は忘れた記憶と向き合うことをもっと真剣に考えなきゃなって思ってて…」
完全に謝罪のタイミングを逃してしまったので、僕は彼女の話に耳を傾ける。もうさっきのことは胸にしまってしまおう。いつかタイミングが来たら謝るとしよう。
「今の私には記憶があまりないから、漠然と怖いって感情だけが残ってる。なんとなく理不尽だったなとか、怖かったなとか、そういうことは覚えてるんだけど、それ以外が凄く曖昧…どうしてここに来たのかもよく分からない」
ミズキは自分の膝を抱えたまま、自分の手をもじもじといじる。
彼女が現実で過ごしたのかは以前に聞いたことはあったが、確かに最後に彼女は「よく覚えていない」と答えていた。それは彼女が望んでシュラーフロージィに眠らせてもらった記憶なのだろう。
「だから、フロージィさんに記憶を返して貰って、そこからちゃんと現実に帰るべきなのか考えなきゃなね」
彼女は僕の顔を見ると眉根を寄せて笑った。それだけの選択を1週間程度で考えてくれた彼女は、本当に僕が話したことをよく考えてくれたのだろう。それが僕は凄く嬉しくて、僕は笑顔を作る。
「沢山考えてくれて、ありがとう。僕こそ一緒にお城にいた時に全然話さなくて本当にごめんね。もっと早く言葉を尽くして、ミズキに伝えなきゃいけなかった。それに…ミズキが言った通り、僕はミズキにキツく当たってかもしれない。申し訳ない」
「うううん。私だって、アスカが話してくれないって言ったけど、私から話しかけなかった。アスカが話しかけてくれるって待ってただけ。本当にごめんなさい」
「なら、お互い様だね。これでおあいこ」
僕はミズキに拳を突き出すと、彼女は照れたように笑いながら拳を作ってコツンと僕の拳にぶつけてくれた。
こうしていると、なんだか初めて出会った時を思い出した。あの温かい日々が戻ってきたようだ。
でも、あの時と違うことが沢山ある。この不思議の国に来てから半年もの時間が経過した。僕はあの時より何かに立ち向かうことを覚えて、自分が何者であるかを多少なりとも理解できたと思う。
今の僕には、僕にしかない理想や美学があって、進みたい道の標を見つけた。その上で、彼女と離れて学んだ。
見守ること。尊重すること。正義が違えど、決して相手に強要してはならない。それが本当に相手を思いやることなのではないだろうか。
押し付けがましい愛は息苦しい。だから、僕はもう二度とミズキにそんなことはしない。僕は両親がした過ちを繰り返したりするものか。
「帽子屋じゃないけど僕もミズキと離れて考えたんだ。ミズキやフロージィさんが言う通り、現実に帰るだけが全てじゃない。ミズキが納得して、これからも自分の足で歩んでいけるなら、この世界に残るのも幸せの形の一つだと思うんだ」
シュラーフロージィの話を聞いて僕は思ったのだ。この世界には確かに現実では決して得られないものが得られる人がいる。
僕もミズキ自身も、ミズキの現実がどうだったのかをよく知らない。それを知らぬまま、現実に帰るという選択をさせることは違う気がした。
シュラーフロージィはこの世界に残ることを選択した。だけど、彼女はきちんと自分を持って、自分の足での歩き方を知った上で、リスクを背負っての選択だ。それに近しい選択であるならば、僕はミズキがこの世界に残ることを尊重するべきだと感じたのだ。
「もちろん、僕はミズキと一緒に現実に帰りたいし、理由も知りたいけどね。だけど、一緒に現実帰って現実に向き合えっていうのは僕の美学ってだけで、ミズキに押し付けていいものじゃなかった。それこそ、ミズキが現実に帰るのが怖いように、僕はミズキがこの世界に残って、後で後悔するような事態が怖かっただけ。僕にミズキを現実に引っ張ってでも連れて帰るなんて権利はないよ」
僕は地面に座ったまま、三角座りしていたのをあぐらに変える。そんな僕の話を聞きながら、真面目な顔をしていたミズキが不意に笑った。
「ふふっ、アスカって理系の人?」
「え?全然文系だよ。化学の小テスト、50点満点で万年18点だった」
「18点って妙にリアルな数字で笑う」
小さな声で笑う彼女につられて僕もつい笑ってしまう。でも、本当にいつも18点だったのだ。何かに呪われてるんじゃないかって思うくらい、僕は勉強しようがしまいが18点しか取れなかった。
ひとしきり2人で笑ってから、彼女は笑いすぎて目尻に滲んだ涙を拭った。
「前から思っていたけど、アスカって答えより、答えに至る過程をよく考えて、それを重視する人だなあって。数学なら回答より、式を大事にしそうだと思ったから」
「そうかなあ?」
「そうだよ。今だって、私の出す回答より、回答に至る考えが聞きたいって言ってくれてる。そこが凄いなあって」
また唐突に出てくる彼女の褒め言葉に、僕は照れくさくなって鼻の下を指で擦りながら目をそらす。そもそも褒められ慣れていないので、いつだって誰に褒められたって照れくさいが、彼女からの褒め言葉はいつだって僕を得意げな気持ちにさせるので、ますます照れくさいのだ。
「記憶を取り戻すのは、やっぱりちょっと怖いけどね。鼻水垂らして大泣きしても傍にいてくれる?ブスって言わない?鼻水拭いてくれる?」
「言わないよ!ミズキがどう選択しても、ミズキが考えてくれたことなら応援する。辛いことを沢山思い出すなら、いくらでも話を聞くし、一緒に考える。支えるよ。鼻水も拭いてあげる!」
冗談を言う彼女に、僕も冗談を交えて返し、二人で声を上げて笑った。
僕はミズキが自分の力で未来を切り開く姿が見たい。きっとそこの部分だけは最初の僕の意思から変わらない。いや、現実に帰るって言葉にこだわってしまっていただけで、根本は変わっていないのかもしれなかった。
ミズキは僕と話したことで緊張が解れたのか、彼女も折りたたんでいた膝を少しばかり伸ばすと、ふうと息を吐いた。
「でも、びっくりした。アスカもあんなに怒ることあるんだね」
彼女の言葉の意味が一瞬だけ分からずに僕は首を傾げたが、先程の帽子屋とのやりとりを思い出した。
そう言えば、随分と幼稚なやりとりを披露してしまっていた。僕は今更のように恥ずかしくなって口を曲げたまま笑った。
「いや、だって僕の姿であんなこと言うから…ムカつくじゃん」
「いつもアスカって冷静だし、相手のこと『あなた』って言うのに、帽子屋さんには『お前』って言って怒鳴って取っ組み合いするんだよ?ちょっと珍しいもの見ちゃった」
楽しそうに笑ってから、ミズキは目を伏せた。
「アスカって私から見ると凄く立派な人だから、あんな風に感情に起伏があるって正直に言うと思ってなかった。強い人だから、私とは違うって…でも、アスカだって私と同じ人間なんだよね。傷ついたり、悲しんだり、怒ったりして当たり前なのに、私はそれを考えてなかった。本当にごめんね」
そう言われて僕は目を丸くする。その彼女の言葉が何故かとても胸に響いたのだ。
アスカは強いから。あなたは立派だから。私とは違う。ジャバウォックの配役持ちは強くて当たり前。あなたに敵う人はいない。
僕の姿が変わるにつれて、そう言われる機会が随分と増えた。でも、僕は強くなどないのだ。立派なジャバウォックになったねと褒められようとも、僕は立派になった気などしていない。いつだって僕は弱虫で、臆病で、僕は自分が常に弱者であると感じている。それは今も変わらない。
ただ、危険が迫ったから対処しただけだ。そうせざる得なかった。危険が迫れば怯むし、試練は怖い。最強の配役など、僕には不釣り合い。どうしてジャバウォックに配役されたのが僕なのだろうと考える。
だから、周囲の認識が時に重みになるのだ。何でもジャバウォックだから強いだなんて言わないで。何か危機を乗り越えただけで、立派だと言わないで。
僕が自分をそう思えないから、周囲との認識に齟齬が出ていたのだろう。みんなが褒めるアスカは、僕じゃないんじゃないかって。
だから、同じだと初めて言ってくれたミズキの言葉が、今の僕には嬉しくて仕方がなかったのかもしれない。
わかってくれ。
アマネが僕に言った言葉と同じだ。僕は彼女に分かって欲しかったのだろう。ミズキと離れている間、ずっと僕は自分でも分からないものの理解を彼女に求めていたのかもしれない。
「…そう言ってくれて嬉しい。なんと言うか、言葉にならないんだけど…僕のこと、そう考えてくれたの凄く嬉しいよ。ありがとう」
地面に置かれた彼女の片手の上に自分の手を重ねる。なんとなく、目に入ったそれに触れたいなと思った。彼女の手はすべすべしていて、柔らかく、温かかった。
すると、ミズキが驚いた顔で僕を見た。僕はその彼女の表情を見てから、今更のように顔に熱が集まってきた。
待てよ、友達に対して普通こんなことするか?しないだろ。なんでちゃっかり手を重ねちゃったりしてるんだ?
僕は真っ赤になったまま、黙ってしまう。口元だけが辛うじて笑みを作っていてくれているが、猛烈に照れくさくなって声がでない。
そんな僕のを見ていたミズキの顔も釣られるように赤くなって、みるみる耳まで赤くなる。
重ねたまま手放せずにいる僕の手をミズキが指先で控えめに握り返してくる。ますます自分の鼓動が激しくなり、頭から湯気が出そうだった。
この感情をどう形容したらいいんだろう。彼女の手を握ったまま僕は考える。
なんとなく、ずっとこうして触れていたいなと思ってしまうのだ。
「…いい感じのところ、失礼していいかい?」
トントンと壁をノックする音に僕とミズキはバッと互いの手を引っ込めて振り返る。そこには悪戯に笑うシュラーフロージィが壁に肩を寄りかけて僕らを見ていた。
一体いつからそこにいたのだろう。悪いことは何もしていないのに、言いようのない焦燥感に僕の心臓がバクバクと音を立てていた。ミズキも顔を爆発させそうなくらい赤くしていたので、同じなのかもしれない。
これって友達同士で起こる現象じゃなくないか?離れていた反動で、隣がより一層居心地が良いだけなのかな。居心地いいだけで、こんな風になるかあ?
「あっ、はい!大丈夫です!」
返事をしながら、僕は悶々とする。
でも、ミズキは現実に彼氏がいるはずなんだよなあ…あの反応は脈アリだなとか、そんなこと考えたらいけないんだろうなあ。
「元気の良いお返事だ」
クスクスと僕の言葉にシュラーフロージィは笑いながら、背後の死体があった場所を顎でしゃくった。
「死体の後処理を依頼してきた。あとは掃除夫たちが何とかしてくれるだろう。白兎は来たかい?」
「いえ、まだ来ないみたいです」
ミズキは困ったように目を泳がせながら答える。シュラーフロージィの気配に気づかなかったので、もしかしたら僕らが白兎に気付かなかったかだろうかと一瞬だけ考えたが、白兎がくれば嫌でも雨が降る。そう考えれば、彼の気配を感じない方が無理があった。
しかし、雨は降らない。雨が全く降らないあたり、彼はもはやここの傍にいるかすらも怪しい。
しかし、僕らの回答をまるで最初から知っていたようにシュラーフロージィは聞きながら頷く。
「だと思ったよ。こんな手紙が城に届けられていてね。双子たちから受け取ったんだ」
そう言って彼女は1枚の手紙の封筒を僕らにちらつかせる。それはご丁寧に赤い蝋で封をされている、金箔で縁取られた高級感のある手紙だ。
彼女はその中身を取り出すと、手紙を読み上げる。
「白兎は預かった。君たちの選ぶ選択を楽しみにしている」
あまりに簡潔な内容に僕とミズキは顔を見合わせる。シュラーフロージィは手紙の内容に虚偽がないことを示すようにそれの文面を僕らに見せるが、確かに内容は酷くみじかく、彼女の言葉に嘘がないことが伺えた。
「差出人は?」
「驚いたことにルイス・キャロルと書いてある」
彼女は不思議そうに首を傾げるが、僕はその名前に心当たりしかなかった。
ルイス・キャロル、本来の童話である不思議の国のアリスの作者の名前。アマネが出会ったことがあるという女性だ。こんな世界だから、ルイス・キャロルの名前を知っている人間は恐らく大勢いるし、誰かが悪戯でその名を名乗った可能性もあるが、タイミングがタイミングだ。本当に存在しているのかもしれない。
作者、という配役が。
「どんな人から貰ったと双子は言ってたんですか?」
質問を重ねると、シュラーフロージィは腕を組んで空を仰ぐ。
「これが分からなくてね…城内に落ちていたそうだ。それも、誰もが目につくような廊下のど真ん中に。しかし、兵士たちも双子もアマネも侵入者を確認していない。城の者が置いた可能性もあるが…彼らが僕に忠誠を誓っているはずだと僕は思っている。その線は薄いと個人的には感じているよ」
シュラーフロージィはふうと大きなため息を吐く。
「一応はこれから城で皆に聞き込みを行う予定だ。見張りに当たっていた者一人一人に双子を同行させて尋ねるから、嘘はすぐに見抜けるはずだ」
「でも、ジャッジさんに本当に会えないのだとしたら、帽子屋さんの居場所って…補充されたかどうかって分からないですよね?」
おずおずと声を出したミズキに僕とシュラーフロージィが彼女に振り返る。ミズキはちょっとだけ怯んだように縮こまったが、それでも僕らから目を離さずに言葉の続きを紡いだ。
「もし帽子屋さんがすぐに補充されるなら、補充開始地点は森のお茶会広場になりますよね…?湖の向こう側は大丈夫でしょうか?」
そう言われて僕とシュラーフロージィはハッとする。
「…オットーさんとチェルシーさんが向こうにいる!」
元々、オットーが死ぬ未来を回避するために僕とシュラーフロージィは彼らを集落に送り返したのだ。それなのに、もし彼らの元へ帽子屋が行ってしまうのなら、それはまずい。
シュラーフロージィは眉を寄せ、ややしばらく間を開けてから僕ら見た。
「アスカとミズキは先に湖の向こう側へ向かってくれないか。尋問はアマネを最優先に行う。アマネの無実がわかり次第、彼をすぐにそちらへ送るから、それまで様子を見に行って欲しい」
話の全容を知らないミズキは難しい顔をして話を聞いていたが、僕は彼女の意見に頷いて肯定する。
「わかりました、すぐに向かいます。ミズキにも湖を渡る時に詳しく話すよ!」
「うん、分かった!」
僕の言葉にミズキは強く頷いた。
「早ければ早い方がいい。急かして申し訳ないけど、頼んだよ」
そう行ってシュラーフロージィは足早に城へと背を向けてから、思い出したようにミズキに振り返って微笑んだ。
「そうだ、君の眠らせた記憶は『本人が望まないかぎり眠ったままだ』が、君が強く望めばいつでも思い出せるんだよ。覚悟が決まったなら、強くそう願えばいい」
彼女の言葉の意味がすぐに分からなかったのか、ポカンとミズキは彼女を見つめ返していたが、彼女は小さく笑って片手を上げた。
「次に僕が出会うアリスが、本当のミズキであるのを楽しみにしているよ」
本当のミズキ…それは記憶を忘れる前のミズキを指しているのかもしれない。
その背中を見送ってから、僕はミズキの手を引いて港へと歩き出す。
「僕らも行こう!」
僕の言葉にミズキが頷いて、僕の手を強く握り返した。
ざわめく胸騒ぎを、彼女の手の温もりが癒してくれているような気がした。
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