殿下、毒殺はお断りいたします

石里 唯

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第2章

お妃教育1.2

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 女官に先導されて王妃殿下の居室まで歩いたことが、よかったのだろう。
 リズは、侍従長から受けた敗北感に、気持ちの区切りをつける余裕が生まれた。

 始めから物事が上手くいくと考えてはいけなかったのだわ。
 ここからが勝負なのよ。

 女官がドアをノックしたとき、リズは沸き上がる気合と共に、笑顔も蘇っていた。

「よく来てくれたわ」

 朗らかな声が、リズと女官を出迎えた。
 クロシア国ソフィー王妃は声に合う笑顔を浮かべながらドア近くまで足を運び、歓迎を示した。
 あまり表情が動くことのない王太子殿下とは異なり、妃殿下はその笑顔が魅力的と評されている。
 外見も、ソフィー妃殿下と殿下に似たところは見られない。
 妃殿下は栗色に近い金の髪で、瞳の色もどちらかと言えば緑に近い青色である。
 面立ちも大きな瞳と丸みを帯びた輪郭で、美しさよりも愛らしさを感じさせるものだ。
 
 このように容姿の雰囲気は異なる二人であるけれども、リズは殿下が自分にほほ笑んでくれるとき、不思議と妃殿下の笑顔と似ていると感じる。
 ――もっともそのような評判を聞いたことがないため、リズの胸の内にだけに止めている感想だ。
 
 妃殿下は、今も相手まで引き込むような評判の笑顔でリズを見つめ、リズは気が付けば笑顔を返していた。
 
「さぁ、座って頂戴」
 気さくな口調で椅子を勧め、リズが腰を掛けるや否や、一層笑顔を深めて身を乗り出した。
 そして、妃殿下は目を輝かせて一言を発した。

「エドワードは貴女を体で落としたの?」

 妃殿下の背後に控えていた女官が一斉に声を上げ、中にはなぜだかメモを取る準備をする者もいる。
 そのような賑やかな空気の中、リズは衝撃に固まっていた。

 この妃殿下のお言葉を想定できなかったのは、私の至らなさになるのかしら…?
 それはあまりにも点が辛くないかしら、いえ、戦略というものに甘さがあってはいけないけれど…。

 衝撃から抜け出せず、思考が迷走しているリズを見つめ、妃殿下はくすりと笑いを零した。
 
「あら、私の息子はまだ貴女を落とせていないのね」

 殿下本人と公爵家しか知らない事実を一目で見透かされてしまった衝撃にリズは息を呑んだ。妃殿下はリズから視線を外し、眉を顰めて呟く。
「私と陛下の血を引いているのに、本当に遅いわね。あの子は真面目だから、体を使う手は無理だったのかしらね」

 いえ、遅いとか真面目とかの問題ではなく、王太子としてのお立場であれば当然のことではないでしょうか…。
 
 リズは立て続けに襲いかかる衝撃に自分の価値観が揺らぐのを覚え、思わず同意を求めるように女官たちに視線を走らせたが、彼女たちは、妃殿下の言葉に溜息を零しながら頷いている。
 自分に馴染んだ良識と空気を求めるように僅かに口を開けたリズに、妃殿下はゆっくりと向き直り、瞳に悪戯な輝きを見せた。

「ふふふ。あの子の今後の頑張りを楽しむことにするわ」

 女官たちの顔にぱぁっと輝きが戻るのを視界に入った。リズは視界から女官たちを押しのけ、目の前に座る妃殿下に集中することにした。
 妃殿下の瞳の輝きは、悪戯を含んだものから穏やかなものへと変わる。

「私はお妃教育など、妃になってから覚えればいいと思っていたのだけれども、貴女とゆっくり話せる機会は本当に楽しみにしていたのよ。貴女はエドワードに命を吹き込んでくれたのだから。貴女に出会う前のエドワードは――」

 賑やかに華やいでいた部屋の空気が、すっと気配を変えた。
 妃殿下は目を伏せ、瞳に宿る感情を隠したものの、リズの胸には鋭い痛みが走った。
 初めて殿下と顔を合わせたお茶会では、殿下の美しいサファイアの瞳は生きていることを疑うような、物事の一切を素通りするような輝きのなさだった。
 
 あのお茶会の時は婚約者を選ぶことに無関心なために、殿下はあの瞳になっていたとリズは思っていた。しかし、兄から聞いたところによると、あの瞳は殿下の常態だったそうだ。お茶会の後の蕩けきった殿下しか知らないリズには信じられないものがある。
 
 けれども、リズとは異なり、お茶会以前のあの殿下を傍近くで見続けていた妃殿下の心痛は、どれほどのものであったのだろう。わずかな時間しか見なかったリズが今でも忘れることができないのだ。察するに余りある。
 部屋に立ち込めた空気の重さに、リズがそっと小さく息を吐くと、妃殿下は瞳を開き、悪戯な輝きを取り戻した。

「あの頃は、あの子がまさかここまで恋に溺れるとは思わなかったわ」

 女官たちは声を上げ、部屋に明るさが舞い戻った。妃殿下の発言の内容には複雑な思いがするリズも、微かに笑っていた。あの瞳の殿下より、リズを困らせる殿下の方がリズにとっても良かった。
 やがて賑やかな空気が収まると、妃殿下はひたと視線をリズに合わせた。

「私は貴女に感謝しているの。王妃という立場から、今まで表立ってそれを伝えることはできなかったけれども、本当に貴女という存在に感謝しているのよ」
「そのような――、畏れ多いことで――」

 思いも寄らない妃殿下の言葉に、リズは当惑を隠せなかったが、妃殿下は僅かに首を振ってリズの言葉を遮った。
 そして椅子から優雅に立ち上がると、リズのところまで歩いてきたのだ。
 異例な事態にリズは目を瞬かせながらも、妃殿下に礼を尽くすため、椅子から立ち上がると、妃殿下はゆっくりとした動きでリズの手を取った。

「覚えていて頂戴。私は、私が生きている限り貴女の味方です」

 本来なら王妃として許されない、そしてそもそも王族以外で誰も得られない、畏れ多く重い発言に、リズは動揺も露わに喘いでしまう。
 それでも、ソフィー妃殿下は話を逸らすことはなかった。

「未だにエドワードに落ちない貴女には、落ちることのできない理由があるのでしょう」
 胸の内を言い当てられたリズは、目を微かに見開いてしまった。
 妃殿下はリズを包み込むように目元を緩ませた。

「貴女がこのままエドワードを受け入れられなくとも、あの子と結ばれなくとも、私は貴女の味方です。この事は変わらないわ。貴女は既に十分に、あの子を、そして私に幸せをくれたのだから」
 
 妃殿下の声には紛れもない真摯な思いが込められていた。
 殿下の気持ちをリズが受け止めるという最良の結末が得られなくとも、心から幸せを感じるまで、妃殿下は心を痛めていたことに、気が付けばリズの目に熱いものがこみ上げていた。

 どうして私には前世の記憶があったのかしら。記憶がなければ、たとえ殿下に心惹かれることがなくとも、私は婚約を受け入れる覚悟をしたかもしれないのに。
 
もどかしい思いに囚われ、気が緩んでしまったのだろうか。
 リズの口からポロリと昨夜は想定していなかった言葉が零れていた。

「妃殿下。妃殿下は陛下に嫁ぐことをどのようにご決断なさったのですか」

 王妃殿下に対して不躾ともいえる質問をしてしまったリズを咎めることなく、妃殿下は口元を緩め、そっと答えを返した。

「ただ、この方の傍から離れたくはないと思ったのよ」

 人生の重大な事柄に関する決断とは思えない簡潔な理由を告げた妃殿下が、ふわりと浮かべた笑顔に、リズは目を瞠った。

――殿下の笑顔だわ。

 こちらに注がれた優しさが、殿下を思い起こさせ、リズは自分の頬が熱を持つのが分かった。さり気なく妃殿下の笑顔から視線を逸らしたものの、それが通じる妃殿下ではなかった。

「あら、どうなさったの?」

 容赦なく問いかける妃殿下に、まだ頬の熱が収まらないリズは答えあぐねていた。そのまま正直に答えてしまえば部屋の空気がどうなるかは容易に予想ができる。
 妃殿下は瞳に悪戯な輝きを取り戻した。
「ふふふ。リズ。王妃は答えをとても求めているわ」

 王妃のご下問の態を取った追及に、リズは逃げることを諦め、頬の熱を一層高めて答えた。
「妃殿下の笑顔で、エドワード殿下の笑顔が思い出されてしまいました」

 一瞬の静寂の後、部屋は賑やかな歓声で満たされた。予想できたこととはいえ、リズは耳まで熱が広がるのを感じ、俯いてしまう。
 テーブルに彫金された国章に集中して熱を抑えようとしていたリズに、小さな囁きが降ってきた。
「やはり、あの子は幸せね。陛下以外でそのようなことを言った方は初めてよ」

 リズが顔を跳ね上げると、妃殿下は晴れやかな顔で出迎え、そのまま場の空気を変えた。
「さぁ、一応、お妃教育をしましょうね。お妃になろうがなるまいが、この教育に損はないわよ」

 妃殿下は背後に控えている女官たちに目を遣り、女官たちは意を受けてテーブルに近づいた。意図が分からず、目を見開いているリズに、妃殿下は今までとは異なる輝きを瞳に見せた。
 この輝きは――、そう、ニヤリという表現が似合う何か悪だくみをしているようなものに感じるのだけれど。
 リズの背筋に寒いものが駆け上ったが、リズは自分の勘が外れていることを願った。

「貴女は薬草を通じて、年若いご令嬢たちとのつながりはお持ちだから、ご婦人たちに集中しておくわ」
 
 ご婦人たちの何に集中するのか見当がつかなかったが、悪寒はやはり過敏になりすぎたためだったと、リズは体の力を抜いた。
 
「まず、ファーガソン侯爵夫人のジェシカ様ね。彼女の趣味はレース編みということが知られているけれど」
 リズは小さく頷いた。爪を染める草のお礼に、夫人が編んだハンカチを頂いたことがある。それは見事な花の模様が編まれていて、侍女たちと溜息を零したほどだ。
 リズが精緻な模様を思い出し、溜息を再び零していると、妃殿下は続きを語った。

「他に、若いご令嬢が頬を染めているのを愛でる趣味もあるのよ」

――え?

「お酒を使って染めさせることもあるから、貴女も注意してね」と妃殿下が軽やかにかける言葉が遠くから聞こえ、女官たちが「エリザベス嬢はジェシカ様のお好みのそのものですからね」と楽しそうに同意する声も薄っすら聞こえる。

 そして、リズはその後、2時間の間、固まり続けていた。
 妃殿下と女官たちは生き生きと、ご婦人たちの趣味――嗜好というべきかもしれない――、交友関係、――秘めた交友関係は特に詳しく――、果ては夫婦の閨の事情まで、リズに得々と語り続けてくれたのだ。

 十人十色。
 想像もできない多種多様な嗜好と人間関係を知り、リズは眩暈を覚えていた。

 元より、妃殿下の昔日のご心痛を知ったときに、リズは妃殿下に自分の趣味を告白することは放棄していた。妃殿下から破棄を決断させることは、あまりにも不誠実に思えたのだ。
 けれども、リズは一つの結論を出していた。

――たとえ趣味を告白していても、これほど様々な嗜好をご存じの妃殿下には、私の毒草の趣味も霞んでいたかもしれないわ。

 リズが受けた衝撃は講義の内容だけではなかった。
 これだけの事を把握しながら、全てを呑み込み、一見、分け隔てなく評判の笑顔を浮かべて社交をこなす妃殿下にも、リズは眩暈を覚えた。

 殿下付きの侍従がお茶のために迎えに来て、妃殿下と女官たちの賑やかな歓声を受けながら部屋を後にしたとき、リズは、昨晩想定していなかった感想を溜息と共に胸の内に零した。

 私、例え殿下をお慕いしても、王太子妃を務めることができるのかしら。


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