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第2章

お妃教育1.1

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「リズ。少し不思議な顔になっていると思うのだけど」

 穏やかな声でありながら、恐る恐るといった風情を隠し切れないまま、ヒューはとうとう感想を口にした。
 公爵令嬢として好ましくない感想を受けた当のリズであるが、不思議な顔のまま僅かに頷くにとどめている。相手が幼馴染のヒューだということもあって、今のリズは全く自分の顔の筋肉に頓着しなかった。むしろ笑い出さない自分を褒めたいほどの気持ちだった。

「僕の天使の、不思議なその顔も素敵だよ」

 妹に関して、公平、公正、客観といった言葉は捨て去っているアンソニーは、満面の笑みで愛しい妹を見つめている。
 ヒューがそっと横を向いて溜息を隠し、向かいに座るポールは我関せずと美しい姿勢で控えている。

 今、リズたちは、のどかな蹄の音を聞きながら、馬車で王城に向かっている。
 リズのお妃教育が始まるのだ。
 当初、リズは教育を受けることに激しい抵抗を覚えた。そのようなものを受ければ、ますます自分の立場が固められてしまうと考えたからだ。
 けれども、王城から教育の講師陣を伝えられると、リズの態度は一転した。
 未来の王妃ともなる存在に対する講義は、侍従からの王室の礼儀作法に止まらず、国の内外の情勢を網羅すべく、国家の中枢に位置する、宰相、内相、外相、軍の総帥によってなされる予定となっている。
 
 この布陣は、当初、リズが想定していた、――現実には形骸化されているそうだが――、婚約者候補を審査する者と一致していた。

――この方たちに「不適格」と判断されれば、何らかの動きが出るはず。

 リズがそう考えたのは無理からぬことだろう。
 公爵令嬢の体面を保ちながら真摯に講義を受け、その中でリズの「真の趣味」を伝える流れに持ち込むことが、リズのお妃教育の目標だった。

 この目標を達成する意気込みから、昨日は想定問答集を練り上げ、気持ちが高ぶり寝つきが悪かったリズだが、今もその興奮は続き、「不思議な顔」と評された表情になってしまったのだ。
もっとも、今日の教育は、侍従長と王妃殿下から受ける予定で、二人は審査者ではない。二人とも穏やかな気配を纏った人物で、まずはお妃教育の入り口として選ばれたと思われる。それでも、二人に不適格と判断されれば、審査者へ進言してもらえる可能性は否定できないとリズは考え、万全を期したのだ。

 私、機会は逃しません。けれど、確かに今の私には落ち着きが必要ね。

 リズは瞳を閉じ、呼吸に意識を集めて落ち着きを取り戻し、これからの闘いに気持ちを整えた。



「よくお越しくださいました」

 侍従長が、体全体で喜びを示しながら、一行を出迎えてくれた。
 ヒューは、侍従長の隣で柔らかな微笑みを浮かべて佇んでいた白の守護師と、ゆっくりと去って行く。今日の教育は彼が立ち会う必要はないものなのだ。
 遠ざかるヒューを見送りつつ、リズは若干の違和感を覚えていた。

 王妃殿下のお茶会などで侍従長を見かけたことは何度かある。白い髪と笑顔が刻み込まれた顔のしわに年齢を感じさせるものの、職業柄鍛えられた作法の見本たる美しい所作は年齢を重ねたことで、彼の核たるものとなり、見る者の目を留めるほどだ。
 加えて、年を経た懐の深さで、彼は王宮に来る客人を包み込むような空気を纏っている。

 しかし、今日の彼には何かしら、思わず後ろに下がりたい気持ちを覚える気配を感じていた。目立たないように気を配りながら、兄に近寄ったリズだったが、リズの一挙一動を見逃さない兄は、輝くような笑みを浮かべてリズの体を自分に引き寄せた。

 私が神経を尖らせすぎていたのね。

 いつもの兄を見て、リズは侍従長に感じた不穏な気配を忘れることにした。

 足取りも軽い侍従長に案内された部屋は、先日の舞踏会でリズが休ませてもらった、殿下の応接室だった。天井の補修は終わっていて、タペストリーも美しく飾られている。
 先日の騒動の跡など全く感じさせず、部屋には新たに美しい細工の大きな箱が置かれて、内装の美しさが増した感すらある。
 
 殿下は、いらっしゃらないのね。

 部屋をさりげなく見渡して、そのことを確認したリズだったが、「さりげなく」は失敗していたのかもしれない。

「殿下は、エリザベス嬢の本日のお妃教育が終わられた後に、お茶に誘いたいとおっしゃっています」
 そつなく侍従長が言葉を挟んできた。
 リズがお誘いへの断りの言葉を、完璧な笑顔で飲み込んだ隣で、アンソニーは不機嫌を隠すことなく口を開いた。
「早速、始めてもらおうかな。お茶やお妃教育などをしている時間的余裕があるのか僕は疑問に思うよ」
 
 アンソニーがリズに同行したのは、侍従長から受けるお妃教育に同席するためではない。
 式典の礼儀作法を一通り教えてもらった後に、侍従長と結婚式の打ち合わせをするために、王宮へ同行したのだ。
 ――そして、アンソニーは打ち合わせに時間をかけ、できる限り準備の進行を遅らせるという目論見も秘めていた。

 この目論見を持つ兄が、お妃教育を受けることは全く眼中にないにしても、あまりにもお妃教育を軽んじた発言であり、リズは侍従長にとりなそうと彼を見やり、目を見開いた。
 侍従長は、アンソニーの不機嫌など歯牙にもかけず、いや、どちらかと言えば我が意を得たりとばかりに顔を輝かせている。そして、熱く語り始めた。

「ありがとうございます。そうですとも!式典等の礼儀作法など妃殿下となられてから覚えていただければよいのです!」

――え?何か驚く発言がさらりとあったような…

 昨夜練り上げた想定問答集とは方向性からして異なる、耳を疑うような発言に対して、リズが驚きに浸る暇はなかった。侍従長の熱弁は勢いを増して続けられる。

「加えて、エリザベス嬢は既に王室法には大変精通していらっしゃると、殿下から伺いました。あえてお教えしなければならないことはないと思っております。式当日は笑顔で乗り切っていただければよいのですよ」

 王室法の一部については、全く精通していなかったけれども――、という苦い事実に関して、早速、リズは笑顔で乗り切ることにした。
 リズの笑顔の裏の複雑な心情は配慮されることなく、侍従長は刻まれた笑顔をリズに返すと、やおら身を乗り出した。

「それでは、私から今の進捗状況を説明させていただきます」

 朗らかな様子で侍従長は即座にお妃教育を放棄し、打ち合わせに入り始めたのだ。

「招待客の選定はすでに済ませております。公爵家の選定が済み次第、招待状を発送することができます」

――え?

 兄妹は揃って身体を一瞬強張らせた。
 招待客の選定は、非常に時間のかかるものだ。この選定で、式までの時間を稼ぐ予定だったが、公爵家よりも選定に時間がかかるはずの王室が既に終了していることで、早くも目論見が外れてしまった。
 しかし、リズはそれよりも気になることがあった。是非とも確認しなければいけない点があった。
「あの、招待状には日にちを入れた方がよいのではないでしょうか?」

 リズの動揺を何と捉えたのか、侍従長は照り輝くような笑みを浮かべた。
「もちろんでございます。王室では4か月後を設定しています」

 兄妹は揃って目を見開いた。
 日取りが決まっているという切迫した状況よりも、その期間が4か月しかないという短期間な事態に、純粋に驚きを覚えずにはいられなかったのだ。
 貴族の結婚式は、大抵1年は準備にかかってしまう。それを4か月に短縮するには、どれだけ準備を急がなければならいのだろう。そもそも可能なことなのだろうか。
 
 いち早く立ち直ったアンソニーは、険しい顔で侍従長を見つめた。
「しかし、僕は、僕の天使に最高のドレスを用意したいんだ。4か月では足りないね」
「そのお気持ちは、私どもも同じでございます。ご覧くださいませ」

 侍従長は流れるような動作で立ち上がり、先ほどリズが目を留めた大きな箱に歩き出した。
 恭しい手つきで箱の蓋が開けられ、中に納まっているものが見えた瞬間、兄妹は息を呑んだ。
「これは…、また…」
 兄妹は言葉を続けることができなかった。
 マーレイ公爵家ですら目にしたことのない、上質の布が数えきれないほどに並べられていた。
「殿下が公務で出かけられた先でお買い求めになったもの、献上されたものが集められています。この中から、必ずやご満足いただける布が見つかると我々は自信を持っています」
 侍従長の誇らしげな、自信に満ちた声が部屋に響いた。

 確かに、これだけの数があれば、新たに探す必要はないと認めざる得ない程、用意されている。リズは背中に寒いものが走ったのを感じた。

 一体、いつから殿下は布を集め始めたのかしら。

 答えを知りたくない疑問がリズの頭を占めていたが、隣に座るアンソニーは別の疑問で頭を占められていた。

「この美しい織は目にしたことがない。どこから入手できたのだい?」
 
 一つの布を取り出し、次代の公爵の片鱗を見せ、布を真剣に吟味している。恐らく、公爵家の事業で取り扱いたいと判断しているのだろう。

「さすが、アンソニー様です。そちらは、ラタ帝国のテクステュム地方の職人の手になるものです」
「悔しいな。あの地方の職人は、別の地に織物を売ることを極度に嫌がって、公爵家では仕入れることができていないのだが」
「その通りでございます。殿下も初めは断られたのですが、職人に、ご自分のエリザベス嬢への思いを手紙に何度も認め、さらにラタ帝国に訪問する際は必ず足を運び、ようやく手に入れることができたのでございます」

 思わぬところで自分の名前が出されていたことに、リズは顔から火が出る思いがしたが、相も変わらず隣のアンソニーは別の思いが過ったらしい。

「僕も妹への思いを手紙に書いてみるとしよう。僕の天使への思いなら負けはしない」
 
 お兄様、何か違うと思います。作戦を忘れていませんよね?

 顎に手を当て真剣な面持ちで呟く兄を横目に、喉元まで出かかった問いを、リズが再び完璧な笑顔で抑え込んだその時、ドアがノックされ、王妃殿下からの呼び出しが告げられた。

 リズを見送るため美しい動きで立ち上がった侍従長は、にこやかに、けれども瞳にはっきりと鬼気迫るものを浮かべて、リズにとどめを刺した。

「国王陛下の時の反省を踏まえ、今度こそは、必ず、いかなる事態が起きても式を間に合わせると、我々侍従一同、決意を固めております。どうぞご安心ください」
 
 語り終えた侍従長からは、感情の高ぶりで薄っすらと魔力が立ち上っていた。国王陛下の結婚式に関する雪辱を果たす機会と、侍従たちが激しい情熱を掲げていることが否が応でも伝わり、リズはとうとう瞳を閉じてしまった。
 
 お兄様と私の時間稼ぎは、苦しいようだわ。いえ、恐らく無駄なことなのかも…。
 
 元々、涙ぐましい作戦ではあったが、旗色の悪さを認めざるを得なかった。
 知ることが恐いほど昔から、殿下は用意を始めていたと思わざるを得なかった。
 そして、侍従たちも、ひょっとすると殿下よりも昔から、準備を始めていたことがひしひしと伝わったのだ。

 敗北感に飲まれたものの、気力をかき集めて笑顔を取り戻し、迎えに来た王妃付きの女官と共に部屋を出ると、リズはほっと一息ついてしまった。
 その瞬間、ふと、自分の真の趣味を伝えていないことに気が付いたものの、もはや侍従長に伝えようとは思わなかった。

――あれほど式を行うことに熱意が溢れている相手に、何を言っても無駄に思われたのだ。






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