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第2章

殿下とのお茶

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 殿下の執務室のドアが開けられた途端、奥に一人佇んでいた殿下の金の髪が目に入った。
 瞬間、リズの体はなぜだか軽くなり、浮き立つような心地がした。
 一週間ほどしか離れていなかったのに、随分、会っていなかった思いがしてしまう。
 婚約者になり、国民からお祝いされ、目まぐるしく環境が変わったためなのだろうか。
 久しぶりに目にする美しいサファイアの瞳に、嬉しそうな輝きが灯るのを見て、リズは自分の頬が緩むのが分かった。

 ああ、殿下の笑顔だわ。

 そして妃殿下への発言を思い出し、頬を染めて視線をそっと外す。出迎えるためにこちらに歩み寄ってくる殿下の心地よい声が部屋に響いた。

「私の女神。こちらを向いてほしい。貴女の瞳に私が映ると、全てを忘れられる気がする」

 ああ、今日もいつもの殿下だわ
 
 リズは条件反射で完璧な笑顔を浮かべた。
 リズの複雑な心情を読み取り、目元を緩めた殿下は、流れるような動きで手ずからお茶を淹れてくれる。殿下にそのようなことをさせてしまい、リズが慌てて立ち上がろうと腰を浮かせかけると、サファイアの穏やかな眼差しが押しとどめた。

「執務の合間には、侍従を呼ぶのは面倒で自分で淹れているのだ」

 慣れた手つきはその言葉が嘘でないことを教えている。
 悪戯めいた輝きを見せ、「貴女と二人きりの時間を1分でも増やしたかったからね」と話しながら置かれたカップからは、リズの好みの果物の香りを移した紅茶の甘い香りが漂っている。
 一口味わい、ほっと息を付くと、向かいに坐した殿下の顔は、子どものような純粋な喜びで輝いた。
「良かった。やはり貴女はそのお茶が好きなのだね。公爵家でもこのお茶の時は、一段と貴女の顔が安らいでいた」

 瞬間、リズの頬は染まった。口に出したことのない好みを悟られるまで、よく見られていたことが気恥ずかしかった。
 そして、一瞬後、リズの頬の熱は引いた。自分は殿下のお茶の好みを知らないことに気が付いたのだ。

 お茶だけではないわ。私、殿下のお好みの色も、食べ物も…、何も知らない…。

 リズは記憶を探り、何かしら殿下の好みを思い出そうとする。けれども、自分を見て顔を輝かせる殿下しか思い出せない。

 あっ!好きな香りは知っているわ。

 辛うじて思い起こせたものがあったものの、リズは激しく落ち込んでしまった。
 香りは殿下が教えてくれたもので、自分で気が付いたものではない。
 リズは決して周りに無関心な人間ではないと自負している。何しろ隠すべき趣味があるため、周りの様子は可能な限り常に観察しているのだから。
 教えられずとも、ご令嬢たちの好みのお茶は当然把握している。妃殿下のように秘めた嗜好までは知らないが、表の趣味ならたやすく思い出すこともできる。
 それなのに、殿下については全くと言っていいほど、好みを知らないのだ。

 私は、本当に6年間、殿下に対してひどい態度をとっていたのね。

 カップをそっとテーブルに置き、こちらを見つめるサファイアの瞳に視線を合わせた。
 それだけのことで、殿下の美貌に輝きが増し、リズは思わず苦笑した。けれどもそのお陰で気負うことなく、思いを口にすることができた。
 
「殿下のお好みのお茶を…、教えていただきたいです」

 殿下は僅かに目を見開いた。そして、辺りを照らすような輝きで、リズですら見惚れるほどその美貌を際立たせた。

「貴女が私のことに興味を持ってくれるとは、なんと素晴らしい日だ。この感動を今夜は克明に書き綴ろう。どれだけ書いても足りないだろうが、どのみち、今夜は喜びで眠ることはできないから問題はない」

 6年の私の行いを突き付けられて、確かに罪悪感を覚えるのだけれども――、どうしてかしら、何かしら別の思いも抱いてしまうのは。

 複雑な思いが過るリズの顔を見ながら、殿下は輝きを収め、穏やかな笑みを浮かべた。

「今日も私の女神は美しいけれど、疲れた様子だね。もう少し講義の時間を減らすように侍従に頼んだ方がいいようだね」
 妃殿下の講義で受けた疲れを気取られてまったことに、リズは自分が信じられなかった。病気でもなく体調もよいのに、向かい合う相手に疲れを見せてしまうなど、公爵令嬢として許されない失態だ。
 
 私、どうして気を緩ませてしまっているのかしら

 慌てて居住まいを正し、完璧な笑顔を浮かべて、サファイアの瞳を見つめる。
「違います。時間は負担になるものではなかったです。妃殿下から受けた講義で、私、例え、殿下を――」

 その先の言葉を思い浮かべて、リズの頬は今日一番の熱を持った。急いで違う話題を探し、それは難なく見つかった。どうしてこの話題を忘れていたのか疑問が浮かぶほど、言いたかったことだった。

「そうですわ!殿下、私をだましたのですね!」
 形の良い金の眉が微かに上げられた。
「貴女は同意してくれたと思うが?」
 リズは言葉に詰まる。真意はどうあれ同意したことは、しっかりと言質を取られ、言い逃れできない。王室法の更新も、他人任せにしたリズに非がなかったとは言えない。
 
 いえ、問題はそこではないわ。話が逸れてしまっている。

 リズは息を吸い込み、自分を抑え、穏やかな声を取り戻した。
「私、まだ、殿下をお慕いしていません」
 殿下はふわりと微笑んだ。
「4か月の間に、私を好きになってもらう予定だ」
「好きにならなかったら、どうしてくれるのです!」

 堪らず上げたリズの抗議に、殿下は、刹那、眉を寄せた後、カップに目を落として、瞳を隠してしまった。
 隠されたサファイアの瞳が見たいと、リズの胸に微かな痛みが走ったとき、殿下はカップを眺めたまま、低い声で切り出した。

「母上は、貴族の様々なことを把握して、相手に笑顔を向けながら、頭の中で相手の裏の姿を思い出して笑っていることが趣味なのだ。妃殿下に都合のいい趣味だったが」

 何か、聞いてはいけない、聞きたくはなかったことを、聞いてしまった気がするわ――

 新たな衝撃で話が逸れたことにも思い至らず、完璧な笑顔で衝撃を押し隠したリズに、殿下はサファイアの瞳を向けた。
「皇太后である祖母は、人名と顔を一致させている程度だった。貴女には貴女の妃殿下の形がある。母上になる必要はない」
 決して大きな声ではないのに、その声はリズを捕らえていた。言葉はリズに染み込んでいく。

「貴女が妃殿下になるために、変わる必要はない」

 その言葉は誓いのように、真摯な響きがあった。
 強く、真っすぐに向けられた眼差しに、リズは絡めとられたように目が離せなかった。
 偽りない思いを見せる澄んだサファイアの瞳を、ただ見つめていた。
 サファイアの瞳以外、リズには何もなくなってしまったように感じた時、殿下は小さく息を吐き、目を伏せた。
 リズも呪縛が解かれたように、息を付き、自分が呼吸も忘れてサファイアの瞳を見つめていたことに気が付いた。
 驚くリズの耳に、心地よいいつもの殿下の声が入りこんだ。
 
「私の女神。次の講義の時に、貴女の香を分けてほしい」
 6年の間、何度も繰り返された依頼に、リズもいつもの自分を取り戻した。
「承知しました。ですが、殿下、あの香りを好んで下さるのは、作り手としてとてもうれしいのですが…」

 先日の舞踏会で殿下が身に纏っていたことに気が付いたとき、リズは頬に熱を持つほど心が浮き立ったのは事実だ。しかし、殿下の立場を考えると、リズから言わなければいけないことがあるのも事実だ。

「決して一般には受けない香りです。公爵家でも兄以外、全く好まれない香りです。公の場であの香りをお使いになることは止めた方が――」
「リズ」
 初めて愛称で呼ばれ、リズは言葉を止めた。

「あの香は私の命綱なのだよ。貴女の存在を常に感じていられるから」

 殿下の言葉はいつもの困った内容なのに、リズは複雑な思いを感じることがなかった。
 自分を見つめるサファイアの瞳に、ほんの一瞬、明らかな陰りが見えた気がしたのだ。
 消えてしまった陰りを探すように窺うと、そんなリズを見透かしたように、殿下は柔らかな笑顔を返し、リズを見送ることを告げた。ドアまで付き添ってくれた殿下に挨拶をしようと見上げると、殿下はリズの手を取った。

「私は、貴女と別れるこの瞬間、いつも時を恨んでしまう。この手を放したくない」

 自分に向けられた眼差しと声に宿る熱に、リズが息を呑むと、殿下の眼差しは悪戯めいたものへと変わった。

「だから、もうしばらく送らせてほしい」

 馬車までの道すがら、すれ違う人々の視線を感じていたが、リズは恥ずかしさを覚えることはなかった。殿下に添えている自分の手の熱さを、殿下に気づかれてしまうのではないかと、それだけが頭を占めていた。
 
 早かったのか遅かったのか分からない時間が過ぎ、馬車の前にたどり着いた。
 今度こそリズが挨拶を告げると、サファイアの瞳に諦めと寂しさが過った。チクリと胸が痛み、リズはもう一つ言葉を付け加えていた。
 
「殿下。次は香を必ずお持ちします」

 瞬間、目を見開いた後、殿下は曇りない笑顔を浮かべた。その晴れやかな笑顔は、リズの胸まで照らした。

 やはり殿下にはこの笑顔が似合うわ

 リズは笑顔を返し、馬車に乗り込んだ。
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