殿下、毒殺はお断りいたします

石里 唯

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第2章

女神の問い

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ようやく待ちわびた瞬間が来た。
 軽いノックと共に、エドワードのただ一人の女神が部屋を訪れたのだ。こちらに向けられた紫水晶の瞳は、今日も澄んだ輝きを見せている。
エドワードはこの世のすべてに感謝を捧げながら、愛しい婚約者を出迎えた。

予定では、母の女官が付き添うはずだったが、リズは一人で送り出されたらしい。
 息子のことを信用しているのか、はたまた別の意図があるのか、その点についてエドワードは追及することは放棄した。
8日ぶりの彼女との時間に、それは些末なことだった。

 愛らしいリズの声を聞き、彼女がエドワードの淹れたお茶を楽しむ姿を眺め、彼女のくるくると変わる表情を見つめながら彼女と過ごす時間は、全てが輝く瞬間だった。
 
 彼女の白い頬が薄っすらと染まると、その愛らしさにエドワードの頬まで染まる気がした。いや、確かに熱を持っていた。
 彼女がエドワードの好みを訊ねてくれた瞬間は、光が体を駆け抜けた気がした。夜通しでも、時間が許す限りいつまでも、この瞬間をエドワードの持てるすべての言葉で克明に書き留めたかった。
 彼女と眼差しが交錯したときは、紫水晶に映る自分のように、美しい瞳に閉じ込められたいと願っていた。
 彼女の放つあらゆる言葉は、たとえエドワードに痛みを伴う苦しいものであっても、大切な宝物だった。
 彼女が自分に向けてくれたものだから。エドワードだけに与えてくれたものだから。
 
 こうして、全ての眩い瞬間は、あっという間に過ぎてしまった。いつ時間が過ぎてしまっているのか不思議なほど、あっという間だった。
 
 そして、リズを送り出す時間がやってくる。
 必ず来ると分かっていても、自分の視界から彼女がいなくなる時間は、一瞬でも遅くしたい。エドワードは馬車までリズを送ることにした。
 
 馬車までのリズとの歩みは、美しい紫水晶の瞳をずっと見ることはできないが、添えられた白い小さな手の温もりを感じられ、幸せな時間だった。エドワードの全てが、彼を取り巻く世界の全てが、光に満ちているように思われた。

 けれども――、
 やはりこの瞬間は訪れる。
 とうとう馬車にたどり着いてしまった。既に扉を開けてポールが控えている。リズは馬車へ向かい、彼女の温もりが離れていってしまう。
 次に会える日をまた数えなければいけない。
 恐らくエドワードの思いは、顔に出ていたのだろう。優しい彼女は、馬車に乗り込む前に言葉をくれた。

「殿下。次は香を必ずお持ちします」

 彼女の心遣いが嬉しくて、簡単に胸に明かりが灯った。
 笑顔を返す彼女が乗り込んだ馬車には、アンソニーとヒューが座っていた。
 アンソニーなら、ここまで見送ってしまった自分に小言の一つでも言いそうなものだが、微かに眉間にしわを寄せ、考えに耽っている。
 彼の愛しい妹が視界に入っているだろうに、彼の顔が緩みきらないことがあるとは、想像もできなかった。今まで、このようなことがあっただろうか。思わずエドワードは記憶を探った。
 
『失礼なことを真剣に考えるな』
 
 アンソニーの呆れを含んだ苛立った声が頭に鳴り響く。
 彼に相手の思考を読み取る能力があることは、近衛から報告を受けていたが、相手に思念を届ける力まであることは、近衛の諜報部ですらつかめていなかった。
 
 エドワードが彼のこの能力を初めて知ったのは、先日の舞踏会だった。
 突然、体調を崩したリズを迎えに来たアンソニーは、叔父のヴィクターの思考をエドワードの頭に叩き込み、注意を促したのだ。
 叔父上のあの行動がなければ、今でもアンソニーの能力について、知らないままだったに違いない。
 6年の間、少なくとも週に1度は顔を合わせていたのに、アンソニーは全くこの能力を気取らせなかった。
 女性と見紛うほどの繊細な美貌の持ち主であるこの男は、見た目に反して食えない人間だ。他にも秘密を抱えているだろう。

『奥が深いと言ってくれないかな』

 憮然とした声が再び入り込んできた。
 アンソニーの向かいに腰かけたヒューがくすりと笑いを漏らしている。
 白の守護師の後継者と、誰もが認める彼の魔力は多岐にわたるが、思考を読む能力も持っているのだ。
 そんな二人の思考も能力も知らないリズが席に座り、いよいよ出発の瞬間が来ていた。
 馬車の扉を閉める前、ポールが一瞬、こちらに視線を向けた。目にはエドワードを気遣う気持ちが明らかに現れている。上官からエドワードの状況について報告を受けたのだろう。優秀だとエドワードも認め、だからこそエドワードの命よりも大切な彼女の護衛に就かせたポールだが、この素直さには困ったものだ。
 エドワードは溜息を飲み込み、ポールに扉を閉めることを目で促した。
 
 彼女を乗せた馬車は、ゆっくりと走り去っていった。
 見えなくなるまで、そして、見えなくなってもしばらく、馬車を見送り続けたエドワードは、一つ溜息を付いた後、踵を返した。
 先ほどまで彼の顔にあった輝きは、もうどこにも見られない。
 彼を照らした愛しい女神がいないのだ。彼が輝く理由はない。
 氷の王子に戻った彼は、数歩、足早に歩くと、傍らに彼女がいないのに歩くことに時間をかけるのは、それすらも無駄に思えて、部屋まで転移する。
 
 彼女のいなくなった部屋は、寒々しさを感じるほど、静かで、空虚だった。
 彼女に用意した茶器は、まだそのまま残っていた。
 エドワードは自分の席にもう一度腰かけ、カップに残ったお茶を見つめた。
 
 ――好きにならなかったら、どうしてくれるのです!――
 
 彼女の問いが蘇ってくる。
 
 エドワードは、馬車で笑みをこぼした魔法使いを思い出していた。
 彼女を護る術を6年間学んだ、この国の最強の魔法使い。
 王太子などではない、彼女の幼馴染。
 深い海を思わせる、知を湛えた瞳は、はっきりと彼女への思いを宿していた。
 
 エドワードは目を伏せ、冷め切ったお茶を飲みほした。
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