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深淵の森
第8話
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日の出と共に、一行は歩き出した。
太陽が真上に近づくころ、行列のざわめきから少し離れて歩いていたリリアの隣に、深淵の管理者が並ぶ。
その足取りは森の影のように静かで、声もまた風に溶けるように淡く消えていった。
「私は、死ぬまで森の管理者として生きていくものだと思っていた」
唐突に落とされた言葉に、リリアは顔を上げた。
だが、返事はできない。
喉は焼け付くように痛み、声は出なかった。彼の横顔を、息を潜めて見守るしかない。
「ある日、いきなり役目を解かれた。森を護ることだけが私の生だったのに……気づけば、手の中にはなにも残っていなかった」
声音に悔恨も怒りもない。
ただ淡々と事実を告げるだけ。
「自由に暮らしてよいと言われた。だが、森を離れてどう生きればいいのか、私は知らなかった」
言葉を切った彼は森の奥に視線を投げる。
吹き抜ける冷気が横顔をかすめ、ただ静謐さだけが漂った。
「結局、森の傍で生きるしかなかった。護衛たちに森との付き合い方を教える。生業を失った私にできることは、それだけだった」
リリアの胸がきゅっと縮む。
それは他人事ではなかった。居場所を失った彼の姿に、自分自身の影を見る。
──墓守を継いだはずなのに、その役目から追われた自分。掟を守りながらも、結局はなにも救えなかった自分。
喉の痛みよりも強く、胸の奥に鈍い痛みが広がる。
やがて管理者は歩調を緩め、リリアへと静かに視線を落とした。
瞳はガラス玉のように無機質だったが、その奥にかすかな揺らぎが見えた気がした。
「外の世界を知ろうと旅に出たあなたは、それだけで私よりずっと強い」
リリアは息をのむ。
管理者の放つ言葉のひとつひとつが、不思議と身体の奥に沁み込んでくる。
「声を失っても歩いている。その意志がある限り、あなたは深淵に呑まれはしない」
胸の奥でなにかが震えた。
リリアは喉を震わせ、必死に言葉を紡ごうとしたが、痛みがそれを拒んだ。
代わりに、ただ小さくうなずく。
管理者の表情は変わらない。けれど、その沈黙の奥に、わずかな温もりが宿っている気がした。
やがて木々の影が途切れ、森の匂いが薄れていく。
長く続いた暗闇がほどけるように、遠くに石造りの門が霞んで見えた。
「……もうすぐ街だ」
管理者の低い声に、行列のざわめきがふっと強まる。
誰もが安堵を覚え、重たい足を引きずるようにして進み出した。
すると、門の下にひとりの人影が佇んでいることに気付く。
「……エルドラン殿?」
その姿に、商人たちの間でざわめきが走った。
エルドランは一行が森に入る前に滞在していた古戦場の街にいたはず。
なのになぜ、すでに森を抜けた先の街で一行を待ち構えているのか。
リリアは目を見開いた。
驚きが顔に出ていたのだろう。エルドランはリリアの姿を一瞥すると、わずかに口元をゆるめ、静かに応じた。
「不思議か? 森を抜ける街道は一つではない」
エルドランは視線を森の奥へ向ける。
「荷を運ぶなら平坦な道を行くしかないが、ひとりならば別の最短路がある」
その目には険しい獣道の影が映っているかのようだった。
「確かに危険な道だ。だが、私は森の通り方を知っている。深淵の管理者殿に教わった」
リリアははっとして、隣にいる管理者を見た。
彼は変わらぬ無表情のまま立ち尽くしている。
言葉はなくとも、その立ち姿だけで伝わってくるのは、人のために森の知を惜しみなく分け与える姿勢。
「森の理を外れぬ限り、魔術に長けた私ひとりなら難なく抜けられる」
エルドランの淡々とした説明。その言葉に込められた深淵の管理者へ対する敬意は隠しようもなかった。
無機質に見える男が、実は誰よりも「人の営み」を支えようとしているのだと、リリアは気づいた。
「森の奥で異変を感じた。尋常ならぬ魔力の揺らぎだ。最初は管理者殿へ連絡を取ろうとしたが、怪異に阻まれて果たせなかった。ならばと自ら馬を走らせたところ、管理者殿が森に入ったと聞いた。ゆえに、ここで待っていたのだ」
事務的に言葉を重ねながらも、エルドランの声音には刃のような鋭さが混じっていた。
「……察するに、あの強大な魔力反応は墓守のお嬢さん、あなたで間違いあるまいな」
鋭い視線がリリアを射抜く。
声を失ったリリアは反論すらできず、ただ俯くしかなかった。
そのとき、深淵の管理者が口を開いた。
「森は、時に人を映す」
放たれたその一言は、誰も容易に解釈できない。
言葉を耳にした若い商人たちは顔を見合わせ、護衛たちでさえ沈黙した。
そんな中で、エルドランはわずかに眉をひそめる。
リリアは胸の奥に痛みを覚えながらも、その言葉が自分を突き放すものではないと感じていた。
──怪異や瘴気と戦うとき、その過程で自らがその悪意に染まらぬよう気をつけねばならない。この方は、それをあえて口に出して戒めてくださったのだ。
無機質に見える管理者の声には、かすかにリリアを守ろうとする響きがあった。
「結局はあなたも、そちら側の人間か」
「事実を口にしているだけだ」
エルドランが嘲笑交じりに言う。
無表情のまま、管理者が応じる。
「……そうですね。あなたはそういう方だ」
エルドランはため息交じりに笑みを浮かべ、両手を広げた。
抑えきれぬ喜びと敬意を込めて、帰還した管理者を正面から受け止めたのだった。
太陽が真上に近づくころ、行列のざわめきから少し離れて歩いていたリリアの隣に、深淵の管理者が並ぶ。
その足取りは森の影のように静かで、声もまた風に溶けるように淡く消えていった。
「私は、死ぬまで森の管理者として生きていくものだと思っていた」
唐突に落とされた言葉に、リリアは顔を上げた。
だが、返事はできない。
喉は焼け付くように痛み、声は出なかった。彼の横顔を、息を潜めて見守るしかない。
「ある日、いきなり役目を解かれた。森を護ることだけが私の生だったのに……気づけば、手の中にはなにも残っていなかった」
声音に悔恨も怒りもない。
ただ淡々と事実を告げるだけ。
「自由に暮らしてよいと言われた。だが、森を離れてどう生きればいいのか、私は知らなかった」
言葉を切った彼は森の奥に視線を投げる。
吹き抜ける冷気が横顔をかすめ、ただ静謐さだけが漂った。
「結局、森の傍で生きるしかなかった。護衛たちに森との付き合い方を教える。生業を失った私にできることは、それだけだった」
リリアの胸がきゅっと縮む。
それは他人事ではなかった。居場所を失った彼の姿に、自分自身の影を見る。
──墓守を継いだはずなのに、その役目から追われた自分。掟を守りながらも、結局はなにも救えなかった自分。
喉の痛みよりも強く、胸の奥に鈍い痛みが広がる。
やがて管理者は歩調を緩め、リリアへと静かに視線を落とした。
瞳はガラス玉のように無機質だったが、その奥にかすかな揺らぎが見えた気がした。
「外の世界を知ろうと旅に出たあなたは、それだけで私よりずっと強い」
リリアは息をのむ。
管理者の放つ言葉のひとつひとつが、不思議と身体の奥に沁み込んでくる。
「声を失っても歩いている。その意志がある限り、あなたは深淵に呑まれはしない」
胸の奥でなにかが震えた。
リリアは喉を震わせ、必死に言葉を紡ごうとしたが、痛みがそれを拒んだ。
代わりに、ただ小さくうなずく。
管理者の表情は変わらない。けれど、その沈黙の奥に、わずかな温もりが宿っている気がした。
やがて木々の影が途切れ、森の匂いが薄れていく。
長く続いた暗闇がほどけるように、遠くに石造りの門が霞んで見えた。
「……もうすぐ街だ」
管理者の低い声に、行列のざわめきがふっと強まる。
誰もが安堵を覚え、重たい足を引きずるようにして進み出した。
すると、門の下にひとりの人影が佇んでいることに気付く。
「……エルドラン殿?」
その姿に、商人たちの間でざわめきが走った。
エルドランは一行が森に入る前に滞在していた古戦場の街にいたはず。
なのになぜ、すでに森を抜けた先の街で一行を待ち構えているのか。
リリアは目を見開いた。
驚きが顔に出ていたのだろう。エルドランはリリアの姿を一瞥すると、わずかに口元をゆるめ、静かに応じた。
「不思議か? 森を抜ける街道は一つではない」
エルドランは視線を森の奥へ向ける。
「荷を運ぶなら平坦な道を行くしかないが、ひとりならば別の最短路がある」
その目には険しい獣道の影が映っているかのようだった。
「確かに危険な道だ。だが、私は森の通り方を知っている。深淵の管理者殿に教わった」
リリアははっとして、隣にいる管理者を見た。
彼は変わらぬ無表情のまま立ち尽くしている。
言葉はなくとも、その立ち姿だけで伝わってくるのは、人のために森の知を惜しみなく分け与える姿勢。
「森の理を外れぬ限り、魔術に長けた私ひとりなら難なく抜けられる」
エルドランの淡々とした説明。その言葉に込められた深淵の管理者へ対する敬意は隠しようもなかった。
無機質に見える男が、実は誰よりも「人の営み」を支えようとしているのだと、リリアは気づいた。
「森の奥で異変を感じた。尋常ならぬ魔力の揺らぎだ。最初は管理者殿へ連絡を取ろうとしたが、怪異に阻まれて果たせなかった。ならばと自ら馬を走らせたところ、管理者殿が森に入ったと聞いた。ゆえに、ここで待っていたのだ」
事務的に言葉を重ねながらも、エルドランの声音には刃のような鋭さが混じっていた。
「……察するに、あの強大な魔力反応は墓守のお嬢さん、あなたで間違いあるまいな」
鋭い視線がリリアを射抜く。
声を失ったリリアは反論すらできず、ただ俯くしかなかった。
そのとき、深淵の管理者が口を開いた。
「森は、時に人を映す」
放たれたその一言は、誰も容易に解釈できない。
言葉を耳にした若い商人たちは顔を見合わせ、護衛たちでさえ沈黙した。
そんな中で、エルドランはわずかに眉をひそめる。
リリアは胸の奥に痛みを覚えながらも、その言葉が自分を突き放すものではないと感じていた。
──怪異や瘴気と戦うとき、その過程で自らがその悪意に染まらぬよう気をつけねばならない。この方は、それをあえて口に出して戒めてくださったのだ。
無機質に見える管理者の声には、かすかにリリアを守ろうとする響きがあった。
「結局はあなたも、そちら側の人間か」
「事実を口にしているだけだ」
エルドランが嘲笑交じりに言う。
無表情のまま、管理者が応じる。
「……そうですね。あなたはそういう方だ」
エルドランはため息交じりに笑みを浮かべ、両手を広げた。
抑えきれぬ喜びと敬意を込めて、帰還した管理者を正面から受け止めたのだった。
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