必要ないと言われたので、私は旅にでます。

黒蜜きな粉

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宰相邸

第5話

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 ルシアンは、しばしリリアを見つめていた。
 やがて目を細め、深く息を吐く。

「──君の考えは、よく分かった」

 低く、どこか遠い響きだった。
 その声に、先ほどまでの思索の熱はもうなかった。

「下がっていい」

 その一言に、会話の終わりを悟る。
 けれど、リリアの胸にはまだ言葉が残っていた。

「……待ってください。私は──」

 思わず身を乗り出す。
 だが、ルシアンは首を横に振った。

「情で語るなら、これ以上は意味がない」

 切り捨てるような声音だったが、そこに怒りはなかった。
 ただ、理を乱す感情そのものを拒むような静けさだけがあった。

「私はこれまでの通り、君の拍術を用いてほしいと願っている。墓守として、理を護るために。そして、その理を継ぐ者を生み、育ててほしい。それは、けして変わらない」

 ルシアンの声は、命令でも懇願でもなかった。
 それは、長い年月を経て磨かれた理そのものの響きだった。

 リリアは唇を噛み、何も言えなかった。
 胸の奥で、何かが確かに軋む音を立てていた。

 重厚な扉が背後で閉まる音が、やけに遠く感じられた。
 リリアは深く息を吐き、わずかに肩の力を抜く。
 冷たい石造りの廊下を進むと、先の方に三つの人影が見えた。

 ヴァルガン、カリム、そしてミリエラ。

 思わず足が止まる。
 ミリエラの姿を目にした瞬間、リリアは目を見開いた。

 カリムが苦い顔をして、頭を掻いた。

「……すまない。先に伝えておきたかったんだが……」

 その言葉の途中で、明るい声がそれを遮った。

「まあ、いいじゃない。閣下にはきちんとご挨拶をして、ここにいることもお許しいただいているのだから。問題ないわよね? リリアさん?」

 ミリエラが微笑む。
 その笑みは柔らかいのに、どこか妖しい光を帯びていた。

 リリアは彼女の視線を受け止め、真剣な眼差しで言葉を紡いだ。

「……思い出したんです。ライゼル先輩。宰相家の跡継ぎで、とても目立つ方でしたから。でも、学園でお見かけしていた頃の先輩と、先日お会いしたあの方が同じ人だなんて、すぐには結びつきませんでした」

 その言葉に、ヴァルガンが眉を上げ、カリムは首を傾げた。
 ミリエラだけが、変わらず微笑んでいる。

「……印象がまったく違ったんです。顔つきも、雰囲気も。以前は宰相閣下のように厳格で、近寄りがたい方だったのに……今のライゼル先輩は違いました。とても感情豊かで、人間らしくて……」

 リリアは少しだけ息を吸い、まっすぐにミリエラを見据えた。

「……あの方を、ああ変えたのは、あなたですか?」

 ミリエラの笑みが、ほんの一瞬だけ動いた。
 けれど、すぐに元の柔らかい表情に戻る。

「なぜ、私にそんなことを聞くのかしら?」

「もし、もしも感情を取り戻したら、失われたレイグラント家の拍術が蘇るかもしれない。あなたは、そのように考えたのではありませんか?」

 廊下の空気がわずかに冷える。
 ヴァルガンが息を呑み、カリムが無意識に剣の柄へと手を伸ばしかけた。
 ミリエラの瞳の奥に、淡い光が宿る。

「……ふふ。面白いことを言うのね、リリアさん」

 ミリエラは唇の端をわずかに吊り上げた。

「さすが、賢者の末裔とでも言うべきかしら。理屈の積み上げ方が、まるで宰相閣下そのものね」

 その声音は穏やかだったが、どこか皮肉めいていた。
 しかし次の瞬間、ミリエラの表情がふっと緩み、声の温度がわずかに変わった。
 
「……ねえ、リリアさん」

 やがてミリエラは穏やかに微笑み、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「人間は心を持つ生き物よ。それを無理に抑え込もうなんて、間違っていると思わない?」

 ミリエラの問いに、リリアは答えなかった。
 その言葉が、ルシアンの理とは正反対の響きを持っていたからだ。

「感情は時に人を狂わせる。けれど同時に、感情こそが人を生かすの。怒りも、悲しみも、愛も……全部、拍の源なのよ。心を縛れば、拍は死ぬ。拍が死ねば、理もまた崩れるわ」

 その微笑みは、慈愛に満ちていた。
 ヴァルガンがわずかに顔をしかめ、カリムは無表情でミリエラの言葉を聞いていた。

「理を護るために心を殺すなんて、どんな理屈かしら。私には理解できないわ」

 最後の言葉に、リリアの胸が微かに締めつけられた。
 ミリエラは軽く髪を払うと、いたずらっぽく笑う。

「でも、あなたは違う。あなたは歌える人だから。心の音を知っている人。……だから、興味があるのよ、リリアちゃん」

 そう言って、ミリエラは軽やかに背を向けた。
 香のような甘い残り香だけが、その場に漂った。

 しばらくその背を見つめていたリリアは、やがて小さく息を吐く。
 その音が、広い廊下の中に吸い込まれていった。

「……あいつの言葉、気にするな」

 ヴァルガンの低い声が背後から落ちる。
 振り返ると、彼は腕を組み、どこか険しい目をしていた。

「理か、心かなんて話は、昔から終わらねえ。どっちも人を縛るし、どっちも人を動かす。……結局、選ぶのは自分だ」

 リリアはその言葉に、目を丸くした。
 ヴァルガンは照れくさそうに視線を逸らし、短く付け加える。

「……ま、俺は難しい理屈はわからんけどな」

 不器用な笑いが、張りつめた空気を少しだけ和らげた。
 リリアは小さく微笑み、再び廊下を歩き出した。
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