必要ないと言われたので、私は旅にでます。

黒蜜きな粉

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宰相邸

第4話

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 ルシアンは背もたれに軽く身を預け、静かに息を吐いた。
 まるでここからが本題だと言わんばかりに、声の温度がわずかに下がる。

「君が去ってから、王都霊廟では不具合が出ている」

 リリアは小さく息をのんだ。
 それは、いずれ誰かに問われるだろうと覚悟していた言葉だった。

「表沙汰にはしていない。だが、いずれは露見するだろう。王の配下がいくら調査しようと、結果は芳しくない」

 ルシアンは立ち上がり、執務机の書類を取り上げる。
 淡々と指先で整えながら、落ち着いた声で続けた。

「結界の乱れ、瘴気の流出、魂の不安定化……王都だけではない。地方の封印域でも同じような報告を受けている」

 リリアは唇を引き結んだ。
 ルシアンの言葉に、古戦場や深淵の森で見た光景が蘇る。
 濃く、重く、そして悲しみに満ちた闇。
 放置すれば、世界の理を侵していく。

「……おっしゃるとおりです。建国から何百年と続いた封印を、今すぐに別の術式に置き換えようとするのは無理があります。理は積み重ねの上に成り立つものですから」

 リリアの返答に、ルシアンの瞳がわずかに細められた。

「そのとおりだ。伝統には理由がある。拍術は理であり、歴史であり、秩序そのものだ。だが、それを理解していながら、あの王は理を揺るがせた。君を王都から遠ざけたのだ」

 ルシアンの声には怒気こそなかったが、言葉の一つ一つが冷ややかに研ぎ澄まされていた。

「君には、耐えてもらわねばならない」

 低く、重い声だった。

「争いの果てに築かれたこの国は、怨嗟と呪詛の上に立っている。敗れた者たちの嘆きが大地に沈み、やがて瘴気となって蘇る。拍術はその呪いを封じ、土地を保つための唯一の理だ」

 リリアは黙って聞いていた。
 その語り口は、説得ではなく宣告のように響いた。

「特に王都霊廟に封じられたものは、特別だ。あれが溢れれば、王都は一夜にして滅ぶ。いや、王国全土が干上がるだろう。だから君には、戻ってもらう。墓守として、封印を継いでもらう」

 ルシアンの視線が、鋭くリリアを貫いた。
 拒絶を許さぬ眼差し。
 だがそれだけでは終わらなかった。

「そして、もうひとつ。婚姻の件だ」

 静かな声だったが、その一言で空気が変わった。
 リリアは思わず背筋をこわばらせる。

「君ほどの血筋を絶やすわけにはいかない。グレイモンド家の拍術を継ぐ者がいなければ、この国は百年と持たぬ。君と同じく拍の理を扱える者と結び、次代を残してもらう」

 ルシアンの語調はあくまで穏やかだった。
 だがそこには、感情ではなく、理に従う必然の響きがあった。

 リリアは口を開きかけ、すぐに閉じた。

 理のための婚姻。
 国を守るための役目。
 それが正しいことだと、頭では分かっている。
 そのつもりで生きてきた。
 いつかは決められた相手と結婚する。
 そうして、祖母に教えられたように、リリアも紡いでいく。
 歌を歌い、名もなき命を導くために。

 ──けれど、胸の奥が小さく軋んだ。

「……もし、拒んだら?」

 問いというより、確かめるような声だった。
 ルシアンはわずかに目を伏せ、息を吐く。

「拒むという選択肢は、存在しない」

 その言葉に、リリアは息を呑んだ。
 ルシアンの言葉は、王のものよりも重く感じられた。

 リリアはゆっくりと息を吸い込んだ。
 胸の奥が痛む。けれど、その痛みは恐れではなかった。

「……そうですね。理の中には拒むという選択肢は存在しない」

 静かに、しかし確かに言葉を返す。
 ルシアンがわずかに眉を動かした。

「けれど、それは──生きている人の在り方でしょうか」

 室内の空気がわずかに震えた。
 リリアの声は落ち着いていて、そこに迷いはなかった。

「私は理のために生きてきました。墓を守り、封印を繋ぎ、拍を絶やさぬようにと教えられて。そのすべてがこの国の安寧のためだと信じていました。けれど、封印の音は決して穏やかではなかったのです」

 ルシアンが視線を上げた。
 その瞳の奥には、わずかに興味の色が差す。

「……穏やかではなかった?」

「はい。拍は常に、誰かの苦しみや祈りの上に打たれていました。今だからこそ思うのです。私が信じていた理とは本当に、人を救うものなのでしょうか。私たちはただ、見えない悲鳴を音で押し潰しているだけなのではないかと」

 書類の端を撫でていたルシアンの指先が止まる。

「君は伝統を……理を否定するのか」

「いいえ」

 即座に、リリアは首を振る。
 その動きはあまりに自然で、祈るようでもあった。

「理を否定するつもりはありません。何百年もの間、この国は理によって平和を保ってきたのですから。けれど、誰かの心を犠牲にした上で成り立っているものは、本当に平和と呼べるのでしょうか。私は、理の中に人の心がなければ、それはもう理ではないと思うのです。拍は人の心を律する音だと、そう教わりました。ならば、心を切り捨てた拍に、どんな意味が残るのでしょうか」

 沈黙が訪れた。
 ルシアンはリリアを見据えたまま、何も言わない。
 その表情は凪いでいて、しかしその奥でわずかに、何かが揺れていた。

 リリアは視線を逸らさず、続けた。

「もう、以前の墓守としての私には戻れません。理の外の世界を知ってしまったから。笑う人、泣く人、怒る人――その拍のすべてが、この国を支えていることを知ってしまった。それを知らないふりをして封印を続けることは……私にはできません。……私の歌は、もう誰の心にも届きません」

 長い沈黙。
 ルシアンは目を閉じ、書類を机の上に戻すと、指先で懐中時計の表面を一度だけなぞった。
 秒針の音が、まるで会話の余韻を刻むように響く。

「……君は危うい」

 やがて、低く、かすかな声が落ちた。

「理を知り、情を知り、そのうえで選ぼうとする者は──どちらにも救われぬ」

 その声音には、警告ではなく、どこか遠い哀しみがあった。
 リリアはそれでも、静かに目を上げる。

「それでも、私はもう歌えません」
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