必要ないと言われたので、私は旅にでます。

黒蜜きな粉

文字の大きさ
51 / 76
宰相邸

第6話

しおりを挟む
 宰相邸の夜は、驚くほど静かだった。
 外の庭園から虫の声ひとつ聞こえず、壁の向こうの世界が遠い幻のように感じられる。

 リリアは客間のベッドの端に腰を下ろし、両手を膝の上に重ねていた。
 手足を縛られているわけではない。けれど、外に出ることは許されていなかった。
 屋敷の中では自由に動けるが、どの廊下にも見張りの気配がある。
 まるで籠の中の鳥。静かで、息苦しい。

 ──でも、自覚がなかっただけで、以前の私はこうして生きていたのよね。

 ルシアンとの対話の余韻が、まだ胸の奥に残っていた。

 理のために墓守を続けろと言われた。だが、外の世界を知った今の自分には、もう以前のようには歌えないと答えた。

 リリアはそっと立ち上がり、窓辺へ歩み寄った。
 窓を開けると、黒い夜が一面に広がっていた。
 夜風が薄いカーテンを揺らし、肌に冷たい。
 星のひとつも見えない。月さえも、雲の向こうに隠れている。

 それでも、不思議と悲しくはなかった。
 雲の上にはきっと、星も月もあるのだ。
 見えないからといって、消えたわけではない。

 ──星だって、たまには人に顔を見せたくない夜もあるのかもしれない。

 そんなことを考えて、リリアは小さく笑った。
 人の心も、空のようなものなのだろう。
 晴れる日もあれば、曇る夜もある。

 だから、感情を持つことはきっと間違いじゃない。
 理の中にも、情の音は生きている。
 ミリエラの言葉も、間違いではない。
 けれど、ルシアンの語る理も、国を支えてきたのだから、確かに正しい。
 だから結局、ヴァルガンが言っていた「選ぶのは自分だ」という言葉が真実なのだ。

「……選ぶのは、自分……」

 リリアは小さくつぶやき、静かに目を閉じた。
 そして、祖母から受け継いだ歌を口にする。
 グレイモンド家の者が代々歌い継いできた、魂を鎮める旋律。
 拍の音が胸の奥に響き、ゆっくりと夜に溶けていった。

 以前と同じようには歌えなくとも、ただ声を出すことはできる。

 どれほどの時間が過ぎたのか。
 ふと、強い風が吹き込み、カーテンが激しく舞った。
 思わず歌を止め、目を閉じる。冷たい風が頬を撫で、肌が粟立つ。

 そのとき、背後に気配を感じた。

 振り向くと、扉のそばにカリムが立っていた。
 灯りに照らされた彼の表情は、どこか居心地悪そうだった。

「……風邪をひくぞ」

 カリムは静かに窓を閉めると、手にしていたブランケットをそっとリリアの肩にかけた。
 ぎこちない仕草だったが、その手つきには確かな優しさがあった。

「……すまない。急に歌が止まったから、心配で……勝手に入った」

 リリアははっとして、頬が熱くなるのを感じた。

「……聞こえていましたか?」

 カリムは一瞬だけ目を伏せ、それから小さくうなずいた。
 短い沈黙のあと、彼は低くつぶやく。

「……美しい歌だった」

 その言葉が夜の冷たい空気の中に落ち、波紋のように広がっていった。
 リリアは何も言わずにうつむき、肩のブランケットを握りしめた。

 風の止んだ夜は、静寂に包まれていた。
 ただ、胸の奥で微かに拍の音が響いていた。

  




 翌朝。
 リリアは再び宰相ルシアンに呼び出された。

 廊下の突き当たりで待っていたカリムの顔は、いつになく硬かった。
 無言のまま先導され、執務室の扉の前に立つ。

 扉が開かれると、室内の空気がぴんと張り詰めていた。
 中にはルシアン、ヴァルガン、そしてミリエラの姿がある。
 ルシアンは机の前に立ち、険しい表情をしていた。

 何事かと不安が胸をかすめ、リリアは隣のカリムを見上げる。
 だが、彼は小さく首を振るだけだった。

 ルシアンが低く、落ち着いた声を発した。

「……昨晩、王都霊廟での異変が鎮まった」

 その一言に、リリアは瞬きをした。
 思考が追いつかず、ただ小さく首を傾げる。

「君がいなくなってから、不具合ばかりだった。結界の乱れも瘴気の揺らぎも、たった一晩で静まり返った」

 淡々と告げられる報告。
 リリアは呆然としたまま、言葉を失う。

 その様子に、ヴァルガンが腕を組みながらため息をついた。

「……お前の歌が届いたんだろう」

「えっ……?」

 リリアは思わずヴァルガンを見た。
 けれど、彼の表情は冗談ではない。

「で、でも……いくら王都内とはいえ、ここから霊廟までは距離があります。声が届くはずが──」

 リリアの言葉を、明るい声がやわらかく遮った。

「──いいえ、届いたのよ」

 ミリエラが口を開いていた。
 その瞳は楽しげに輝き、微笑はどこか危うい熱を帯びている。

「昨夜のあなたの歌は、とても心がこもっていた。聞いているだけで、胸の奥が温かくなったもの」

 リリアは言葉を失う。
 しかし、ミリエラの話は止まらなかった。

「きっと、霊廟の地下に眠るあの方の胸にも届いたのでしょうね。だって、あなたの拍は生きていたもの!」

 その言葉に、室内の空気がわずかに揺れた。
 ルシアンの眉がかすかに動く。

 リリアはただ黙って立ち尽くした。
 ミリエラの微笑の奥に、確信にも似た光が宿っていることを感じながら──。
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

婚約破棄された公爵令嬢は冤罪で地下牢へ、前世の記憶を思い出したので、スキル引きこもりを使って王子たちに復讐します!

山田 バルス
ファンタジー
王宮大広間は春の祝宴で黄金色に輝き、各地の貴族たちの笑い声と音楽で満ちていた。しかしその中心で、空気を切り裂くように響いたのは、第1王子アルベルトの声だった。 「ローゼ・フォン・エルンスト! おまえとの婚約は、今日をもって破棄する!」 周囲の視線が一斉にローゼに注がれ、彼女は凍りついた。「……は?」唇からもれる言葉は震え、理解できないまま広間のざわめきが広がっていく。幼い頃から王子の隣で育ち、未来の王妃として教育を受けてきたローゼ――その誇り高き公爵令嬢が、今まさに公開の場で突き放されたのだ。 アルベルトは勝ち誇る笑みを浮かべ、隣に立つ淡いピンク髪の少女ミーアを差し置き、「おれはこの天使を選ぶ」と宣言した。ミーアは目を潤ませ、か細い声で応じる。取り巻きの貴族たちも次々にローゼの罪を指摘し、アーサーやマッスルといった証人が証言を加えることで、非難の声は広間を震わせた。 ローゼは必死に抗う。「わたしは何もしていない……」だが、王子の視線と群衆の圧力の前に言葉は届かない。アルベルトは公然と彼女を罪人扱いし、地下牢への収監を命じる。近衛兵に両腕を拘束され、引きずられるローゼ。広間には王子を讃える喝采と、哀れむ視線だけが残った。 その孤立無援の絶望の中で、ローゼの胸にかすかな光がともる。それは前世の記憶――ブラック企業で心身をすり減らし、引きこもりとなった過去の記憶だった。地下牢という絶望的な空間が、彼女の心に小さな希望を芽生えさせる。 そして――スキル《引きこもり》が発動する兆しを見せた。絶望の牢獄は、ローゼにとって新たな力を得る場となる。《マイルーム》が呼び出され、誰にも侵入されない自分だけの聖域が生まれる。泣き崩れる心に、未来への決意が灯る。ここから、ローゼの再起と逆転の物語が始まるのだった。

【完結】追放された子爵令嬢は実力で這い上がる〜家に帰ってこい?いえ、そんなのお断りです〜

Nekoyama
ファンタジー
魔法が優れた強い者が家督を継ぐ。そんな実力主義の子爵家の養女に入って4年、マリーナは魔法もマナーも勉学も頑張り、貴族令嬢にふさわしい教養を身に付けた。来年に魔法学園への入学をひかえ、期待に胸を膨らませていた矢先、家を追放されてしまう。放り出されたマリーナは怒りを胸に立ち上がり、幸せを掴んでいく。

契約結婚のはずが、気づけば王族すら跪いていました

言諮 アイ
ファンタジー
――名ばかりの妻のはずだった。 貧乏貴族の娘であるリリアは、家の借金を返すため、冷酷と名高い辺境伯アレクシスと契約結婚を結ぶことに。 「ただの形式だけの結婚だ。お互い干渉せず、適当にやってくれ」 それが彼の第一声だった。愛の欠片もない契約。そう、リリアはただの「飾り」のはずだった。 だが、彼女には誰もが知らぬ “ある力” があった。 それは、神代より伝わる失われた魔法【王威の審判】。 それは“本来、王にのみ宿る力”であり、王族すら彼女の前に跪く絶対的な力――。 気づけばリリアは貴族社会を塗り替え、辺境伯すら翻弄し、王すら頭を垂れる存在へ。 「これは……一体どういうことだ?」 「さあ? ただの契約結婚のはずでしたけど?」 いつしか契約は意味を失い、冷酷な辺境伯は彼女を「真の妻」として求め始める。 ――これは、一人の少女が世界を変え、気づけばすべてを手に入れていた物語。

貴族令嬢、転生十秒で家出します。目指せ、おひとり様スローライフ

ファンタジー
第18回ファンタジー小説大賞にて奨励賞を頂きました。ありがとうございます! 貴族令嬢に転生したリルは、前世の記憶に混乱しつつも今世で恵まれていない環境なことに気が付き、突発で家出してしまう。 前世の社畜生活で疲れていたため、山奥で魔法の才能を生かしスローライフを目指すことにした。しかししょっぱなから魔物に襲われ、元王宮魔法士と出会ったり、はては皇子までやってきてと、なんだかスローライフとは違う毎日で……?

追放令嬢、辺境王国で無双して王宮を揺るがす

yukataka
ファンタジー
王国随一の名門ハーランド公爵家の令嬢エリシアは、第一王子の婚約者でありながら、王宮の陰謀により突然追放される。濡れ衣を着せられ、全てを奪われた彼女は極寒の辺境国家ノルディアへと流される。しかしエリシアには秘密があった――前世の記憶と現代日本の経営知識を持つ転生者だったのだ。荒廃した辺境で、彼女は持ち前の戦略眼と人心掌握術で奇跡の復興を成し遂げる。やがて彼女の手腕は王国全土を震撼させ、自らを追放した者たちに復讐の刃を向ける。だが辺境王ルシアンとの運命的な出会いが、彼女の心に新たな感情を芽生えさせていく。これは、理不尽に奪われた女性が、知略と情熱で世界を変える物語――。

プリン食べたい!婚約者が王女殿下に夢中でまったく相手にされない伯爵令嬢ベアトリス!前世を思いだした。え?乙女ゲームの世界、わたしは悪役令嬢!

山田 バルス
恋愛
 王都の中央にそびえる黄金の魔塔――その頂には、選ばれし者のみが入ることを許された「王都学院」が存在する。魔法と剣の才を持つ貴族の子弟たちが集い、王国の未来を担う人材が育つこの学院に、一人の少女が通っていた。  名はベアトリス=ローデリア。金糸を編んだような髪と、透き通るような青い瞳を持つ、美しき伯爵令嬢。気品と誇りを備えた彼女は、その立ち居振る舞いひとつで周囲の目を奪う、まさに「王都の金の薔薇」と謳われる存在であった。 だが、彼女には胸に秘めた切ない想いがあった。 ――婚約者、シャルル=フォンティーヌ。  同じ伯爵家の息子であり、王都学院でも才気あふれる青年として知られる彼は、ベアトリスの幼馴染であり、未来を誓い合った相手でもある。だが、学院に入ってからというもの、シャルルは王女殿下と共に生徒会での活動に没頭するようになり、ベアトリスの前に姿を見せることすら稀になっていった。  そんなある日、ベアトリスは前世を思い出した。この世界はかつて病院に入院していた時の乙女ゲームの世界だと。  そして、自分は悪役令嬢だと。ゲームのシナリオをぶち壊すために、ベアトリスは立ち上がった。  レベルを上げに励み、頂点を極めた。これでゲームシナリオはぶち壊せる。  そう思ったベアトリスに真の目的が見つかった。前世では病院食ばかりだった。好きなものを食べられずに死んでしまった。だから、この世界では美味しいものを食べたい。ベアトリスの食への欲求を満たす旅が始まろうとしていた。

毒を盛られて生死を彷徨い前世の記憶を取り戻しました。小説の悪役令嬢などやってられません。

克全
ファンタジー
公爵令嬢エマは、アバコーン王国の王太子チャーリーの婚約者だった。だがステュワート教団の孤児院で性技を仕込まれたイザベラに籠絡されていた。王太子達に無実の罪をなすりつけられエマは、修道院に送られた。王太子達は執拗で、本来なら侯爵一族とは認められない妾腹の叔父を操り、父親と母嫌を殺させ公爵家を乗っ取ってしまった。母の父親であるブラウン侯爵が最後まで護ろうとしてくれるも、王国とステュワート教団が協力し、イザベラが直接新種の空気感染する毒薬まで使った事で、毒殺されそうになった。だがこれをきっかけに、異世界で暴漢に腹を刺された女性、美咲の魂が憑依同居する事になった。その女性の話しでは、自分の住んでいる世界の話が、異世界では小説になって多くの人が知っているという。エマと美咲は協力して王国と教団に復讐する事にした。

結婚しても別居して私は楽しくくらしたいので、どうぞ好きな女性を作ってください

シンさん
ファンタジー
サナス伯爵の娘、ニーナは隣国のアルデーテ王国の王太子との婚約が決まる。 国に行ったはいいけど、王都から程遠い別邸に放置され、1度も会いに来る事はない。 溺愛する女性がいるとの噂も! それって最高!好きでもない男の子供をつくらなくていいかもしれないし。 それに私は、最初から別居して楽しく暮らしたかったんだから! そんな別居願望たっぷりの伯爵令嬢と王子の恋愛ストーリー 最後まで書きあがっていますので、随時更新します。 表紙はエブリスタでBeeさんに描いて頂きました!綺麗なイラストが沢山ございます。リンク貼らせていただきました。

処理中です...