必要ないと言われたので、私は旅にでます。

黒蜜きな粉

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宰相邸

第8話

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 リリアは鏡の前に立ち、身支度を終えた自分の姿を見つめていた。
 宰相邸で与えられた豪奢なドレスではなく、動きやすい深緑の旅装。
 肩の布地を軽く整えながら、鏡越しに小さく笑う。

「立派な服を着ていても、旅装をしていても……結局は、私は私か」

 そんな独り言を呟いたとき、部屋の扉が軽く叩かれた。
 リリアが「どうぞ」と返すと、カリムが控えめに顔をのぞかせる。

「準備はできたか?」

 真面目な声音に、リリアは思わず口元を押さえた。
 不思議そうな顔をするカリムに、リリアは少し笑いを含ませて言う。

「なんだか、カリムさんとはいつもこんなやり取りばかりしている気がします」

「……そうかもしれないが。何がそんなにおかしいんだ?」

 困惑して眉をひそめるカリムの言葉を遮るように、民家の玄関を叩く音が響いた。

 ──こん、こんこんこん、こん。

 一定の拍を刻むような、不思議なリズム。

 カリムの表情が一瞬にして強張る。
 低く短く息を吐き、リリアに小声で指示を飛ばした。

「窓際へ。いつでも外へ飛び出せるようにしておけ」

 緊迫した声に、リリアは息を呑む。
 カリムは扉の外のジャドと視線を交わす。ジャドは小さくうなずいて玄関へ向かった。

「どちら様です?」

「……俺だ、ヴァルガンだ」

 ジャドが扉を叩いた人物に向かって声をかけると、外から返ってきたのはヴァルガンの声だった。

 ジャドは一瞬カリムへ視線を送る。
 カリムは考え込むように目を伏せたが、リリアはすぐに言った。

「……開けてください、カリムさん」

 短い沈黙。
 カリムは不機嫌そうに目を細める。

「いいのか?」

 リリアは立ち尽くしたままのカリムを押しのけて、まっすぐ玄関に向かった。
 そして扉を開け放ち、立っていたヴァルガンに言い放つ。

「宰相閣下のお屋敷には、戻りません」

 ヴァルガンは一瞬目を見開いた。
 だが何も言わず、小さな木箱をリリアに向かって差し出した。
 その上には古びた鍵がひとつ置かれている。

「……これ、お父様の?」

 リリアの声が震える。ヴァルガンは静かにうなずいた。

「お前が霊廟の鍵の返却を求められたとき、一つだけ形見だからと拒否しただろう。あれが何の鍵か確認するために、ミリエラが鈴と一緒に回収していた」

 リリアは慎重に箱を受け取る。
 その重みと冷たさが、指先を通して心に沁みた。

「申し訳ないが、鈴の在り処は分からなかった。だが、鍵だけは取り戻せた」

「もう中身を確認されたのならご存じでしょうが、これはお父様が使っていた儀式用の黒曜石の短剣です」

 リリアの言葉に、ヴァルガンはわずかに視線を落とした。

「その短剣、閣下がお前の親父さんに贈ったものなんだそうだ」

「えっ……?」

 リリアは息を呑み、言葉を失った。
 ヴァルガンは短く息を吐き、それから言葉を継いだ。

「詳しいことは俺も知らん。閣下は何も言わなかった。だが……もし機会があれば、直接聞いてみるといい。どうやら、それなりに親しかったようだからな」

 そう言い残して、ヴァルガンは背を向けた。

「閣下がミリエラと陛下を城に足止めできる時間は長くない。霊廟を確かめたいなら、早く行け」

 短く言い放つと、ヴァルガンは夜の闇に消えた。

 リリアは手の中の箱を開く。
 そこには、父が愛用していた短剣が記憶のままに納められていた。
 黒曜石の刃が淡い月光を反射し、静かに光る。

 そのとき、隣からカリムが何かを差し出した。
 短剣を腰に納めるための革のホルダーだった。

「いくらなんでも準備が良すぎませんか?」

 怪訝そうに尋ねると、カリムは飄々と答える。

「それでも霊廟に行くんだろう?」

 リリアは少し笑い、息を吐いた。

「はい、行きます。でも……自分で選択したつもりなのに、全部、誰かの手のひらの上って気がして。なんだか……胸がざわざわするんです」

 リリアの言葉に、ジャドは少し目を細めた。
 やがて、頬に指を当てながら小さく笑う。

「……人間なんてさ、結局は誰かの思惑の中で動いてるものだよ」

 軽い口調だったが、その声にはどこか落ち着いた重みがあった。

「自分の意思で選んでるつもりでも、どこかで誰かの影響を受けてる。他人の言葉とか、想いとか、ちょっとした優しさとかね。そういうものが混ざった時点で、もう完全な自分だけの選択じゃなくなる」

 リリアは目を瞬かせた。
 けれど、ジャドは笑みを絶やさず、言葉を続ける。

「でもさ、それでいいんだ。誰かの意思が少し混ざって、それでも自分の足で進むっていうのが、人として生きるってことなんじゃないか?」

 ジャドはそう言って、無理やり口角を上げてみせた。

「いいじゃない。それでもさ、笑っていよう?」

 その姿に、リリアは小さく息を漏らした。

「そうですね。笑っていなきゃ、やっていられないかも」

 カリムが短くうなずく。

「そういうことだ。……さあ、行くぞ」

 差し出されたカリムの手に、リリアはそっと自分の手を重ねた。
 腰に父の短剣を携え、彼の手を取った瞬間、夜の街を抜けて霊廟へと駆け出した。
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