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第2章「再会の席」
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十一月の第二土曜日は、晴れていた。
朝から部屋の掃除をして、洗濯物を干して、冷蔵庫の中を整理した。同窓会は夕方六時から。まだ時間はたっぷりある。でも、落ち着かなかった。
何を着ていけばいいのだろう。
クローゼットを開けて、服を眺める。普段着ているのは、仕事用のジャケットとパンツ。休日は、ジーンズにセーター。それくらいしかない。
ワンピースが一着だけある。三年前、娘の中学の入学式で着たもの。紺色で、シンプルなデザイン。これでいいだろうか。
鏡の前で合わせてみる。悪くない。でも、地味すぎるかもしれない。
真紀に電話した。
「もしもし」
「真紀、何着ていく?」
「えー、普通にワンピースかな。夕ちゃんも?」
「うん、一応持ってるんだけど」
「それでいいじゃん。別に気合い入れすぎなくていいよ。みんなアラフォーなんだし」
「そうだけど」
「夕ちゃん、緊張してる?」
「……ちょっと」
真紀は笑った。
「かわいい。大丈夫だよ、楽しもう。じゃあね、会場で」
電話を切って、ため息をついた。
シャワーを浴びて、髪を乾かす。メイクをする。普段より少し丁寧に。ファンデーションを塗って、アイシャドウをつけて、口紅を塗る。鏡を見る。悪くない。でも、やはり疲れが顔に出ている。
ワンピースを着て、ストッキングを履く。靴は黒いパンプス。アクセサリーは、シンプルなパールのネックレスだけ。
バッグに財布と携帯を入れて、玄関を出た。時計を見ると、五時半。少し早いけれど、もう家にいても落ち着かない。
駅までバスに乗る。車窓から見える街並みは、いつもと同じなのに、今日は少し違って見える。
駅前のホテルに着いたのは、五時四十五分だった。ロビーに入ると、高い天井と、シャンデリア。平日の夜とは違う、華やかな雰囲気。
エレベーターで三階へ上がる。レストランの前に、すでに何人か集まっていた。
「夕ちゃん!」
真紀が手を振っている。隣には、見覚えのある顔。
「久しぶり!」
「久しぶり」
次々と声をかけられる。名前を思い出せない人もいる。でも、笑顔で応える。
「篠原さん、変わらないね」
「そんなことないよ。みんなもきれいだよ」
社交辞令を交わしながら、周囲を見渡す。
久我陸は、まだ来ていなかった。
「じゃあ、そろそろ中に入ろうか」
真紀が声をかけて、扉が開く。レストランの中は、円卓が並んでいた。参加者は三十人ほど。高校の卒業生は二百人以上いたはずだから、来ているのは一部だ。
席は自由。私は真紀の隣に座った。
「飲み物、何にする?」
「ウーロン茶で」
「え、飲まないの?」
「車じゃないけど、明日も仕事だから」
「真面目だなあ」
真紀は笑って、ビールを注文した。
次々と人が入ってくる。挨拶が飛び交う。笑い声が響く。
そして、久我陸が入ってきた。
息が、少しだけ止まった。
彼は、高校時代とそれほど変わっていなかった。背は同じくらい。髪は短く整えられていて、少し白いものが混じっている。スーツではなく、ジャケットにチノパン。シンプルで、清潔感がある。
彼は入口で立ち止まり、周囲を見渡した。そして、誰かに声をかけられて、笑顔で応えている。
私は視線を外して、テーブルの上のグラスを見つめた。
「久我くん、来たね」
真紀が小声で言った。
「うん」
「緊張してる?」
「してない」
「嘘ばっかり」
真紀は笑って、ビールを飲んだ。
乾杯の音頭が取られた。グラスを掲げて、「乾杯」と声を合わせる。
料理が運ばれてくる。前菜、サラダ、スープ。
周りの会話に耳を傾けながら、フォークを動かす。
「篠原さん、今、何してるの?」
隣の席の男性が話しかけてきた。名前は……確か、田中。
「企画会社で働いてるよ」
「へえ、すごいね。結婚は?」
「離婚したよ」
「あ、ごめん」
「大丈夫。もう三年前だから」
「子どもは?」
「娘が一人。元夫の方にいる」
「そうなんだ。大変だったね」
「まあね」
会話は続かなかった。田中は別の人に話しかけ始めた。
真紀が私の肩を叩いた。
「久我くん、こっち来るよ」
顔を上げると、陸がこちらへ歩いてきていた。
「篠原さん、久しぶり」
声が、すぐ近くで聞こえた。
「久我くん。久しぶり」
私は笑顔を作った。
「座ってもいい?」
「どうぞ」
陸は私の向かいの席に座った。真紀は、わざとらしくない程度に席を外して、別のテーブルへ移った。
「何年ぶりだろう」
陸が言った。
「二十六年、かな」
「そんなに経つんだね」
彼は笑った。高校時代と同じ、穏やかな笑顔。
「篠原さん、変わらないね」
「そんなことないよ。もうおばさんだよ」
「そんなことない」
陸は首を振った。
「今、何してるの?」
「企画会社で働いてる。久我くんは?」
「医療機器メーカーの営業。地方にいたんだけど、最近東京に戻ってきたんだ」
「そうなんだ」
「だから、今回の同窓会、ちょうどいいタイミングだった」
会話が、少しだけ途切れた。
周りの笑い声が、遠く聞こえる。
「結婚は、してるの?」
陸が聞いた。
「離婚したよ。三年前」
「そうなんだ。大変だったね」
「まあね。久我くんは?」
「してない」
「そうなんだ」
また、沈黙。
でも、この沈黙は、嫌じゃなかった。
高校時代も、こうだった。陸と一緒にいると、無理に話さなくてもいい気がした。
「子どもは?」
陸が聞いた。
「娘が一人。高校一年生」
「へえ、もうそんなに大きいんだ」
「うん。元夫の方にいるけど」
「会ってるの?」
「月に一度、くらい」
「そっか」
陸は静かに頷いた。
料理が次々と運ばれてくる。メイン料理は、魚か肉か選べた。私は魚を選んだ。陸も同じだった。
「久我くん、魚好きだったよね」
「覚えてるの?」
「うん。文化祭の打ち上げのとき、魚料理ばっかり食べてた」
陸は驚いたように笑った。
「よく覚えてるね」
「なんとなく」
本当は、全部覚えている。彼の好きなもの、嫌いなもの。些細な仕草。全部。
「篠原さんは、カレーが好きだったよね」
今度は、私が驚いた。
「覚えてるの?」
「うん。給食のとき、いつも嬉しそうに食べてた」
私は笑った。
「恥ずかしい」
「かわいかったよ」
その言葉に、胸がきゅっとした。
「ありがとう」
料理を食べながら、会話が続く。
仕事のこと。住んでいる場所のこと。趣味のこと。
陸は、相変わらず読書が好きだと言った。ミステリーが好きで、最近は海外の作家も読んでいるらしい。
私は、最近本を読んでいないと答えた。時間がなくて。
「忙しいんだね」
「うん。仕事と、母の通院の付き添いと」
「お母さん、具合悪いの?」
「高血圧で、定期的に病院に行ってる。大したことないんだけど」
「そっか。大変だね」
陸の声は、優しかった。
周りでは、誰かがカラオケを始めていた。懐かしい曲が流れる。
「篠原さん、歌わないの?」
「苦手だから」
「俺も」
陸は笑った。
「じゃあ、ここで二人で話してよう」
「うん」
デザートが運ばれてきた。ティラミス。コーヒーも一緒に。
「甘いもの、好きだった?」
陸が聞いた。
「好きだよ。久我くんは?」
「まあまあ」
スプーンを持って、ティラミスを口に運ぶ。甘くて、ほろ苦い。
「美味しい」
「うん」
陸も食べている。
周りの騒ぎは続いているけれど、私たちのテーブルは静かだった。
「篠原さん」
陸が言った。
「なに?」
「今日、来てくれて嬉しかった」
心臓が、大きく跳ねた。
「私も」
そう答えるのが精一杯だった。
「また、会えるかな」
陸が言った。
「……うん」
「連絡先、交換してもいい?」
「いいよ」
スマホを取り出して、LINEのQRコードを表示する。陸が読み取る。
「ありがとう」
「こちらこそ」
時計を見ると、もう九時だった。二次会の案内が出ている。
「篠原さん、行く?」
「どうしようかな」
「俺は、もう帰ろうと思ってる。明日も仕事だから」
「私も」
立ち上がって、真紀に声をかけた。
「先に帰るね」
「え、もう? 二次会は?」
「明日仕事だから」
「そっか。じゃあ、気をつけてね」
真紀は意味ありげに笑った。
陸と一緒に、レストランを出る。エレベーターで一階へ降りる。
ロビーに出ると、外はもう暗くなっていた。
「どっち方面?」
陸が聞いた。
「駅」
「俺も。一緒に行こう」
並んで歩く。
ホテルを出ると、冷たい風が吹いていた。
「寒いね」
「うん」
コートの前を合わせる。
駅までは歩いて五分ほど。信号待ちで立ち止まる。
「今日は、本当に楽しかった」
陸が言った。
「私も」
「また、連絡してもいい?」
「もちろん」
信号が青に変わる。横断歩道を渡る。
駅の改札前で、立ち止まった。
「じゃあ、気をつけて」
陸が言った。
「久我くんも」
「また連絡するね」
「待ってる」
陸は笑って、改札へ向かった。
私もICカードをタッチして、ホームへ降りる。
電車を待ちながら、スマホを開いた。
陸からメッセージが届いていた。
「今日はありがとう。また会おうね」
私は返信した。
「こちらこそ。楽しかったよ」
既読がついて、スタンプが送られてきた。笑顔のマーク。
電車が入ってきた。ドアが開いて、乗り込む。
座席に座って、窓の外を見る。
胸が、まだ高鳴っている。
久我陸。
彼に、また会える。
翌日、日曜日。
朝、スマホを見ると、陸からメッセージが来ていた。
「おはよう。昨日はゆっくり眠れた?」
「おはよう。うん、よく眠れたよ。久我くんは?」
すぐに返信が来た。
「俺も。今日は何してるの?」
「特に予定ないかな。掃除とか洗濯とか」
「そっか。俺も同じ。平日忙しいから、休日は家のことで終わる」
「わかる」
会話が続く。
何気ないやり取り。でも、嬉しかった。
昼過ぎ、また陸からメッセージが来た。
「今度、ご飯でも行かない?」
心臓が跳ねた。
「いいよ」
「いつが都合いい?」
手帳アプリを開いて、スケジュールを確認する。
「来週の金曜日は?」
「大丈夫。じゃあ、金曜日の夜で」
「どこがいい?」
「駅前でいいよ。仕事終わりに会おう」
「了解。楽しみにしてる」
私は笑顔になっていた。
月曜日から、仕事が忙しくなった。
新規案件のプレゼンが続き、資料作成に追われる。残業が続いて、帰宅はいつも十時過ぎ。
それでも、陸とのやり取りは続いていた。
朝の「おはよう」と、夜の「おやすみ」。
たまに、仕事の愚痴を送ると、陸は「大変だね、無理しないで」と返してくれた。
金曜日が、待ち遠しかった。
金曜日、仕事を定時で切り上げた。
珍しく六時に会社を出る。同僚に「デート?」と冷やかされて、曖昧に笑った。
駅前のビストロで待ち合わせ。七時。
少し早めに着いて、店の前で待つ。
六時五十五分、陸が歩いてきた。
「お待たせ」
「ううん、私も今来たところ」
店に入る。金曜日の夜で、店内は賑わっていた。
予約していた席に案内される。窓際の二人席。
「何飲む?」
陸が聞いた。
「白ワインにしようかな」
「じゃあ、俺も」
ウェイターにオーダーして、メニューを開く。
「何食べたい?」
「パスタがいいかな」
「じゃあ、俺は魚料理にする。シェアしてもいい?」
「いいよ」
料理を注文して、ワインが運ばれてくる。
「乾杯」
グラスを合わせる。
「今週、忙しかった?」
陸が聞いた。
「うん。プレゼンが続いて」
「お疲れ様」
「久我くんは?」
「俺も忙しかった。でも、今日会えると思ったら頑張れた」
その言葉に、また胸が温かくなった。
「ありがとう」
料理が運ばれてくる。私のカルボナーラと、陸の白身魚のポワレ。
「美味しそう」
フォークとナイフを持って、食べ始める。
「美味しい」
「よかった」
陸も自分の料理を食べている。
「ちょっと食べてみる?」
陸が聞いた。
「いいの?」
「どうぞ」
小皿に取り分けてくれた魚を、ひと口食べる。
「美味しい。バターとハーブの香りがいい」
「篠原さんのも食べていい?」
「どうぞ」
陸がカルボナーラを食べる。
「濃厚だね」
「うん。でも美味しい」
会話が弾む。
高校時代の話。あの頃好きだった音楽。文化祭のこと。
「文化祭の準備、楽しかったね」
陸が言った。
「うん」
「篠原さん、いつも一生懸命だった」
「そうかな」
「うん。俺、尊敬してたんだ」
「え?」
「篠原さん、何でもきちんとこなすから。俺、適当だったし」
「そんなことない。久我くんも真面目だったよ」
「そう言ってもらえると嬉しい」
陸は笑った。
料理を食べ終わって、デザートを注文した。
「あのね」
陸が言った。
「なに?」
「高校のとき、篠原さんのこと、好きだったんだ」
時間が止まった。
「……え?」
「ごめん、急に」
陸は困ったように笑った。
「でも、言いたかったから」
私は何も言えなかった。
「返事はいらないよ。ただ、伝えたかっただけ」
「私も」
声が震えた。
「私も、久我くんのこと、好きだった」
陸の目が、大きく開いた。
「本当?」
「うん」
「そうだったんだ」
陸は嬉しそうに笑った。
「なんで、あのとき言えなかったんだろうね」
「わからない。怖かったのかな」
「俺も」
デザートが運ばれてきた。ガトーショコラ。
でも、もう味なんてわからなかった。
頭の中が、真っ白だった。
「篠原さん」
陸が言った。
「もう一度、やり直せないかな」
心臓が、大きく跳ねた。
「やり直すって」
「俺たちの、関係」
私は陸を見つめた。
彼の目は、真剣だった。
「考えさせて」
「うん。急がないから」
時計を見ると、もう九時半だった。
「そろそろ、帰ろうか」
陸が言った。
「うん」
会計を済ませて、店を出る。
外は冷え込んでいた。息が白い。
「送るよ」
「大丈夫」
「でも」
「本当に大丈夫。すぐそこだから」
駅の改札前で立ち止まった。
「今日は、ありがとう」
陸が言った。
「こちらこそ」
「また、連絡するね」
「うん」
陸は少し迷ってから、私の手を握った。
温かかった。
「おやすみ」
「おやすみ」
手を離して、改札へ向かう。
振り返ると、陸がまだこちらを見ていた。
手を振ると、陸も振り返してくれた。
電車に乗って、家に帰る。
部屋に入って、コートを脱いで、ソファに座り込んだ。
スマホを見ると、陸からメッセージが来ていた。
「今日は楽しかった。ありがとう」
「こちらこそ」
「おやすみ」
「おやすみ」
私はスマホを持ったまま、天井を見上げた。
久我陸。
彼は、私のことが好きだったと言った。
そして、もう一度やり直したいと。
どうすればいいのだろう。
私は、もう四十四歳。離婚して、娘もいて、仕事に追われている。
恋愛なんて、もう無理だと思っていた。
でも。
陸と一緒にいると、高校生の頃に戻ったような気がする。
あの頃の、何も考えずに人を好きになれた自分。
もう一度、あの気持ちを取り戻せるのだろうか。
私はスマホを充電器につないで、ベッドに入った。
目を閉じる。
でも、眠れなかった。
陸の顔が、まぶたの裏に浮かぶ。
彼の声が、耳に残っている。
「もう一度、やり直せないかな」
私は、どう答えればいいのだろう。
朝から部屋の掃除をして、洗濯物を干して、冷蔵庫の中を整理した。同窓会は夕方六時から。まだ時間はたっぷりある。でも、落ち着かなかった。
何を着ていけばいいのだろう。
クローゼットを開けて、服を眺める。普段着ているのは、仕事用のジャケットとパンツ。休日は、ジーンズにセーター。それくらいしかない。
ワンピースが一着だけある。三年前、娘の中学の入学式で着たもの。紺色で、シンプルなデザイン。これでいいだろうか。
鏡の前で合わせてみる。悪くない。でも、地味すぎるかもしれない。
真紀に電話した。
「もしもし」
「真紀、何着ていく?」
「えー、普通にワンピースかな。夕ちゃんも?」
「うん、一応持ってるんだけど」
「それでいいじゃん。別に気合い入れすぎなくていいよ。みんなアラフォーなんだし」
「そうだけど」
「夕ちゃん、緊張してる?」
「……ちょっと」
真紀は笑った。
「かわいい。大丈夫だよ、楽しもう。じゃあね、会場で」
電話を切って、ため息をついた。
シャワーを浴びて、髪を乾かす。メイクをする。普段より少し丁寧に。ファンデーションを塗って、アイシャドウをつけて、口紅を塗る。鏡を見る。悪くない。でも、やはり疲れが顔に出ている。
ワンピースを着て、ストッキングを履く。靴は黒いパンプス。アクセサリーは、シンプルなパールのネックレスだけ。
バッグに財布と携帯を入れて、玄関を出た。時計を見ると、五時半。少し早いけれど、もう家にいても落ち着かない。
駅までバスに乗る。車窓から見える街並みは、いつもと同じなのに、今日は少し違って見える。
駅前のホテルに着いたのは、五時四十五分だった。ロビーに入ると、高い天井と、シャンデリア。平日の夜とは違う、華やかな雰囲気。
エレベーターで三階へ上がる。レストランの前に、すでに何人か集まっていた。
「夕ちゃん!」
真紀が手を振っている。隣には、見覚えのある顔。
「久しぶり!」
「久しぶり」
次々と声をかけられる。名前を思い出せない人もいる。でも、笑顔で応える。
「篠原さん、変わらないね」
「そんなことないよ。みんなもきれいだよ」
社交辞令を交わしながら、周囲を見渡す。
久我陸は、まだ来ていなかった。
「じゃあ、そろそろ中に入ろうか」
真紀が声をかけて、扉が開く。レストランの中は、円卓が並んでいた。参加者は三十人ほど。高校の卒業生は二百人以上いたはずだから、来ているのは一部だ。
席は自由。私は真紀の隣に座った。
「飲み物、何にする?」
「ウーロン茶で」
「え、飲まないの?」
「車じゃないけど、明日も仕事だから」
「真面目だなあ」
真紀は笑って、ビールを注文した。
次々と人が入ってくる。挨拶が飛び交う。笑い声が響く。
そして、久我陸が入ってきた。
息が、少しだけ止まった。
彼は、高校時代とそれほど変わっていなかった。背は同じくらい。髪は短く整えられていて、少し白いものが混じっている。スーツではなく、ジャケットにチノパン。シンプルで、清潔感がある。
彼は入口で立ち止まり、周囲を見渡した。そして、誰かに声をかけられて、笑顔で応えている。
私は視線を外して、テーブルの上のグラスを見つめた。
「久我くん、来たね」
真紀が小声で言った。
「うん」
「緊張してる?」
「してない」
「嘘ばっかり」
真紀は笑って、ビールを飲んだ。
乾杯の音頭が取られた。グラスを掲げて、「乾杯」と声を合わせる。
料理が運ばれてくる。前菜、サラダ、スープ。
周りの会話に耳を傾けながら、フォークを動かす。
「篠原さん、今、何してるの?」
隣の席の男性が話しかけてきた。名前は……確か、田中。
「企画会社で働いてるよ」
「へえ、すごいね。結婚は?」
「離婚したよ」
「あ、ごめん」
「大丈夫。もう三年前だから」
「子どもは?」
「娘が一人。元夫の方にいる」
「そうなんだ。大変だったね」
「まあね」
会話は続かなかった。田中は別の人に話しかけ始めた。
真紀が私の肩を叩いた。
「久我くん、こっち来るよ」
顔を上げると、陸がこちらへ歩いてきていた。
「篠原さん、久しぶり」
声が、すぐ近くで聞こえた。
「久我くん。久しぶり」
私は笑顔を作った。
「座ってもいい?」
「どうぞ」
陸は私の向かいの席に座った。真紀は、わざとらしくない程度に席を外して、別のテーブルへ移った。
「何年ぶりだろう」
陸が言った。
「二十六年、かな」
「そんなに経つんだね」
彼は笑った。高校時代と同じ、穏やかな笑顔。
「篠原さん、変わらないね」
「そんなことないよ。もうおばさんだよ」
「そんなことない」
陸は首を振った。
「今、何してるの?」
「企画会社で働いてる。久我くんは?」
「医療機器メーカーの営業。地方にいたんだけど、最近東京に戻ってきたんだ」
「そうなんだ」
「だから、今回の同窓会、ちょうどいいタイミングだった」
会話が、少しだけ途切れた。
周りの笑い声が、遠く聞こえる。
「結婚は、してるの?」
陸が聞いた。
「離婚したよ。三年前」
「そうなんだ。大変だったね」
「まあね。久我くんは?」
「してない」
「そうなんだ」
また、沈黙。
でも、この沈黙は、嫌じゃなかった。
高校時代も、こうだった。陸と一緒にいると、無理に話さなくてもいい気がした。
「子どもは?」
陸が聞いた。
「娘が一人。高校一年生」
「へえ、もうそんなに大きいんだ」
「うん。元夫の方にいるけど」
「会ってるの?」
「月に一度、くらい」
「そっか」
陸は静かに頷いた。
料理が次々と運ばれてくる。メイン料理は、魚か肉か選べた。私は魚を選んだ。陸も同じだった。
「久我くん、魚好きだったよね」
「覚えてるの?」
「うん。文化祭の打ち上げのとき、魚料理ばっかり食べてた」
陸は驚いたように笑った。
「よく覚えてるね」
「なんとなく」
本当は、全部覚えている。彼の好きなもの、嫌いなもの。些細な仕草。全部。
「篠原さんは、カレーが好きだったよね」
今度は、私が驚いた。
「覚えてるの?」
「うん。給食のとき、いつも嬉しそうに食べてた」
私は笑った。
「恥ずかしい」
「かわいかったよ」
その言葉に、胸がきゅっとした。
「ありがとう」
料理を食べながら、会話が続く。
仕事のこと。住んでいる場所のこと。趣味のこと。
陸は、相変わらず読書が好きだと言った。ミステリーが好きで、最近は海外の作家も読んでいるらしい。
私は、最近本を読んでいないと答えた。時間がなくて。
「忙しいんだね」
「うん。仕事と、母の通院の付き添いと」
「お母さん、具合悪いの?」
「高血圧で、定期的に病院に行ってる。大したことないんだけど」
「そっか。大変だね」
陸の声は、優しかった。
周りでは、誰かがカラオケを始めていた。懐かしい曲が流れる。
「篠原さん、歌わないの?」
「苦手だから」
「俺も」
陸は笑った。
「じゃあ、ここで二人で話してよう」
「うん」
デザートが運ばれてきた。ティラミス。コーヒーも一緒に。
「甘いもの、好きだった?」
陸が聞いた。
「好きだよ。久我くんは?」
「まあまあ」
スプーンを持って、ティラミスを口に運ぶ。甘くて、ほろ苦い。
「美味しい」
「うん」
陸も食べている。
周りの騒ぎは続いているけれど、私たちのテーブルは静かだった。
「篠原さん」
陸が言った。
「なに?」
「今日、来てくれて嬉しかった」
心臓が、大きく跳ねた。
「私も」
そう答えるのが精一杯だった。
「また、会えるかな」
陸が言った。
「……うん」
「連絡先、交換してもいい?」
「いいよ」
スマホを取り出して、LINEのQRコードを表示する。陸が読み取る。
「ありがとう」
「こちらこそ」
時計を見ると、もう九時だった。二次会の案内が出ている。
「篠原さん、行く?」
「どうしようかな」
「俺は、もう帰ろうと思ってる。明日も仕事だから」
「私も」
立ち上がって、真紀に声をかけた。
「先に帰るね」
「え、もう? 二次会は?」
「明日仕事だから」
「そっか。じゃあ、気をつけてね」
真紀は意味ありげに笑った。
陸と一緒に、レストランを出る。エレベーターで一階へ降りる。
ロビーに出ると、外はもう暗くなっていた。
「どっち方面?」
陸が聞いた。
「駅」
「俺も。一緒に行こう」
並んで歩く。
ホテルを出ると、冷たい風が吹いていた。
「寒いね」
「うん」
コートの前を合わせる。
駅までは歩いて五分ほど。信号待ちで立ち止まる。
「今日は、本当に楽しかった」
陸が言った。
「私も」
「また、連絡してもいい?」
「もちろん」
信号が青に変わる。横断歩道を渡る。
駅の改札前で、立ち止まった。
「じゃあ、気をつけて」
陸が言った。
「久我くんも」
「また連絡するね」
「待ってる」
陸は笑って、改札へ向かった。
私もICカードをタッチして、ホームへ降りる。
電車を待ちながら、スマホを開いた。
陸からメッセージが届いていた。
「今日はありがとう。また会おうね」
私は返信した。
「こちらこそ。楽しかったよ」
既読がついて、スタンプが送られてきた。笑顔のマーク。
電車が入ってきた。ドアが開いて、乗り込む。
座席に座って、窓の外を見る。
胸が、まだ高鳴っている。
久我陸。
彼に、また会える。
翌日、日曜日。
朝、スマホを見ると、陸からメッセージが来ていた。
「おはよう。昨日はゆっくり眠れた?」
「おはよう。うん、よく眠れたよ。久我くんは?」
すぐに返信が来た。
「俺も。今日は何してるの?」
「特に予定ないかな。掃除とか洗濯とか」
「そっか。俺も同じ。平日忙しいから、休日は家のことで終わる」
「わかる」
会話が続く。
何気ないやり取り。でも、嬉しかった。
昼過ぎ、また陸からメッセージが来た。
「今度、ご飯でも行かない?」
心臓が跳ねた。
「いいよ」
「いつが都合いい?」
手帳アプリを開いて、スケジュールを確認する。
「来週の金曜日は?」
「大丈夫。じゃあ、金曜日の夜で」
「どこがいい?」
「駅前でいいよ。仕事終わりに会おう」
「了解。楽しみにしてる」
私は笑顔になっていた。
月曜日から、仕事が忙しくなった。
新規案件のプレゼンが続き、資料作成に追われる。残業が続いて、帰宅はいつも十時過ぎ。
それでも、陸とのやり取りは続いていた。
朝の「おはよう」と、夜の「おやすみ」。
たまに、仕事の愚痴を送ると、陸は「大変だね、無理しないで」と返してくれた。
金曜日が、待ち遠しかった。
金曜日、仕事を定時で切り上げた。
珍しく六時に会社を出る。同僚に「デート?」と冷やかされて、曖昧に笑った。
駅前のビストロで待ち合わせ。七時。
少し早めに着いて、店の前で待つ。
六時五十五分、陸が歩いてきた。
「お待たせ」
「ううん、私も今来たところ」
店に入る。金曜日の夜で、店内は賑わっていた。
予約していた席に案内される。窓際の二人席。
「何飲む?」
陸が聞いた。
「白ワインにしようかな」
「じゃあ、俺も」
ウェイターにオーダーして、メニューを開く。
「何食べたい?」
「パスタがいいかな」
「じゃあ、俺は魚料理にする。シェアしてもいい?」
「いいよ」
料理を注文して、ワインが運ばれてくる。
「乾杯」
グラスを合わせる。
「今週、忙しかった?」
陸が聞いた。
「うん。プレゼンが続いて」
「お疲れ様」
「久我くんは?」
「俺も忙しかった。でも、今日会えると思ったら頑張れた」
その言葉に、また胸が温かくなった。
「ありがとう」
料理が運ばれてくる。私のカルボナーラと、陸の白身魚のポワレ。
「美味しそう」
フォークとナイフを持って、食べ始める。
「美味しい」
「よかった」
陸も自分の料理を食べている。
「ちょっと食べてみる?」
陸が聞いた。
「いいの?」
「どうぞ」
小皿に取り分けてくれた魚を、ひと口食べる。
「美味しい。バターとハーブの香りがいい」
「篠原さんのも食べていい?」
「どうぞ」
陸がカルボナーラを食べる。
「濃厚だね」
「うん。でも美味しい」
会話が弾む。
高校時代の話。あの頃好きだった音楽。文化祭のこと。
「文化祭の準備、楽しかったね」
陸が言った。
「うん」
「篠原さん、いつも一生懸命だった」
「そうかな」
「うん。俺、尊敬してたんだ」
「え?」
「篠原さん、何でもきちんとこなすから。俺、適当だったし」
「そんなことない。久我くんも真面目だったよ」
「そう言ってもらえると嬉しい」
陸は笑った。
料理を食べ終わって、デザートを注文した。
「あのね」
陸が言った。
「なに?」
「高校のとき、篠原さんのこと、好きだったんだ」
時間が止まった。
「……え?」
「ごめん、急に」
陸は困ったように笑った。
「でも、言いたかったから」
私は何も言えなかった。
「返事はいらないよ。ただ、伝えたかっただけ」
「私も」
声が震えた。
「私も、久我くんのこと、好きだった」
陸の目が、大きく開いた。
「本当?」
「うん」
「そうだったんだ」
陸は嬉しそうに笑った。
「なんで、あのとき言えなかったんだろうね」
「わからない。怖かったのかな」
「俺も」
デザートが運ばれてきた。ガトーショコラ。
でも、もう味なんてわからなかった。
頭の中が、真っ白だった。
「篠原さん」
陸が言った。
「もう一度、やり直せないかな」
心臓が、大きく跳ねた。
「やり直すって」
「俺たちの、関係」
私は陸を見つめた。
彼の目は、真剣だった。
「考えさせて」
「うん。急がないから」
時計を見ると、もう九時半だった。
「そろそろ、帰ろうか」
陸が言った。
「うん」
会計を済ませて、店を出る。
外は冷え込んでいた。息が白い。
「送るよ」
「大丈夫」
「でも」
「本当に大丈夫。すぐそこだから」
駅の改札前で立ち止まった。
「今日は、ありがとう」
陸が言った。
「こちらこそ」
「また、連絡するね」
「うん」
陸は少し迷ってから、私の手を握った。
温かかった。
「おやすみ」
「おやすみ」
手を離して、改札へ向かう。
振り返ると、陸がまだこちらを見ていた。
手を振ると、陸も振り返してくれた。
電車に乗って、家に帰る。
部屋に入って、コートを脱いで、ソファに座り込んだ。
スマホを見ると、陸からメッセージが来ていた。
「今日は楽しかった。ありがとう」
「こちらこそ」
「おやすみ」
「おやすみ」
私はスマホを持ったまま、天井を見上げた。
久我陸。
彼は、私のことが好きだったと言った。
そして、もう一度やり直したいと。
どうすればいいのだろう。
私は、もう四十四歳。離婚して、娘もいて、仕事に追われている。
恋愛なんて、もう無理だと思っていた。
でも。
陸と一緒にいると、高校生の頃に戻ったような気がする。
あの頃の、何も考えずに人を好きになれた自分。
もう一度、あの気持ちを取り戻せるのだろうか。
私はスマホを充電器につないで、ベッドに入った。
目を閉じる。
でも、眠れなかった。
陸の顔が、まぶたの裏に浮かぶ。
彼の声が、耳に残っている。
「もう一度、やり直せないかな」
私は、どう答えればいいのだろう。
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