1 / 13
第1章「通知音」
しおりを挟む
十月の雨は、いつも優柔不断だ。
降るのかやむのか決めかねたまま、空気だけが湿って重くなる。私はコンビニの軒先で立ち止まり、バッグから折り畳み傘を引っ張り出した。骨が一本、曲がったままだ。直そうと思いながら、もう半年が過ぎている。
篠原夕、四十四歳。企画会社でディレクターとして働いている。離婚して三年。娘は元夫の側にいる。
毎日、段取りを組んで、締切を守って、メールを返して、会議に出て、資料をまとめて、ようやく終電の一本前に滑り込む。夜十時を過ぎた電車の中で、ようやく自分の呼吸に気づく。そんな生活を、いつからか当たり前だと思うようになった。
傘を開くと、やはり骨が斜めに曲がっている。雨粒がその隙間から入り込んで、肩を濡らす。でも、駅まではあと五分もかからない。このまま行こう。
改札を抜けて、ホームへ降りる階段を下りた。電車が入ってくる。ドアが開いて、人が吐き出される。私はその流れに逆らうように車内へ入り、ドア脇の手すりにつかまった。座席は全部埋まっている。
発車のベルが鳴る。ドアが閉まる。電車が動き出す。
窓に映る自分の顔を、ぼんやりと眺めた。疲れている。目の下にうっすらとクマがある。ファンデーションで隠しているつもりだけれど、夜になると浮き出てくる。美容院に行ったのは、いつだったか。二ヶ月前か、三ヶ月前か。髪は肩より少し長くて、いつも後ろで一つに結んでいる。楽だから。
スマホを取り出して、メールをチェックする。クライアントからの返信が一件。明日の午前中に修正案を提出してほしいとのこと。了解です、と短く返信する。
次の駅で、目の前の座席が一つ空いた。私は素早く座り込んだ。足が、ほっとしたように力を抜く。パンプスの中で、指先がこわばっている。
電車が揺れる。窓の外を、灰色の景色が流れていく。ビルと、マンションと、小さな公園と、また別のビル。
私はバッグからイヤホンを取り出して、耳に入れた。音楽はかけない。ただ、周囲の音を遮断するために。
駅前のスーパーで惣菜を買い、自宅マンションに着いたのは十時半。玄関の鍵を開けると、静まり返った部屋が迎えてくれる。誰もいない。それが寂しいのか、安心なのか、もうよくわからない。
靴を脱いで、スリッパに履き替える。リビングの照明をつけて、バッグをソファに置く。キッチンへ行って、冷蔵庫を開ける。麦茶のボトルと、三日前に買った豆腐と、賞味期限が近いヨーグルト。それだけだ。
惣菜のパックを開ける。ひじきの煮物と、鶏の照り焼き。どちらも味が濃い。小鉢に移して、電子レンジで温める。四十秒。
その間に、麦茶をコップに注ぐ。冷蔵庫の扉に、娘の写真が一枚、マグネットで留めてある。中学の卒業式の日の写真。制服姿で、少し照れたように笑っている。もう高校一年生だ。元夫の家で暮らしている。月に一度、会う約束をしているけれど、娘は忙しいと言って、最近は二ヶ月に一度になった。
電子レンジが鳴る。小鉢を取り出して、テーブルに並べる。
ご飯は、昨日炊いたものが残っている。茶碗によそって、一緒にテーブルへ運ぶ。
椅子に座って、手を合わせる。いただきます。声には出さない。
ひじきを口に運ぶ。甘辛い味が広がる。悪くない。でも、母の作るひじきの方が美味しい。母はいつも、昆布と鰹節で丁寧に出汁をとる。私はもう何年も、出汁をとっていない。
鶏の照り焼きを食べる。冷めている。レンジで温めたけれど、中心まで熱が通っていない。それでも、噛んで、飲み込む。
スマホを手に取った。
画面を開くと、未読のLINEが三件。仕事関係が二件。クライアントからの確認事項と、部下からの報告。どちらも今すぐ返す必要はない。明日の朝でいい。
もう一件は、真紀だった。
「ねえねえ夕ちゃん、同窓会やるって!」
箸を持つ手が、少しだけ止まった。
同窓会。
高校を卒業してから、もう二十六年。
真紀のメッセージは続いている。
「十一月の第二土曜日、駅前のホテルのレストラン。幹事引き受けちゃった。来てね? 参加予定者リスト送るから見て見て」
画面をタップすると、添付ファイルが開いた。エクセルのシート。名前がずらりと並んでいる。
ゆっくりとスクロールする。
見覚えのある名前。まったく記憶にない名前。顔は思い出せるけれど、話したことがあるかどうかわからない名前。
そして、久我陸という名前を見つけた。
画面を持つ手が、少しだけ震えた。
久我陸。
高校二年のとき、同じクラスだった。文化祭の実行委員を一緒にやった。図書室の隅で、模造紙に文字を書いた。彼の横顔を、何度も盗み見た。
静かで、落ち着いていて、言葉を選ぶ人だった。誰かが騒いでいても、彼は穏やかに笑っているだけだった。クラスの中心にいるタイプではなかったけれど、誰からも信頼されていた。
私は彼のことが好きだった。
でも、何も言えなかった。告白する勇気もなかった。卒業式の日、靴箱の前で「元気でね」と言われて、私は「うん、陸くんも」と答えた。それきりだった。
あれから二十六年。
彼は今、どんな顔をしているのだろう。結婚しているのだろうか。子どもはいるのだろうか。私のことなんて、もう覚えていないかもしれない。
スマホを裏返しにして、テーブルに置いた。
ご飯を口に運ぶ。味がしない。
麦茶を飲む。冷たい液体が喉を通る。
窓の外で、雨がまた強くなっていた。
スマホが震えた。また真紀からだ。
「返事ないってことは考え中だね? 来なよ、楽しいよ。夕ちゃんずっと忙しそうだし、たまには息抜きしなよ」
息抜き。
私は天井を見上げた。照明のカバーに、うっすらと埃が積もっている。掃除しなきゃと思いながら、いつも後回しにしている。
真紀の言う通り、私はずっと忙しかった。仕事と、母の通院の付き添いと、たまに元夫から来る娘の進路についての相談メール。自分の時間なんて、ほとんどない。息抜きという言葉さえ、どこか遠い場所にある気がする。
それでも。
同窓会に行くということは、過去を振り返るということだ。あの頃の自分に、今の自分を見せるということだ。離婚して、娘と離れて、毎日を必死に回しているだけの四十四歳を。
私は箸を置いて、残ったひじきを見つめた。
高校時代の私は、どんな顔をしていただろう。どんな夢を持っていただろう。
進路希望調査の紙に、私は「編集者」と書いた。本を作る仕事がしたかった。でも、大学を出て就職したのは、広告代理店の下請け企画会社だった。編集とは少し違う。でも、クリエイティブな仕事には違いない。そう自分に言い聞かせた。
結婚したのは二十八歳。相手は大学時代の友人の紹介で知り合った公務員の男性、篠原亮。真面目で、誠実で、安定していた。三十歳で娘が生まれた。
仕事は続けた。産休と育休をとって、一歳になった娘を保育園に預けて、また働き始めた。
時短勤務から、徐々にフルタイムに戻った。夫は協力的だったけれど、やはり家事と育児の多くは私が担った。仕事と家庭の両立。誰もがそう言ったし、私もそうするものだと思っていた。
でも、いつからか、夫との会話が減っていった。
仕事の話をしても、彼は「そうなんだ」としか言わなかった。娘の話をすると、「お前に任せる」と言った。休日は、彼は自分の趣味に時間を使った。
私は不満を口にしなかった。彼も悪い人ではなかった。ただ、すれ違っていた。
娘が中学に上がる頃、私たちはもう、ほとんど会話をしなくなっていた。
離婚を切り出したのは私だった。彼は驚いた顔をして、それから静かに頷いた。
「そうか。俺も、うすうす感じてた」
娘の親権は、話し合いの末、元夫が持つことになった。私の仕事が忙しすぎること、娘が父親を慕っていること。それが理由だった。
娘は、私を責めなかった。ただ、「お母さん、頑張りすぎだよ」と言った。
離婚してから三年。私は一人で暮らしている。仕事は相変わらず忙しい。母の通院に付き添い、たまに娘と会い、それ以外の時間は、ほとんど仕事に費やしている。
同窓会に行けば、きっとみんな聞いてくるだろう。
「結婚してる?」「子どもは?」「仕事は?」
答えるのが面倒だ。でも、嘘をつくのも嫌だ。
私はスマホを手に取り、真紀に返事を打った。
「考えとく」
送信ボタンを押す。
すぐに既読がついて、スタンプが飛んできた。泣き笑いの顔。
「考えとく、は行かないフラグだからね。でも待ってる」
私は苦笑して、スマホをテーブルに置いた。
食器を片付けて、キッチンのシンクで洗う。洗剤の泡が、指先を滑る。お湯で流して、水気を拭き取って、食器棚にしまう。
リビングに戻って、ソファに座る。テレビはつけない。静かな部屋の中で、時計の秒針が小さく音を立てている。
スマホを開いて、もう一度、参加者リストを見た。
久我陸。
彼は、どんな人生を歩んできたのだろう。幸せなのだろうか。
そんなこと、考えても仕方がない。
私は画面を閉じて、スマホを充電器につないだ。
シャワーを浴びて、パジャマに着替える。ベッドに入って、目を閉じる。
明日も仕事だ。早く寝なければ。
でも、眠れなかった。
久我陸の顔が、記憶の中から浮かび上がってくる。
高校二年の秋。文化祭の準備で、放課後の図書室に残っていた。私と陸と、あと数人。
「篠原さん、この文字、もう少し大きくした方がいいかな」
陸が模造紙を見ながら言った。
「うん、そうだね。じゃあ、私が書き直すよ」
「ありがとう。字、きれいだね」
「そんなことない」
「いや、きれいだよ。俺の字、汚いから羨ましい」
そう言って、陸は笑った。
その笑顔が、今でも思い出せる。
翌朝、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。六時十五分。いつもより十五分早い。
カーテンを開けると、曇り空が広がっていた。雨は上がっている。ベランダの手すりが、まだ濡れている。
キッチンへ行って、コーヒーメーカーにセットする。ボタンを押すと、ゆっくりとコーヒーが落ちていく音がする。
トーストを焼いて、バターを薄く塗る。ひと口かじる。コーヒーを一口飲む。苦味が口の中に広がる。
テレビはつけない。朝のニュースを見ると、余計なことを考えてしまうから。
八時前に家を出て、駅へ向かう。通勤ラッシュの時間帯を少しずらすと、電車の中で座れることが多い。今日も、ドア際の席に座ることができた。
スマホを開いて、メールをチェックする。クライアントからの問い合わせが二件。上司からの確認事項が一件。部下からの進捗報告が三件。返信が必要なものから順番に処理していく。
指を動かしながら、頭の中で今日のスケジュールを組み立てる。
午前中は社内ミーティング。午後は資料作成。三時からクライアントとの打ち合わせ──
ああ、違う。
今日は母の通院日だった。
午後三時に内科の予約を入れている。二時半には迎えに行かなければ。
私は手帳アプリを開いて、予定を確認した。打ち合わせは、部下に任せることにしよう。
ふと、LINEの通知に気づいた。真紀ではない。母からだった。
「今日、病院行く日だっけ?」
「そうだよ。二時半に迎えに行く」
すぐに返事が来た。
「ありがとう。お昼ご飯作っておくね」
母はいつもそうだ。私が付き添うことを申し訳なく思っているのか、何かと世話を焼こうとする。でも、私は母の作るご飯が好きだから、断らない。
電車が揺れる。窓の外を、灰色の景色が流れていく。
会社に着いて、デスクに座る。パソコンを立ち上げて、メールを開く。朝のミーティングまで三十分。その間に、昨日の積み残しを片付ける。
「おはよう、篠原さん」
隣の席の後輩が声をかけてきた。二十代後半の女性で、名前は佐々木。いつも明るくて、仕事も丁寧だ。
「おはよう」
「今日、午後からクライアントとの打ち合わせですよね。資料、もう一度確認しておきます」
「ありがとう。でも今日、三時には抜けさせてもらうから、打ち合わせはあなたに任せてもいい?」
「大丈夫です。お母様の通院ですか?」
「うん」
佐々木は優しく微笑んだ。「お大事に」
「ありがとう」
私は頷いて、また画面に向かった。
午前中のミーティングは、新規案件の進捗確認。クライアントからの要望が細かく、スケジュールがタイトだ。でも、こういう仕事は嫌いじゃない。パズルのピースをはめていくような感覚がある。
ミーティングが終わって、デスクに戻る。時計を見ると、もう十二時半。昼休みだ。
コンビニでおにぎりとお茶を買って、デスクで食べる。周りはほとんど人がいない。みんな外に食べに行ったり、休憩室でお弁当を食べたりしている。
私は一人で食べる方が楽だ。誰かと話しながら食べると、疲れる。
おにぎりを食べ終わって、お茶を飲む。スマホを開くと、また真紀からメッセージが来ていた。
「夕ちゃん、まだ考え中? ちなみに久我くんも来るよ」
手が止まった。
久我くんも来る。
知っている。リストで見た。でも、真紀がわざわざそう言ってくるということは──
「もしかして、まだ独身らしいよ」
心臓が、少しだけ早く打った。
独身。
彼は、結婚していないのか。
私は画面を見つめた。返信しようとして、やめた。何を書けばいいのかわからない。
スマホをバッグにしまって、立ち上がる。トイレに行って、鏡を見る。
疲れた顔。でも、どうしようもない。
洗面台で手を洗って、ハンドクリームを塗る。
戻ってきたときには、もう二時だった。そろそろ出なければ。
上司に声をかけて、会社を出る。
午後二時半、実家の前に車を停めた。
築四十年の古い一軒家。私が高校生の頃に建てた家で、今は母が一人で暮らしている。父は五年前に亡くなった。心筋梗塞だった。突然だった。
玄関のチャイムを鳴らすと、母が出てきた。
「お待たせ。すぐ行けるわ」
母はいつものように、きちんとした服装をしていた。ベージュのカーディガンに、紺色のスカート。髪も整えている。元小学校の教員で、几帳面な性格だ。今も、毎朝きちんと着替えて、化粧をして、家事をこなしている。
「お昼、食べた?」
「まだ」
「じゃあ、病院の後にうちで食べていきなさい。カレー作ってあるから」
「ありがとう」
母は車の助手席に座った。シートベルトを締めて、バッグを膝の上に置く。
車を発進させる。病院までは十五分ほどだ。
「そういえば、真紀ちゃんから連絡あった?」
「え?」
「同窓会の話。真紀ちゃん、幹事やるんでしょう」
母は真紀の母親と仲が良い。町内会でも一緒に活動している。きっと、そちらから聞いたのだろう。
「うん、聞いた」
「行くの?」
「どうしようかなって」
母は私の顔を見た。
「行ってきなさいよ。たまには昔の友達と会うのもいいじゃない」
「でも、忙しいし」
「忙しいのはいつものことでしょう。たまには息抜きしなさい」
真紀と同じことを言う。
私は信号待ちで車を停めた。母は静かに続けた。
「夕、あなた、自分のこと後回しにしすぎよ」
「そんなことない」
「ある」
母の声は穏やかだけれど、はっきりしていた。
「仕事も大事。私のことも、娘のことも大事。でもね、自分のことも大事にしなさい」
私は何も言えなかった。
信号が青に変わる。アクセルを踏んで、車を走らせる。
「離婚してから、あなた、ずっと走ってるじゃない」
母の声が続く。
「立ち止まることを怖がってるみたいに」
「怖がってなんか、ない」
「じゃあ、同窓会、行ってきなさい」
私は何も言い返せなかった。
母は正しい。私は立ち止まることを怖がっている。立ち止まったら、いろんなことを考えてしまう。娘のこと。元夫のこと。自分の人生のこと。
だから、走り続けている。
病院の駐車場に車を入れた。エンジンを切って、母と一緒に降りる。
「同窓会、行ってみようかな」
そう言うと、母は嬉しそうに笑った。
「そうしなさい。楽しんできなさい」
診察は三十分ほどで終わった。母の血圧は安定している。薬も今まで通り。次回の予約は一ヶ月後。
会計を済ませて、薬局で薬を受け取る。車に戻って、実家へ向かう。
「お腹空いたでしょう。すぐ温めるから」
母はキッチンへ行って、カレーを温め始めた。私はリビングのテーブルに座る。
見慣れた部屋。壁には、私と弟の子どもの頃の写真が飾ってある。父の遺影も、棚の上に置いてある。
「お母さん、一人で大丈夫?」
「大丈夫よ。近所に友達もいるし」
「でも、何かあったら連絡してね」
「わかってる」
母はカレーを盛った皿を持ってきた。湯気が立っている。
「いただきます」
スプーンを持って、ひと口食べる。懐かしい味。甘くて、少し辛い。子どもの頃から変わらない、母のカレー。
「美味しい」
「よかった」
母も座って、一緒に食べ始めた。
「ねえ、夕」
「ん?」
「同窓会で、誰か会いたい人いるの?」
スプーンを持つ手が止まった。
「別に」
「嘘」
母は笑った。
「お母さんにはわかるのよ。あなた、昔、好きな人いたでしょう」
「……いたけど」
「その人、来るの?」
私は黙ってカレーを食べた。
「来るのね」
母は嬉しそうに言った。
「会ってきなさい。どうなるかなんて、会ってみなきゃわからないんだから」
「お母さん」
「なに?」
「そういうんじゃないから」
「わかってる。でもね、人生は一度きりなのよ」
母の声が、少し真剣になった。
「あなたは真面目すぎる。もっと、自分の気持ちに素直になってもいいのよ」
私は何も言えなかった。
カレーを食べ終わって、お茶を飲む。時計を見ると、もう五時だった。
「そろそろ帰るね」
「気をつけてね」
玄関で靴を履いていると、母が声をかけた。
「夕」
「ん?」
「同窓会、楽しんでね」
私は頷いて、家を出た。
夜、自宅に戻って、シャワーを浴びた。パジャマに着替えて、ソファに座る。
スマホを開いて、真紀へのLINEを開く。
指を画面の上で動かす。
「同窓会、行くよ」
送信ボタンを押した。
すぐに既読がついて、電話がかかってきた。
「もしもし」
「夕ちゃん! 本当に来るの? 嬉しい!」
真紀の声が弾んでいる。
「うん、母にも言われたし」
「お母さん、ナイス。じゃあ、当日楽しみにしててね。久しぶりにみんなで集まろう」
「うん」
「それでね、参加者リスト送るから見といて。懐かしい名前いっぱいあるよ。久我くんも来るし」
心臓が、また少し早く打った。
「……そうなんだ」
「あのね、久我くん、まだ独身らしいよ」
「真紀、余計なこと言わないで」
「余計じゃないでしょ。夕ちゃん、昔好きだったじゃん」
「昔の話」
「昔も今も、気持ちって変わらないこともあるんだよ」
真紀は笑った。
「とにかく、当日楽しみにしてて。じゃあね」
電話が切れた。
私はスマホを持ったまま、ソファに深く座り込んだ。
窓の外は、もう真っ暗だった。街の明かりが、ぼんやりと見える。
久我陸。
彼に会ったら、何を話せばいいのだろう。
二十六年ぶりの再会。
私は、どんな顔をすればいいのだろう。
スマホの画面を見つめた。参加者リストを開いて、彼の名前をもう一度確認する。
久我陸。
指が、その名前の上で止まる。
外は静かだった。雨は完全に上がって、月が薄く見えている。
私はスマホを充電器につないで、ベッドに入った。
目を閉じる。
明日も仕事だ。早く寝なければ。
でも、また眠れなかった。
久我陸の顔が、記憶の中から浮かび上がってくる。
高校二年の冬。文化祭が終わって、打ち上げをした日。
「篠原さん、今日はありがとう」
陸が言った。
「私こそ。陸くんのおかげで、うまくいったよ」
「そんなことない。篠原さんがしっかりしてたから」
そう言って、陸は笑った。
その笑顔が、今でも忘れられない。
私は目を開けて、天井を見つめた。
同窓会まで、あと一ヶ月。
長いような、短いような。
降るのかやむのか決めかねたまま、空気だけが湿って重くなる。私はコンビニの軒先で立ち止まり、バッグから折り畳み傘を引っ張り出した。骨が一本、曲がったままだ。直そうと思いながら、もう半年が過ぎている。
篠原夕、四十四歳。企画会社でディレクターとして働いている。離婚して三年。娘は元夫の側にいる。
毎日、段取りを組んで、締切を守って、メールを返して、会議に出て、資料をまとめて、ようやく終電の一本前に滑り込む。夜十時を過ぎた電車の中で、ようやく自分の呼吸に気づく。そんな生活を、いつからか当たり前だと思うようになった。
傘を開くと、やはり骨が斜めに曲がっている。雨粒がその隙間から入り込んで、肩を濡らす。でも、駅まではあと五分もかからない。このまま行こう。
改札を抜けて、ホームへ降りる階段を下りた。電車が入ってくる。ドアが開いて、人が吐き出される。私はその流れに逆らうように車内へ入り、ドア脇の手すりにつかまった。座席は全部埋まっている。
発車のベルが鳴る。ドアが閉まる。電車が動き出す。
窓に映る自分の顔を、ぼんやりと眺めた。疲れている。目の下にうっすらとクマがある。ファンデーションで隠しているつもりだけれど、夜になると浮き出てくる。美容院に行ったのは、いつだったか。二ヶ月前か、三ヶ月前か。髪は肩より少し長くて、いつも後ろで一つに結んでいる。楽だから。
スマホを取り出して、メールをチェックする。クライアントからの返信が一件。明日の午前中に修正案を提出してほしいとのこと。了解です、と短く返信する。
次の駅で、目の前の座席が一つ空いた。私は素早く座り込んだ。足が、ほっとしたように力を抜く。パンプスの中で、指先がこわばっている。
電車が揺れる。窓の外を、灰色の景色が流れていく。ビルと、マンションと、小さな公園と、また別のビル。
私はバッグからイヤホンを取り出して、耳に入れた。音楽はかけない。ただ、周囲の音を遮断するために。
駅前のスーパーで惣菜を買い、自宅マンションに着いたのは十時半。玄関の鍵を開けると、静まり返った部屋が迎えてくれる。誰もいない。それが寂しいのか、安心なのか、もうよくわからない。
靴を脱いで、スリッパに履き替える。リビングの照明をつけて、バッグをソファに置く。キッチンへ行って、冷蔵庫を開ける。麦茶のボトルと、三日前に買った豆腐と、賞味期限が近いヨーグルト。それだけだ。
惣菜のパックを開ける。ひじきの煮物と、鶏の照り焼き。どちらも味が濃い。小鉢に移して、電子レンジで温める。四十秒。
その間に、麦茶をコップに注ぐ。冷蔵庫の扉に、娘の写真が一枚、マグネットで留めてある。中学の卒業式の日の写真。制服姿で、少し照れたように笑っている。もう高校一年生だ。元夫の家で暮らしている。月に一度、会う約束をしているけれど、娘は忙しいと言って、最近は二ヶ月に一度になった。
電子レンジが鳴る。小鉢を取り出して、テーブルに並べる。
ご飯は、昨日炊いたものが残っている。茶碗によそって、一緒にテーブルへ運ぶ。
椅子に座って、手を合わせる。いただきます。声には出さない。
ひじきを口に運ぶ。甘辛い味が広がる。悪くない。でも、母の作るひじきの方が美味しい。母はいつも、昆布と鰹節で丁寧に出汁をとる。私はもう何年も、出汁をとっていない。
鶏の照り焼きを食べる。冷めている。レンジで温めたけれど、中心まで熱が通っていない。それでも、噛んで、飲み込む。
スマホを手に取った。
画面を開くと、未読のLINEが三件。仕事関係が二件。クライアントからの確認事項と、部下からの報告。どちらも今すぐ返す必要はない。明日の朝でいい。
もう一件は、真紀だった。
「ねえねえ夕ちゃん、同窓会やるって!」
箸を持つ手が、少しだけ止まった。
同窓会。
高校を卒業してから、もう二十六年。
真紀のメッセージは続いている。
「十一月の第二土曜日、駅前のホテルのレストラン。幹事引き受けちゃった。来てね? 参加予定者リスト送るから見て見て」
画面をタップすると、添付ファイルが開いた。エクセルのシート。名前がずらりと並んでいる。
ゆっくりとスクロールする。
見覚えのある名前。まったく記憶にない名前。顔は思い出せるけれど、話したことがあるかどうかわからない名前。
そして、久我陸という名前を見つけた。
画面を持つ手が、少しだけ震えた。
久我陸。
高校二年のとき、同じクラスだった。文化祭の実行委員を一緒にやった。図書室の隅で、模造紙に文字を書いた。彼の横顔を、何度も盗み見た。
静かで、落ち着いていて、言葉を選ぶ人だった。誰かが騒いでいても、彼は穏やかに笑っているだけだった。クラスの中心にいるタイプではなかったけれど、誰からも信頼されていた。
私は彼のことが好きだった。
でも、何も言えなかった。告白する勇気もなかった。卒業式の日、靴箱の前で「元気でね」と言われて、私は「うん、陸くんも」と答えた。それきりだった。
あれから二十六年。
彼は今、どんな顔をしているのだろう。結婚しているのだろうか。子どもはいるのだろうか。私のことなんて、もう覚えていないかもしれない。
スマホを裏返しにして、テーブルに置いた。
ご飯を口に運ぶ。味がしない。
麦茶を飲む。冷たい液体が喉を通る。
窓の外で、雨がまた強くなっていた。
スマホが震えた。また真紀からだ。
「返事ないってことは考え中だね? 来なよ、楽しいよ。夕ちゃんずっと忙しそうだし、たまには息抜きしなよ」
息抜き。
私は天井を見上げた。照明のカバーに、うっすらと埃が積もっている。掃除しなきゃと思いながら、いつも後回しにしている。
真紀の言う通り、私はずっと忙しかった。仕事と、母の通院の付き添いと、たまに元夫から来る娘の進路についての相談メール。自分の時間なんて、ほとんどない。息抜きという言葉さえ、どこか遠い場所にある気がする。
それでも。
同窓会に行くということは、過去を振り返るということだ。あの頃の自分に、今の自分を見せるということだ。離婚して、娘と離れて、毎日を必死に回しているだけの四十四歳を。
私は箸を置いて、残ったひじきを見つめた。
高校時代の私は、どんな顔をしていただろう。どんな夢を持っていただろう。
進路希望調査の紙に、私は「編集者」と書いた。本を作る仕事がしたかった。でも、大学を出て就職したのは、広告代理店の下請け企画会社だった。編集とは少し違う。でも、クリエイティブな仕事には違いない。そう自分に言い聞かせた。
結婚したのは二十八歳。相手は大学時代の友人の紹介で知り合った公務員の男性、篠原亮。真面目で、誠実で、安定していた。三十歳で娘が生まれた。
仕事は続けた。産休と育休をとって、一歳になった娘を保育園に預けて、また働き始めた。
時短勤務から、徐々にフルタイムに戻った。夫は協力的だったけれど、やはり家事と育児の多くは私が担った。仕事と家庭の両立。誰もがそう言ったし、私もそうするものだと思っていた。
でも、いつからか、夫との会話が減っていった。
仕事の話をしても、彼は「そうなんだ」としか言わなかった。娘の話をすると、「お前に任せる」と言った。休日は、彼は自分の趣味に時間を使った。
私は不満を口にしなかった。彼も悪い人ではなかった。ただ、すれ違っていた。
娘が中学に上がる頃、私たちはもう、ほとんど会話をしなくなっていた。
離婚を切り出したのは私だった。彼は驚いた顔をして、それから静かに頷いた。
「そうか。俺も、うすうす感じてた」
娘の親権は、話し合いの末、元夫が持つことになった。私の仕事が忙しすぎること、娘が父親を慕っていること。それが理由だった。
娘は、私を責めなかった。ただ、「お母さん、頑張りすぎだよ」と言った。
離婚してから三年。私は一人で暮らしている。仕事は相変わらず忙しい。母の通院に付き添い、たまに娘と会い、それ以外の時間は、ほとんど仕事に費やしている。
同窓会に行けば、きっとみんな聞いてくるだろう。
「結婚してる?」「子どもは?」「仕事は?」
答えるのが面倒だ。でも、嘘をつくのも嫌だ。
私はスマホを手に取り、真紀に返事を打った。
「考えとく」
送信ボタンを押す。
すぐに既読がついて、スタンプが飛んできた。泣き笑いの顔。
「考えとく、は行かないフラグだからね。でも待ってる」
私は苦笑して、スマホをテーブルに置いた。
食器を片付けて、キッチンのシンクで洗う。洗剤の泡が、指先を滑る。お湯で流して、水気を拭き取って、食器棚にしまう。
リビングに戻って、ソファに座る。テレビはつけない。静かな部屋の中で、時計の秒針が小さく音を立てている。
スマホを開いて、もう一度、参加者リストを見た。
久我陸。
彼は、どんな人生を歩んできたのだろう。幸せなのだろうか。
そんなこと、考えても仕方がない。
私は画面を閉じて、スマホを充電器につないだ。
シャワーを浴びて、パジャマに着替える。ベッドに入って、目を閉じる。
明日も仕事だ。早く寝なければ。
でも、眠れなかった。
久我陸の顔が、記憶の中から浮かび上がってくる。
高校二年の秋。文化祭の準備で、放課後の図書室に残っていた。私と陸と、あと数人。
「篠原さん、この文字、もう少し大きくした方がいいかな」
陸が模造紙を見ながら言った。
「うん、そうだね。じゃあ、私が書き直すよ」
「ありがとう。字、きれいだね」
「そんなことない」
「いや、きれいだよ。俺の字、汚いから羨ましい」
そう言って、陸は笑った。
その笑顔が、今でも思い出せる。
翌朝、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。六時十五分。いつもより十五分早い。
カーテンを開けると、曇り空が広がっていた。雨は上がっている。ベランダの手すりが、まだ濡れている。
キッチンへ行って、コーヒーメーカーにセットする。ボタンを押すと、ゆっくりとコーヒーが落ちていく音がする。
トーストを焼いて、バターを薄く塗る。ひと口かじる。コーヒーを一口飲む。苦味が口の中に広がる。
テレビはつけない。朝のニュースを見ると、余計なことを考えてしまうから。
八時前に家を出て、駅へ向かう。通勤ラッシュの時間帯を少しずらすと、電車の中で座れることが多い。今日も、ドア際の席に座ることができた。
スマホを開いて、メールをチェックする。クライアントからの問い合わせが二件。上司からの確認事項が一件。部下からの進捗報告が三件。返信が必要なものから順番に処理していく。
指を動かしながら、頭の中で今日のスケジュールを組み立てる。
午前中は社内ミーティング。午後は資料作成。三時からクライアントとの打ち合わせ──
ああ、違う。
今日は母の通院日だった。
午後三時に内科の予約を入れている。二時半には迎えに行かなければ。
私は手帳アプリを開いて、予定を確認した。打ち合わせは、部下に任せることにしよう。
ふと、LINEの通知に気づいた。真紀ではない。母からだった。
「今日、病院行く日だっけ?」
「そうだよ。二時半に迎えに行く」
すぐに返事が来た。
「ありがとう。お昼ご飯作っておくね」
母はいつもそうだ。私が付き添うことを申し訳なく思っているのか、何かと世話を焼こうとする。でも、私は母の作るご飯が好きだから、断らない。
電車が揺れる。窓の外を、灰色の景色が流れていく。
会社に着いて、デスクに座る。パソコンを立ち上げて、メールを開く。朝のミーティングまで三十分。その間に、昨日の積み残しを片付ける。
「おはよう、篠原さん」
隣の席の後輩が声をかけてきた。二十代後半の女性で、名前は佐々木。いつも明るくて、仕事も丁寧だ。
「おはよう」
「今日、午後からクライアントとの打ち合わせですよね。資料、もう一度確認しておきます」
「ありがとう。でも今日、三時には抜けさせてもらうから、打ち合わせはあなたに任せてもいい?」
「大丈夫です。お母様の通院ですか?」
「うん」
佐々木は優しく微笑んだ。「お大事に」
「ありがとう」
私は頷いて、また画面に向かった。
午前中のミーティングは、新規案件の進捗確認。クライアントからの要望が細かく、スケジュールがタイトだ。でも、こういう仕事は嫌いじゃない。パズルのピースをはめていくような感覚がある。
ミーティングが終わって、デスクに戻る。時計を見ると、もう十二時半。昼休みだ。
コンビニでおにぎりとお茶を買って、デスクで食べる。周りはほとんど人がいない。みんな外に食べに行ったり、休憩室でお弁当を食べたりしている。
私は一人で食べる方が楽だ。誰かと話しながら食べると、疲れる。
おにぎりを食べ終わって、お茶を飲む。スマホを開くと、また真紀からメッセージが来ていた。
「夕ちゃん、まだ考え中? ちなみに久我くんも来るよ」
手が止まった。
久我くんも来る。
知っている。リストで見た。でも、真紀がわざわざそう言ってくるということは──
「もしかして、まだ独身らしいよ」
心臓が、少しだけ早く打った。
独身。
彼は、結婚していないのか。
私は画面を見つめた。返信しようとして、やめた。何を書けばいいのかわからない。
スマホをバッグにしまって、立ち上がる。トイレに行って、鏡を見る。
疲れた顔。でも、どうしようもない。
洗面台で手を洗って、ハンドクリームを塗る。
戻ってきたときには、もう二時だった。そろそろ出なければ。
上司に声をかけて、会社を出る。
午後二時半、実家の前に車を停めた。
築四十年の古い一軒家。私が高校生の頃に建てた家で、今は母が一人で暮らしている。父は五年前に亡くなった。心筋梗塞だった。突然だった。
玄関のチャイムを鳴らすと、母が出てきた。
「お待たせ。すぐ行けるわ」
母はいつものように、きちんとした服装をしていた。ベージュのカーディガンに、紺色のスカート。髪も整えている。元小学校の教員で、几帳面な性格だ。今も、毎朝きちんと着替えて、化粧をして、家事をこなしている。
「お昼、食べた?」
「まだ」
「じゃあ、病院の後にうちで食べていきなさい。カレー作ってあるから」
「ありがとう」
母は車の助手席に座った。シートベルトを締めて、バッグを膝の上に置く。
車を発進させる。病院までは十五分ほどだ。
「そういえば、真紀ちゃんから連絡あった?」
「え?」
「同窓会の話。真紀ちゃん、幹事やるんでしょう」
母は真紀の母親と仲が良い。町内会でも一緒に活動している。きっと、そちらから聞いたのだろう。
「うん、聞いた」
「行くの?」
「どうしようかなって」
母は私の顔を見た。
「行ってきなさいよ。たまには昔の友達と会うのもいいじゃない」
「でも、忙しいし」
「忙しいのはいつものことでしょう。たまには息抜きしなさい」
真紀と同じことを言う。
私は信号待ちで車を停めた。母は静かに続けた。
「夕、あなた、自分のこと後回しにしすぎよ」
「そんなことない」
「ある」
母の声は穏やかだけれど、はっきりしていた。
「仕事も大事。私のことも、娘のことも大事。でもね、自分のことも大事にしなさい」
私は何も言えなかった。
信号が青に変わる。アクセルを踏んで、車を走らせる。
「離婚してから、あなた、ずっと走ってるじゃない」
母の声が続く。
「立ち止まることを怖がってるみたいに」
「怖がってなんか、ない」
「じゃあ、同窓会、行ってきなさい」
私は何も言い返せなかった。
母は正しい。私は立ち止まることを怖がっている。立ち止まったら、いろんなことを考えてしまう。娘のこと。元夫のこと。自分の人生のこと。
だから、走り続けている。
病院の駐車場に車を入れた。エンジンを切って、母と一緒に降りる。
「同窓会、行ってみようかな」
そう言うと、母は嬉しそうに笑った。
「そうしなさい。楽しんできなさい」
診察は三十分ほどで終わった。母の血圧は安定している。薬も今まで通り。次回の予約は一ヶ月後。
会計を済ませて、薬局で薬を受け取る。車に戻って、実家へ向かう。
「お腹空いたでしょう。すぐ温めるから」
母はキッチンへ行って、カレーを温め始めた。私はリビングのテーブルに座る。
見慣れた部屋。壁には、私と弟の子どもの頃の写真が飾ってある。父の遺影も、棚の上に置いてある。
「お母さん、一人で大丈夫?」
「大丈夫よ。近所に友達もいるし」
「でも、何かあったら連絡してね」
「わかってる」
母はカレーを盛った皿を持ってきた。湯気が立っている。
「いただきます」
スプーンを持って、ひと口食べる。懐かしい味。甘くて、少し辛い。子どもの頃から変わらない、母のカレー。
「美味しい」
「よかった」
母も座って、一緒に食べ始めた。
「ねえ、夕」
「ん?」
「同窓会で、誰か会いたい人いるの?」
スプーンを持つ手が止まった。
「別に」
「嘘」
母は笑った。
「お母さんにはわかるのよ。あなた、昔、好きな人いたでしょう」
「……いたけど」
「その人、来るの?」
私は黙ってカレーを食べた。
「来るのね」
母は嬉しそうに言った。
「会ってきなさい。どうなるかなんて、会ってみなきゃわからないんだから」
「お母さん」
「なに?」
「そういうんじゃないから」
「わかってる。でもね、人生は一度きりなのよ」
母の声が、少し真剣になった。
「あなたは真面目すぎる。もっと、自分の気持ちに素直になってもいいのよ」
私は何も言えなかった。
カレーを食べ終わって、お茶を飲む。時計を見ると、もう五時だった。
「そろそろ帰るね」
「気をつけてね」
玄関で靴を履いていると、母が声をかけた。
「夕」
「ん?」
「同窓会、楽しんでね」
私は頷いて、家を出た。
夜、自宅に戻って、シャワーを浴びた。パジャマに着替えて、ソファに座る。
スマホを開いて、真紀へのLINEを開く。
指を画面の上で動かす。
「同窓会、行くよ」
送信ボタンを押した。
すぐに既読がついて、電話がかかってきた。
「もしもし」
「夕ちゃん! 本当に来るの? 嬉しい!」
真紀の声が弾んでいる。
「うん、母にも言われたし」
「お母さん、ナイス。じゃあ、当日楽しみにしててね。久しぶりにみんなで集まろう」
「うん」
「それでね、参加者リスト送るから見といて。懐かしい名前いっぱいあるよ。久我くんも来るし」
心臓が、また少し早く打った。
「……そうなんだ」
「あのね、久我くん、まだ独身らしいよ」
「真紀、余計なこと言わないで」
「余計じゃないでしょ。夕ちゃん、昔好きだったじゃん」
「昔の話」
「昔も今も、気持ちって変わらないこともあるんだよ」
真紀は笑った。
「とにかく、当日楽しみにしてて。じゃあね」
電話が切れた。
私はスマホを持ったまま、ソファに深く座り込んだ。
窓の外は、もう真っ暗だった。街の明かりが、ぼんやりと見える。
久我陸。
彼に会ったら、何を話せばいいのだろう。
二十六年ぶりの再会。
私は、どんな顔をすればいいのだろう。
スマホの画面を見つめた。参加者リストを開いて、彼の名前をもう一度確認する。
久我陸。
指が、その名前の上で止まる。
外は静かだった。雨は完全に上がって、月が薄く見えている。
私はスマホを充電器につないで、ベッドに入った。
目を閉じる。
明日も仕事だ。早く寝なければ。
でも、また眠れなかった。
久我陸の顔が、記憶の中から浮かび上がってくる。
高校二年の冬。文化祭が終わって、打ち上げをした日。
「篠原さん、今日はありがとう」
陸が言った。
「私こそ。陸くんのおかげで、うまくいったよ」
「そんなことない。篠原さんがしっかりしてたから」
そう言って、陸は笑った。
その笑顔が、今でも忘れられない。
私は目を開けて、天井を見つめた。
同窓会まで、あと一ヶ月。
長いような、短いような。
3
あなたにおすすめの小説
一億円の花嫁
藤谷 郁
恋愛
奈々子は家族の中の落ちこぼれ。
父親がすすめる縁談を断り切れず、望まぬ結婚をすることになった。
もうすぐ自由が無くなる。せめて最後に、思いきり贅沢な時間を過ごそう。
「きっと、素晴らしい旅になる」
ずっと憧れていた高級ホテルに到着し、わくわくする奈々子だが……
幸か不幸か!?
思いもよらぬ、運命の出会いが待っていた。
※エブリスタさまにも掲載
溺愛ダーリンと逆シークレットベビー
吉野葉月
恋愛
同棲している婚約者のモラハラに悩む優月は、ある日、通院している病院で大学時代の同級生の頼久と再会する。
立派な社会人となっていた彼に見惚れる優月だったが、彼は一児の父になっていた。しかも優月との子どもを一人で育てるシングルファザー。
優月はモラハラから抜け出すことができるのか、そして子どもっていったいどういうことなのか!?
離した手の温もり
橘 凛子
恋愛
3年前、未来を誓った君を置いて、私は夢を追いかけた。キャリアを優先した私に、君と会う資格なんてないのかもしれない。それでも、あの日の選択をずっと後悔している。そして今、私はあの場所へ帰ってきた。もう一度、君に会いたい。ただ、ごめんなさいと伝えたい。それだけでいい。それ以上の願いは、もう抱けないから。
愛を忘れた令嬢が平民に扮した公爵子息様に娶られる話
rifa
恋愛
今まで虐げられ続けて育ち、愛を忘れてしまった男爵令嬢のミレー。
彼女の義妹・アリサは、社交パーティーで出会ったオリヴァーという公爵家の息子に魅了され、ミレーという義姉がいることを一層よく思わないようになる。
そこでミレーを暴漢に襲わせ、あわよくば亡き者にしようと企んでいたが、それを下町に住むグランという青年に助けられ失敗し、ミレーはグランの家で保護され、そのまま一緒に暮らすようになる。
そしてそのグランこそがアリサが結婚を望んだオリヴァーであり、ミレーと婚約することになる男性だった。
やがてグランが実は公爵家の人間であったと知ったミレーは、公爵家でオリヴァーの婚約者として暮らすことになる。
だが、ミレーを虐げ傷つけてきたアリサたちを許しはしないと、オリヴァーは密かに仕返しを目論んでいた。
※アリサは最後痛い目を見るので、アリサのファンは閲覧をオススメしません。
愛してやまないこの想いを
さとう涼
恋愛
ある日、恋人でない男性から結婚を申し込まれてしまった。
「覚悟して。断られても何度でもプロポーズするよ」
その日から、わたしの毎日は甘くとろけていく。
ライティングデザイン会社勤務の平凡なOLと建設会社勤務のやり手の設計課長のあまあまなストーリーです。
冷酷総長は、彼女を手中に収めて溺愛の檻から逃さない
彩空百々花
恋愛
誰もが恐れ、羨み、その瞳に映ることだけを渇望するほどに高貴で気高い、今世紀最強の見目麗しき完璧な神様。
酔いしれるほどに麗しく美しい女たちの愛に溺れ続けていた神様は、ある日突然。
「今日からこの女がおれの最愛のひと、ね」
そんなことを、言い出した。
『愛が切なくて』- すれ違うほど哀しくて
設楽理沙
恋愛
砂央里と斎藤、こじれてしまった糸(すれ違い)がほどけていく様子を描いています。
◆都合上、[言う、云う]混合しています。うっかりミスではありません。
ご了承ください。
斉藤准一 税理士事務所勤務35才
斎藤紀子 娘 7才
毒妻: 斉藤淳子 専業主婦 33才 金遣いが荒い
高橋砂央里 会社員 27才
山本隆行 オートバックス社員 25才
西野秀行 薬剤師 22才
岡田とま子 主婦 54才
深田睦子 見合い相手 22才
―――――――――――――――――――――――
❧イラストはAI生成画像自作
2025.3.3 再☑済み😇
【完結】黒の花嫁/白の花嫁
あまぞらりゅう
恋愛
秋葉は「千年に一人」の霊力を持つ少女で、幼い頃に龍神――白龍の花嫁として選ばれていた。
だが、双子の妹の春菜の命を救うために、その霊力を代償として失ってしまう。
しかも、秋葉の力は全て春菜へと移り、花嫁の座まで奪われてしまった。
それ以来、家族から「無能」と蔑まれながらも、秋葉は失われた力を取り戻すために静かに鍛錬を続けていた。
そして五年後、白龍と春菜の婚礼の日。
秋葉はついに霊力が戻らず、一縷の望みも消えてしまった。
絶望の淵に立つ彼女の前に、ひとりの青年が現れる。
「余りもの同士、仲良くやろうや」
彼もまた、龍神――黒龍だった。
★ザマァは軽めです!
★後半にバトル描写が若干あります!
★他サイト様にも投稿しています!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる