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第14話 ありがとうの形
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健太に感づかれてからというもの、俺と雫の教室でのやり取りは、さながら諜報員の密会じみたものになっていた。
ペンを回す合図。咳払いによる返事。視線を合わせるのは一瞬。
そのスリリングなルールは、俺たちの秘密の会話をより一層特別なものに変えた。障害がある方が燃える、とはよく言ったものだ。
その日も、俺たちは現代文の授業中に、緻密な連携プレーで密談に興じていた。
幸い、隣の健太は昨日の部活がハードだったらしく、授業開始早々、気持ちよさそうに居眠りをしている。最大の監視の目が機能していない今、俺たちの心には少しだけ余裕があった。
『昨日の夜、送ってくれたソラの動画、可愛かった』
俺が教科書の影でそう送ると、雫は嬉しそうに目を細めた。
『でしょ?』と得意げに指を動かす彼女。
『今度、また新しいの撮るね』
『楽しみにしてる』
そんな他愛ないやり取りが、退屈な授業を最高の時間に変えてくれる。
俺が満足感に浸っていると、ふと、雫が机の上の筆箱を探るように手を動かした。何かを探しているようだ。そして、次の瞬間。
こつん、と小さな音がした。
彼女が、シャープペンで書いた文字を消そうとして、手に持っていた消しゴムを取り落としたのだ。
白い小さな塊は、彼女の机の脚に当たって不規則に跳ね、コロコロと床を転がっていく。そして、まるで引力に引かれるように、俺の椅子の足元でぴたりと止まった。
雫が「あ」というかのように、小さな口を開けて固まっている。その顔には、しまった、という焦りの色が浮かんでいた。
先生はまだ板書に夢中で、こちらには気づいていない。眠っている健太はもちろん、他のクラスメイトも誰も気づいていないようだった。
静寂の中、俺たちの間だけを緊張が支配する。
俺は誰にも気づかれないように、ゆっくりと、本当にゆっくりと腰をかがめた。椅子がきしむ音すら立てないように、細心の注意を払う。
足元に転がっていた、彼女の消しゴム。ほんのりと甘い香りがするような気がしたのは、きっと気のせいだろう。
俺はそれをそっと拾い上げ、顔を上げた。
雫が、心配そうな、そして申し訳なさそうな顔でこちらを見ている。
どうやって返そうか。
机の上で手渡すのは、あまりにも目立ちすぎる。健太がいつ目を覚ますか分からない。
俺はアイコンタクトで彼女に「大丈夫だ」と伝えると、一つの方法を思いついた。
俺は机の下、床すれすれの位置で、拾った消しゴムをそっと彼女の椅子の方へ伸ばした。
机の板一枚を隔てた、誰にも見えない空間。そこは、俺たちだけの領域だった。
俺の意図をすぐに察したのだろう。雫もまた、こくりと頷くと、静かに机の下へ自分の手を差し入れた。
暗がりの中で、俺の指先が、彼女の温かい指先に触れた。
びくり、と彼女の肩が小さく震える。俺の心臓も、同じように大きく跳ねた。
ほんの一瞬の接触。それでも、その感触は驚くほど鮮明で、俺の思考を真っ白にするには十分だった。
俺は名残惜しさを感じながら、彼女の指にそっと消しゴムを握らせ、手を離した。
ミッションコンプリートだ。俺が安堵の息をつき、姿勢を元に戻そうとした、その時だった。
彼女の手が、まだ机の下に残っていた。
そして、その手が、俺の手にそっと触れてきたのだ。
驚いて彼女の方を見ると、彼女は悪戯っぽく微笑んでいた。
そして、俺の手に触れたままの彼女の指が、ゆっくりと形を変えていく。
俺の掌の上で、滑らかに、丁寧に。
片手を刀のようにして、もう片方の腕を、とん、と軽く打つ。
いや、違う。今彼女が打ったのは、腕じゃない。俺の手の甲だ。
『ありがとう』
誰にも見えない、二人だけの暗がりで。
彼女は、俺にだけ分かる言葉で、感謝を伝えてくれたのだ。
それは、今まで交わしたどんな言葉よりも、温かくて、直接的で、そして甘い響きを持っていた。
俺が顔を上げると、雫は机の下から手を戻し、両手で消しゴムをきゅっと握りしめていた。
そして、俺に向かって、はにかむように、でも心の底から嬉しそうに、ふわりと微笑んだ。
その笑顔は、今まで見たどの笑顔よりも破壊力があった。
不意打ちで、真正面から心を撃ち抜かれたような衝撃。
俺の心臓は、完全に機能を停止した。
ありがとう、か。
たった一つの消しゴムを拾っただけ。それだけのことなのに。
こんなにも嬉しいのは、どうしてだろう。
この秘密があるからだ。誰にもバレないように、慎重に、言葉を交わす。このスリルと、共有する喜びが、ありふれた日常の出来事を、かけがえのない宝物に変えてくれる。
俺はまだしばらく動けそうになかった。
隣で健太が暢気な寝息を立てている。その平和な音が、やけに遠くに聞こえた。
俺の手の甲にはまだ、彼女の指が紡いだ『ありがとう』の温かい感触が、確かに残っていた。
ペンを回す合図。咳払いによる返事。視線を合わせるのは一瞬。
そのスリリングなルールは、俺たちの秘密の会話をより一層特別なものに変えた。障害がある方が燃える、とはよく言ったものだ。
その日も、俺たちは現代文の授業中に、緻密な連携プレーで密談に興じていた。
幸い、隣の健太は昨日の部活がハードだったらしく、授業開始早々、気持ちよさそうに居眠りをしている。最大の監視の目が機能していない今、俺たちの心には少しだけ余裕があった。
『昨日の夜、送ってくれたソラの動画、可愛かった』
俺が教科書の影でそう送ると、雫は嬉しそうに目を細めた。
『でしょ?』と得意げに指を動かす彼女。
『今度、また新しいの撮るね』
『楽しみにしてる』
そんな他愛ないやり取りが、退屈な授業を最高の時間に変えてくれる。
俺が満足感に浸っていると、ふと、雫が机の上の筆箱を探るように手を動かした。何かを探しているようだ。そして、次の瞬間。
こつん、と小さな音がした。
彼女が、シャープペンで書いた文字を消そうとして、手に持っていた消しゴムを取り落としたのだ。
白い小さな塊は、彼女の机の脚に当たって不規則に跳ね、コロコロと床を転がっていく。そして、まるで引力に引かれるように、俺の椅子の足元でぴたりと止まった。
雫が「あ」というかのように、小さな口を開けて固まっている。その顔には、しまった、という焦りの色が浮かんでいた。
先生はまだ板書に夢中で、こちらには気づいていない。眠っている健太はもちろん、他のクラスメイトも誰も気づいていないようだった。
静寂の中、俺たちの間だけを緊張が支配する。
俺は誰にも気づかれないように、ゆっくりと、本当にゆっくりと腰をかがめた。椅子がきしむ音すら立てないように、細心の注意を払う。
足元に転がっていた、彼女の消しゴム。ほんのりと甘い香りがするような気がしたのは、きっと気のせいだろう。
俺はそれをそっと拾い上げ、顔を上げた。
雫が、心配そうな、そして申し訳なさそうな顔でこちらを見ている。
どうやって返そうか。
机の上で手渡すのは、あまりにも目立ちすぎる。健太がいつ目を覚ますか分からない。
俺はアイコンタクトで彼女に「大丈夫だ」と伝えると、一つの方法を思いついた。
俺は机の下、床すれすれの位置で、拾った消しゴムをそっと彼女の椅子の方へ伸ばした。
机の板一枚を隔てた、誰にも見えない空間。そこは、俺たちだけの領域だった。
俺の意図をすぐに察したのだろう。雫もまた、こくりと頷くと、静かに机の下へ自分の手を差し入れた。
暗がりの中で、俺の指先が、彼女の温かい指先に触れた。
びくり、と彼女の肩が小さく震える。俺の心臓も、同じように大きく跳ねた。
ほんの一瞬の接触。それでも、その感触は驚くほど鮮明で、俺の思考を真っ白にするには十分だった。
俺は名残惜しさを感じながら、彼女の指にそっと消しゴムを握らせ、手を離した。
ミッションコンプリートだ。俺が安堵の息をつき、姿勢を元に戻そうとした、その時だった。
彼女の手が、まだ机の下に残っていた。
そして、その手が、俺の手にそっと触れてきたのだ。
驚いて彼女の方を見ると、彼女は悪戯っぽく微笑んでいた。
そして、俺の手に触れたままの彼女の指が、ゆっくりと形を変えていく。
俺の掌の上で、滑らかに、丁寧に。
片手を刀のようにして、もう片方の腕を、とん、と軽く打つ。
いや、違う。今彼女が打ったのは、腕じゃない。俺の手の甲だ。
『ありがとう』
誰にも見えない、二人だけの暗がりで。
彼女は、俺にだけ分かる言葉で、感謝を伝えてくれたのだ。
それは、今まで交わしたどんな言葉よりも、温かくて、直接的で、そして甘い響きを持っていた。
俺が顔を上げると、雫は机の下から手を戻し、両手で消しゴムをきゅっと握りしめていた。
そして、俺に向かって、はにかむように、でも心の底から嬉しそうに、ふわりと微笑んだ。
その笑顔は、今まで見たどの笑顔よりも破壊力があった。
不意打ちで、真正面から心を撃ち抜かれたような衝撃。
俺の心臓は、完全に機能を停止した。
ありがとう、か。
たった一つの消しゴムを拾っただけ。それだけのことなのに。
こんなにも嬉しいのは、どうしてだろう。
この秘密があるからだ。誰にもバレないように、慎重に、言葉を交わす。このスリルと、共有する喜びが、ありふれた日常の出来事を、かけがえのない宝物に変えてくれる。
俺はまだしばらく動けそうになかった。
隣で健太が暢気な寝息を立てている。その平和な音が、やけに遠くに聞こえた。
俺の手の甲にはまだ、彼女の指が紡いだ『ありがとう』の温かい感触が、確かに残っていた。
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