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第32話 浴衣姿の君は
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夏祭り当日。
夕暮れが街を茜色に染め始める頃、俺は心臓が口から飛び出しそうなほどの緊張を抱えて、待ち合わせ場所の駅前広場に立っていた。
今日の日のために母親に頼み込んでタンスの奥から引っ張り出してもらった、紺色の甚平。着慣れないそれに袖を通しているだけで、なんだか自分が自分でないような、そわそわとした気分になる。周りの人たちが俺のことを見て笑っているんじゃないか。そんな自意識過剰な考えが頭をぐるぐると巡っていた。
広場は既に祭りの熱気に包まれていた。
浴衣姿のカップル、はしゃぐ子供たち、屋台の準備をする威勢のいい声。甘い綿菓子の匂いと香ばしいソースの香りが風に乗って運ばれてくる。その全てが、非日常的な空間を作り出していた。
俺は、そんな喧騒の中でただ一点だけを見つめていた。
改札口。彼女が現れる、その場所を。
潮さんの「腰、抜かすなよ?」という悪戯っぽい笑顔が脳裏をよぎる。
一体、どんな姿で現れるというのだろう。
期待と緊張、そして少しの恐怖。俺の心臓はもう限界寸前だった。
約束の時間が一分、また一分と近づいてくる。
俺は意味もなくスマホを取り出しては時間を確認し、またポケットに戻すという無意味な行動を繰り返していた。
落ち着け。俺はただ、クラスメイトと祭りに来ただけだ。
そう自分に言い聞かせても、暴れ出す心臓は言うことを聞かなかった。
そして、約束の午後六時ちょうど。
雑踏の中から、ふわりと空気が変わった。
俺の視線が、人波の中の一点に、まるで強力な磁石に引き寄せられるように吸い寄せられた。
いた。
その姿を認めた瞬間、俺の周りから全ての音が消え去った。
祭りの喧騒も、人々の笑い声も、何も聞こえない。
俺の世界には、ただ彼女の姿だけがスローモーションのように映し出されていた。
そこに立っていたのは、俺が知っている月宮雫ではなかった。
いや、彼女であることは間違いないのだが、その纏う雰囲気はまるで別次元の生き物のように神々しく、そして儚かった。
濃紺の地に、白や淡い水色の朝顔が上品に咲き乱れる浴衣。
帯は、差し色になる柔らかなクリーム色で、小さな蝶結びが可憐な印象を与えている。
いつもは下ろしているかラフに結んでいるだけの艶やかな黒髪は綺麗に結い上げられ、白い花の飾りがついた銀色のかんざしが夕日を浴びてキラリと光っていた。
白い首筋、華奢な鎖骨、そして普段は見ることのない、少しだけ紅を差した唇。
潮さんの言葉は真実だった。
俺は、腰を抜かした。比喩ではなく、本当にその場にへたり込んでしまいそうなほどの衝撃。
言葉が出ない。呼吸の仕方も忘れた。
ただ、呆然とその光景に見入ることしかできない。
彼女は、少しだけ不安そうに、慣れない下駄で小さな歩幅を刻みながら俺の方へ歩いてくる。
やて、俺の目の前でぴたりと立ち止まった。
ふわりと、石鹸のような清潔で甘い香りがした。
『ご、ごめん。待った?』
彼女が、少しだけ潤んだ瞳で俺を見上げ、手話で問いかけてくる。
その指の動きすら、いつもよりずっと優雅で美しく見えた。
俺は、まだ魔法から覚めきれないまま、かろうじて首を横に振ることしかできない。
『その……変、じゃないかな?』
彼女は、自分の浴衣の裾を小さな手で不安そうに握りしめた。
俺の反応がないから、似合っていないのかもしれないと心配させてしまったのだろう。
その健気な仕草に、俺はようやく我に返った。
違う。変なわけがない。
むしろ、逆だ。
この世のどんな言葉を使っても、この美しさを表現しきれない。
でも、伝えなければ。俺の、今の、この気持ちを。
俺は、震える手をゆっくりと持ち上げた。
心臓が、痛いくらいに鳴っている。
彼女の真っ直ぐな瞳に見つめられながら、俺は今日のために何度も何度も練習してきた言葉を、心を込めて紡いだ。
まず、親指と人差し指、中指の三本で花の蕾のような形を作る。
そして、それを自分の頬の横でふわりと開く。
花が、咲くように。
『綺麗だ』
たった一言。
でも、その一言に俺の全ての感情を乗せた。
君は、どんな花よりも綺麗だ、と。
俺のメッセージを受け取った瞬間、雫の瞳が驚きに大きく見開かれた。
そして、次の瞬間。
彼女の白い頬が、ぽっ、と音を立てるように鮮やかな桜色に染まっていく。
その変化は、まるで早送りの映像のように劇的で、俺はまたしても心を奪われた。
彼女は、その真っ赤な顔を隠すように俯いてしまった。
そして、浴衣の袖で口元を隠している。
でも、隠しきれていない。
その袖の影で、彼女が人生で一番幸せだ、というかのように、ふわりとはにかんでいるのが、俺にははっきりと見えた。
その笑顔を見て、俺の心は完全に決壊した。
ああ、もうダメだ。
この子のことが、どうしようもなく好きだ。
この笑顔を、一生俺の隣で見ていたい。
「じゃあ……行こっか」
俺は、照れくささと込み上げてくる愛おしさを隠すように、少しだけぶっきらぼうにそう言った。
彼女は、俯いたままこくり、と小さく頷いた。
俺たちはゆっくりと歩き出す。
祭りの喧騒の中へ。
ぎこちない二人の距離。慣れない履物。
それでも、隣を歩く君の横顔が、浴衣姿の君が、あまりにも綺麗すぎて。
俺は、この夏が永遠に続けばいいのにと、本気で願っていた。
俺たちの夏祭りは、こうして最高の形で幕を開けたのだった。
夕暮れが街を茜色に染め始める頃、俺は心臓が口から飛び出しそうなほどの緊張を抱えて、待ち合わせ場所の駅前広場に立っていた。
今日の日のために母親に頼み込んでタンスの奥から引っ張り出してもらった、紺色の甚平。着慣れないそれに袖を通しているだけで、なんだか自分が自分でないような、そわそわとした気分になる。周りの人たちが俺のことを見て笑っているんじゃないか。そんな自意識過剰な考えが頭をぐるぐると巡っていた。
広場は既に祭りの熱気に包まれていた。
浴衣姿のカップル、はしゃぐ子供たち、屋台の準備をする威勢のいい声。甘い綿菓子の匂いと香ばしいソースの香りが風に乗って運ばれてくる。その全てが、非日常的な空間を作り出していた。
俺は、そんな喧騒の中でただ一点だけを見つめていた。
改札口。彼女が現れる、その場所を。
潮さんの「腰、抜かすなよ?」という悪戯っぽい笑顔が脳裏をよぎる。
一体、どんな姿で現れるというのだろう。
期待と緊張、そして少しの恐怖。俺の心臓はもう限界寸前だった。
約束の時間が一分、また一分と近づいてくる。
俺は意味もなくスマホを取り出しては時間を確認し、またポケットに戻すという無意味な行動を繰り返していた。
落ち着け。俺はただ、クラスメイトと祭りに来ただけだ。
そう自分に言い聞かせても、暴れ出す心臓は言うことを聞かなかった。
そして、約束の午後六時ちょうど。
雑踏の中から、ふわりと空気が変わった。
俺の視線が、人波の中の一点に、まるで強力な磁石に引き寄せられるように吸い寄せられた。
いた。
その姿を認めた瞬間、俺の周りから全ての音が消え去った。
祭りの喧騒も、人々の笑い声も、何も聞こえない。
俺の世界には、ただ彼女の姿だけがスローモーションのように映し出されていた。
そこに立っていたのは、俺が知っている月宮雫ではなかった。
いや、彼女であることは間違いないのだが、その纏う雰囲気はまるで別次元の生き物のように神々しく、そして儚かった。
濃紺の地に、白や淡い水色の朝顔が上品に咲き乱れる浴衣。
帯は、差し色になる柔らかなクリーム色で、小さな蝶結びが可憐な印象を与えている。
いつもは下ろしているかラフに結んでいるだけの艶やかな黒髪は綺麗に結い上げられ、白い花の飾りがついた銀色のかんざしが夕日を浴びてキラリと光っていた。
白い首筋、華奢な鎖骨、そして普段は見ることのない、少しだけ紅を差した唇。
潮さんの言葉は真実だった。
俺は、腰を抜かした。比喩ではなく、本当にその場にへたり込んでしまいそうなほどの衝撃。
言葉が出ない。呼吸の仕方も忘れた。
ただ、呆然とその光景に見入ることしかできない。
彼女は、少しだけ不安そうに、慣れない下駄で小さな歩幅を刻みながら俺の方へ歩いてくる。
やて、俺の目の前でぴたりと立ち止まった。
ふわりと、石鹸のような清潔で甘い香りがした。
『ご、ごめん。待った?』
彼女が、少しだけ潤んだ瞳で俺を見上げ、手話で問いかけてくる。
その指の動きすら、いつもよりずっと優雅で美しく見えた。
俺は、まだ魔法から覚めきれないまま、かろうじて首を横に振ることしかできない。
『その……変、じゃないかな?』
彼女は、自分の浴衣の裾を小さな手で不安そうに握りしめた。
俺の反応がないから、似合っていないのかもしれないと心配させてしまったのだろう。
その健気な仕草に、俺はようやく我に返った。
違う。変なわけがない。
むしろ、逆だ。
この世のどんな言葉を使っても、この美しさを表現しきれない。
でも、伝えなければ。俺の、今の、この気持ちを。
俺は、震える手をゆっくりと持ち上げた。
心臓が、痛いくらいに鳴っている。
彼女の真っ直ぐな瞳に見つめられながら、俺は今日のために何度も何度も練習してきた言葉を、心を込めて紡いだ。
まず、親指と人差し指、中指の三本で花の蕾のような形を作る。
そして、それを自分の頬の横でふわりと開く。
花が、咲くように。
『綺麗だ』
たった一言。
でも、その一言に俺の全ての感情を乗せた。
君は、どんな花よりも綺麗だ、と。
俺のメッセージを受け取った瞬間、雫の瞳が驚きに大きく見開かれた。
そして、次の瞬間。
彼女の白い頬が、ぽっ、と音を立てるように鮮やかな桜色に染まっていく。
その変化は、まるで早送りの映像のように劇的で、俺はまたしても心を奪われた。
彼女は、その真っ赤な顔を隠すように俯いてしまった。
そして、浴衣の袖で口元を隠している。
でも、隠しきれていない。
その袖の影で、彼女が人生で一番幸せだ、というかのように、ふわりとはにかんでいるのが、俺にははっきりと見えた。
その笑顔を見て、俺の心は完全に決壊した。
ああ、もうダメだ。
この子のことが、どうしようもなく好きだ。
この笑顔を、一生俺の隣で見ていたい。
「じゃあ……行こっか」
俺は、照れくささと込み上げてくる愛おしさを隠すように、少しだけぶっきらぼうにそう言った。
彼女は、俯いたままこくり、と小さく頷いた。
俺たちはゆっくりと歩き出す。
祭りの喧騒の中へ。
ぎこちない二人の距離。慣れない履物。
それでも、隣を歩く君の横顔が、浴衣姿の君が、あまりにも綺麗すぎて。
俺は、この夏が永遠に続けばいいのにと、本気で願っていた。
俺たちの夏祭りは、こうして最高の形で幕を開けたのだった。
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