クラスで3番目に可愛い無口なあの子が実は手話で話しているのを俺だけが知っている

夏見ナイ

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第95話 リハビリの日々

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あの日、夏の終わりの公園で起こった奇跡。
それは俺たちの日常に、静かで、しかし確かな変化をもたらした。
雫の声を取り戻すための二人三脚のリハビリ。それが、俺たちの新しい「当たり前」になったのだ。

医師の指導のもと、俺たちはまず簡単な発声練習から始めた。
放課後、二人きりの教室。あるいは、昼休みの人のいない図書室の隅。
そこが俺たちの秘密の訓練場だった。

「いいか、雫。焦らなくていい。まずは息を長く吐くことからだ」
俺はネットで調べた付け焼き刃の知識で彼女にアドバイスを送る。
彼女は俺の言葉にこくりと真剣な表情で頷くと、大きく息を吸い込み、ろうそくの火を消すように、ふーっと細く長く息を吐き続けた。
長年眠っていた声を出すための筋肉を少しずつ呼び覚ましていく。
それは本当に地道で根気のいる作業だった。

次に、唇や舌を動かす構音訓練。
俺たちは鏡に向かって二人並んで変な顔を繰り返した。
唇を思い切り尖らせたり、横に引いたり。舌をべーっと長く出したり、丸めたり。
その光景は、傍から見ればひどく滑稽だったに違いない。
時々お互いの変な顔を見て、どちらからともなくくすくすと笑い出してしまう。
その屈託のない笑い声(俺だけの)と声にならない笑いが響く時間が、俺は何よりも好きだった。

そして、いよいよ声を出す練習。
「あー」
俺が見本を見せる。
彼女は俺の口の形と喉の動きをじっと見つめる。
そして、意を決したように唇を開いた。
「……ぁ……」
か細い息のような音。
でも、それは紛れもなく彼女の意志によって生み出された「声」だった。

「すごい! 今の、すごく良かったぞ!」
俺が手話で大げさに褒めると、彼女は顔を真っ赤にして嬉しそうにはにかむ。
その小さな成功体験の積み重ねが彼女の心を少しずつ前向きにさせていった。

もちろん、毎日がうまくいくわけではなかった。
思うように声が出せずに彼女が落ち込んでしまう日もあった。
そんな時は、俺は無理に練習を続けさせたりはしなかった。
「今日はもうやめよう」
俺はそう言って彼女の手を優しく握った。
そして、話題を変える。
「なあ、今度の週末、どこか行かないか? 美味しいケーキ、食べに行こうぜ」
俺が手話でそう誘うと、彼女の曇っていた表情がぱっと明るくなる。
その単純で素直な反応がどうしようもなく愛おしかった。

リハビリは決して辛いだけのものではなかった。
むしろ、それは俺たちの絆をさらに深く、強く結びつけるためのかけがえのない時間になっていた。
声が出ないという共通の課題に向き合うことで、俺たちは以前よりももっとお互いの心に寄り添うことができたのだ。

そんな日々が数週間続いたある日のこと。
俺たちはいつものように放課後の教室で単語を発する練習をしていた。
「……ぁ、め」
「……ぃ、ぬ」
途切れ途切れでまだ掠れてはいるが、彼女は二文字程度の簡単な単語なら発音できるようになっていた。
その驚異的な進歩に俺は毎日感動させられっぱなしだった。

その日、俺は少しだけ意地悪な問題を出すことにした。
俺は手話でこう伝えた。
『じゃあ、これは言えるか?』
そして俺はゆっくりと口の形だけで、ある言葉を紡いでみせた。

『す』『き』

そのあまりにもストレートな愛の言葉。
それを見た彼女の顔が、ぼんと音を立てて真っ赤に染まった。
彼女は抗議するように俺の腕をぽかぽかと軽く叩いてくる。
その反応はいつもの可愛らしい彼女のままだった。

でも、今日の彼女は少しだけ違った。
彼女は叩いていた手を止めると、意を決したように俺の目を真っ直ぐに見つめ返してきたのだ。
その瞳には強い、強い光が宿っている。
そして彼女は大きく息を吸い込んだ。

俺は固唾を飲んで彼女の次の言葉を待った。
まさか。
いや、でも。

彼女の震える唇がゆっくりと開かれた。

「……す」

か細い音。
でも、それは確かに「す」という音だった。
そして彼女は、ありったけの力を振り絞って次の音を紡ごうとする。

「……き」

好き。

その二文字が。
掠れていたけれど、間違いなく彼女の「声」となって俺の耳に届いた。
俺は完全に思考が停止していた。
心臓が止まったかと思った。
バレンタインの日の「大好き」の手話。
その時ももちろん最高に嬉しかった。
でも、今この瞬間のこの二文字の衝撃は、その比ではなかった。

俺が呆然と固まっていると、彼女は全ての力を使い果たしたように、はあ、はあと荒い息をついた。
その顔は真っ赤で、瞳は達成感と、そして極度の恥ずかしさで潤んでいた。
そして、俺の反応を不安そうに窺っている。

俺はハッと我に返った。
そして、込み上げてくるどうしようもないほどの感動と愛おしさに、もう耐えきれなかった。

「……雫」
俺は彼女の名前を呼んだ。
そして、その小さな体を今までにないくらい力強く、そして優しく抱きしめていた。
「ありがとう……!」
「俺、世界一幸せだ……!」
俺の掠れた声。
腕の中で彼女の体がびくりと小さく震えた。
そして、俺の背中にその小さな手を回し、ぎゅっと強く、強くしがみついてきた。

リハビリの日々。
それは決して楽な道のりではなかった。
でも、その先にあるこんなにも温かくて輝かしい光景を見れるのなら。
俺たちはこれからも何度だって立ち上がれる。
夕暮れの教室で俺たちはそう固く確信していた。
二人の新しい物語はまだ始まったばかりなのだから。
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