クラスで3番目に可愛い無口なあの子が実は手話で話しているのを俺だけが知っている

夏見ナイ

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第96話 伝えたい言葉

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彼女の口から紡がれた初めての「好き」という声。
あの日以来、俺たちのリハビリは新しいステージへと進んだ。
それはもはや単なる発声練習ではなかった。
彼女が俺に伝えたい言葉を声にする。
その甘くて、少しだけ切ない挑戦の時間。

もちろん、まだ自由に話せるわけではない。
二文字か三文字の短い単語がかろうじて言える程度。
その声も囁き声よりも小さく、すぐに掠れてしまう。
でも、彼女はその限られた音を使って必死に俺に想いを伝えようとしてくれた。

『……ぁ、り、が、と』
俺が彼女の好きそうなジュースを買ってきてあげると、彼女は一生懸命その三文字を紡いでくれる。
そのたどたどしい「ありがとう」が、どんな流暢な言葉よりも俺の心に深く、深く染み渡った。

『……ご、め、ん』
俺が待ち合わせに少しだけ遅れてしまうと、彼女は俺を責める代わりにそう言って悲しそうな顔をするのだ。
『俺の方がごめんだって』
俺が慌てて彼女の頭を撫ぜると、彼女は安心したようにふわりと微笑む。
その一つ一つのやり取りが、どうしようもなく愛おしかった。

そんな穏やかで幸せな日々が続いていた、ある秋の日の放課後。
その日は珍しく俺も彼女も委員会や制作活動がなく、完全にフリーだった。
俺たちが教室で他愛ない話をしていると、不意に彼女が真剣な顔で俺を見つめてきた。
そして、手話でこう言ったのだ。

『航くん。少しだけ、付き合ってほしい場所があるの』

その改まった口調に俺は少しだけ驚いた。
「どこへ?」
俺が尋ねると、彼女はいたずらっぽくにこりと微笑んだ。
『行けばわかるよ』

彼女に手を引かれるまま俺はついていった。
廊下を歩き、階段を上る。
俺たちの行き先がどこなのか、俺には全く見当がつかなかった。
そして彼女が立ち止まったのは一つの教室の前だった。
そこは俺たちが一年と半年以上もの時間を過ごしてきた見慣れた教室。
でも、今はもう使われていない旧校舎にある、元・二年B組の教室だった。

「……ここって」
俺が呟くと、彼女はこくりと頷いた。
そして、少しだけ躊躇うようにギィと音を立ててその引き戸を開ける。
中に広がる懐かしい光景。
机も椅子ももう何もない、がらんどうの空間。
でも、俺の脳裏にはここで過ごしたたくさんの思い出が鮮やかに蘇ってきた。

初めて彼女が手話を使っているのを目撃したあの日の放課後。
初めて「こんにちは」と、言葉を交わしたあの瞬間。
授業中にこっそりと秘密の会話をしたこと。
俺はまるで昨日のことのように、その全てを思い出すことができた。

彼女はゆっくりと教室の中へと足を踏み入れた。
そして、窓際の一番後ろの席。
かつて彼女の指定席だったその場所で、ぴたりと立ち止まる。
夕日が窓から差し込み、彼女の輪郭を淡くオレンジ色に縁取っていた。
その光景はあの日と全く同じだった。

俺は吸い寄せられるように彼女のそばへと歩み寄った。
彼女は俺の気配に気づくと、ゆっくりとこちらを振り返った。
その顔は今まで見たこともないくらい真剣で、そして神々しいほどの決意に満ちていた。
その瞳は潤んでいた。

彼女は俺をここに連れてきたかったのだ。
俺たちの全ての始まりの場所に。
そして、この場所で何かを伝えようとしている。
俺は固唾を飲んで彼女の次の言葉を待った。

彼女は自分の胸の前でそっと手を合わせた。
まるで祈るかのように。
そして一度、ふう、と深く息を吸い込む。
その華奢な肩が少しだけ震えていた。

今日、彼女が伝えたい言葉。
それはきっと今までのどんな言葉よりも長くて難しい言葉なのだろう。
俺は心の中で必死に彼女にエールを送った。
頑張れ、雫。
焦らなくていい。
君のペースでいいから。

彼女は俺のその無言のエールを受け取ってくれたのかもしれない。
彼女の表情からふっと力が抜けた。
そして、俺に向かって少しだけ安心したように微笑んでみせた。

いよいよその時が来た。
彼女は俺の目を真っ直ぐに見つめ返す。
その瞳には俺への全ての想いが溢れんばかりに宿っていた。
そして、彼女の震える唇がゆっくりと、ゆっくりと開かれた。
世界で一番尊い言葉を紡ぎ出すために。
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