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第94話 奇跡のあとさき
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院の待合室での涙の抱擁。
俺たちの周りだけ時間が止まったかのような、甘くて温かい空間。
その静寂を破ったのは、ずっと俺たちを優しい眼差しで見守ってくれていた潮さんの、少しだけ鼻声になった明るい声だった。
「……はいはい、そこまで! 診察室の前でイチャつくのは感心しないわよ、全く」
潮さんはそう言って俺たちの背中をポンと叩いたが、その目元は赤く、声も少しだけ震えていた。彼女もまた、妹に起こった奇跡を心から喜んでくれているのだ。
俺たちは少しだけ名残惜しさを感じながら、ゆっくりと体を離した。
雫はまだ涙の跡が残る顔で、恥ずかしそうに俯いている。
診察室では医師から詳しい説明を受けた。
雫の症状は「心因性失声症」と呼ばれるものだった。
幼い頃の強い精神的ショックが引き金となり、声帯や発声器官には何の問題もないのに、心理的なブレーキがかかって声が出せなくなってしまう状態。
治療法は確立されておらず、カウンセリングなどが中心になるが、回復は容易ではない、と。
「ですが」
白衣を着た、人の良さそうな初老の医師は穏やかな口調で続けた。
「ごく稀にですが、今回のように、逆に非常に強いショック――例えば、大切な人の命の危険を目の当たりにするような出来事がきっかけとなって、その心理的なブレーキが外れることがあるんです」
医師は俺と雫の顔を交互に、温かい眼差しで見つめた。
「声が出たというのは紛れもない事実です。それは奇跡と呼んでもいい、素晴らしい一歩ですよ」
その言葉に、俺と潮さんは顔を見合わせてほっと息をついた。
雫も医師の言葉を真剣な表情でじっと聞いていた。
自分の身に起こったことが、ただの偶然や夢ではなかった。
その事実を彼女はゆっくりと、しかし確かに受け止めているようだった。
「ただし」
医師は言葉を続けた。
「一度声が出たからといって、すぐに元通り自由に話せるようになるわけではありません。むしろ、ここからが本当のスタートです」
医師の説明によると、長年使っていなかった声帯の筋肉はすっかり衰えてしまっている。赤ちゃんが少しずつ言葉を覚えていくように。あるいは、骨折した足でリハビリを始めるように。
これから地道なトレーニングを重ねて、少しずつ声を出す感覚を取り戻していく必要があるのだという。
「焦りは禁物です。周りの人が温かく、そして辛抱強く支えてあげることが何よりも大切になります」
医師は最後に俺の目を真っ直ぐに見つめてそう言った。
その言葉の重みを俺は、ずしりと受け止めた。
診察が終わり、俺たちは病院の廊下を歩いていた。
俺の左腕は綺麗に包帯が巻かれ、三角巾で吊られている。全治二週間、といったところらしい。
隣を歩く雫はまだ少しぼうっとしているようだった。
自分の未来が大きく変わろうとしている。そのあまりにも大きな変化に戸惑っているのかもしれない。
病院の出口で、潮さんが「じゃあ、私は先にタクシー拾ってくるから!」と気を利かせて俺たちから少し離れていった。
二人きりになった夕暮れの病院の前。
秋の始まりを告げる涼しい風が、俺たちの間を吹き抜けていく。
俺は彼女に何て声をかければいいのか分からなかった。
「よかったな」と言うのは少し違う気がした。
彼女の戦いはまだ始まったばかりなのだから。
俺が言葉を探して黙り込んでいると、不意に雫が俺のコートの袖をきゅっと小さく掴んだ。
俺が彼女の方を振り返る。
彼女は少しだけ俯きながら、震える指で手話を紡ぎ始めた。
その言葉は俺の予想を完全に裏切るものだった。
『ごめんなさい』
その謝罪の言葉。
俺は驚いて目を見開いた。
『私のせいで、航くんを、怖い目に遭わせて……』
『私のせいで、航くん、怪我しちゃった』
彼女の瞳からまた涙がぽろりとこぼれ落ちる。
自分の身に起こった奇跡よりも、彼女は俺を傷つけてしまったことを悔やんでいたのだ。
そのあまりにも優しくて、あまりにも健気な心に、俺の胸はぎゅっと締め付けられた。
俺は空いている方の右手で彼女の涙をそっと拭ってやった。
そして、彼女の潤んだ瞳を真っ直-ぐに見つめ返す。
「馬鹿だな」
俺は声と、そして手話で、はっきりと伝えた。
「俺はお前を守れて嬉しかったんだぞ。これくらい、かすり傷だ」
俺は大げさに包帯が巻かれた自分の腕を見せて、にっと笑ってみせた。
「それに、お前の声、聞けたしな」
俺は続けた。
「最高の、ご褒美だよ。ありがとう」
俺の心の底からの感謝の言葉。
それを聞いた彼女の瞳が驚きに大きく、大きく見開かれた。
そして、次の瞬間。
彼女の顔に全ての不安を吹き飛ばすかのような、ふわりとした、花が咲くような最高の笑顔が咲いた。
奇跡のあとさき。
それは決して楽な道のりではないのかもしれない。
でも、俺たちはもう何も怖くなかった。
二人で手を取り合ってさえいれば。
どんな未来だってきっと乗り越えていける。
夕暮れの空の下、俺たちはそう固く信じていた。
これから始まる新しい物語への確かな希望を胸に抱いて。
俺たちの周りだけ時間が止まったかのような、甘くて温かい空間。
その静寂を破ったのは、ずっと俺たちを優しい眼差しで見守ってくれていた潮さんの、少しだけ鼻声になった明るい声だった。
「……はいはい、そこまで! 診察室の前でイチャつくのは感心しないわよ、全く」
潮さんはそう言って俺たちの背中をポンと叩いたが、その目元は赤く、声も少しだけ震えていた。彼女もまた、妹に起こった奇跡を心から喜んでくれているのだ。
俺たちは少しだけ名残惜しさを感じながら、ゆっくりと体を離した。
雫はまだ涙の跡が残る顔で、恥ずかしそうに俯いている。
診察室では医師から詳しい説明を受けた。
雫の症状は「心因性失声症」と呼ばれるものだった。
幼い頃の強い精神的ショックが引き金となり、声帯や発声器官には何の問題もないのに、心理的なブレーキがかかって声が出せなくなってしまう状態。
治療法は確立されておらず、カウンセリングなどが中心になるが、回復は容易ではない、と。
「ですが」
白衣を着た、人の良さそうな初老の医師は穏やかな口調で続けた。
「ごく稀にですが、今回のように、逆に非常に強いショック――例えば、大切な人の命の危険を目の当たりにするような出来事がきっかけとなって、その心理的なブレーキが外れることがあるんです」
医師は俺と雫の顔を交互に、温かい眼差しで見つめた。
「声が出たというのは紛れもない事実です。それは奇跡と呼んでもいい、素晴らしい一歩ですよ」
その言葉に、俺と潮さんは顔を見合わせてほっと息をついた。
雫も医師の言葉を真剣な表情でじっと聞いていた。
自分の身に起こったことが、ただの偶然や夢ではなかった。
その事実を彼女はゆっくりと、しかし確かに受け止めているようだった。
「ただし」
医師は言葉を続けた。
「一度声が出たからといって、すぐに元通り自由に話せるようになるわけではありません。むしろ、ここからが本当のスタートです」
医師の説明によると、長年使っていなかった声帯の筋肉はすっかり衰えてしまっている。赤ちゃんが少しずつ言葉を覚えていくように。あるいは、骨折した足でリハビリを始めるように。
これから地道なトレーニングを重ねて、少しずつ声を出す感覚を取り戻していく必要があるのだという。
「焦りは禁物です。周りの人が温かく、そして辛抱強く支えてあげることが何よりも大切になります」
医師は最後に俺の目を真っ直ぐに見つめてそう言った。
その言葉の重みを俺は、ずしりと受け止めた。
診察が終わり、俺たちは病院の廊下を歩いていた。
俺の左腕は綺麗に包帯が巻かれ、三角巾で吊られている。全治二週間、といったところらしい。
隣を歩く雫はまだ少しぼうっとしているようだった。
自分の未来が大きく変わろうとしている。そのあまりにも大きな変化に戸惑っているのかもしれない。
病院の出口で、潮さんが「じゃあ、私は先にタクシー拾ってくるから!」と気を利かせて俺たちから少し離れていった。
二人きりになった夕暮れの病院の前。
秋の始まりを告げる涼しい風が、俺たちの間を吹き抜けていく。
俺は彼女に何て声をかければいいのか分からなかった。
「よかったな」と言うのは少し違う気がした。
彼女の戦いはまだ始まったばかりなのだから。
俺が言葉を探して黙り込んでいると、不意に雫が俺のコートの袖をきゅっと小さく掴んだ。
俺が彼女の方を振り返る。
彼女は少しだけ俯きながら、震える指で手話を紡ぎ始めた。
その言葉は俺の予想を完全に裏切るものだった。
『ごめんなさい』
その謝罪の言葉。
俺は驚いて目を見開いた。
『私のせいで、航くんを、怖い目に遭わせて……』
『私のせいで、航くん、怪我しちゃった』
彼女の瞳からまた涙がぽろりとこぼれ落ちる。
自分の身に起こった奇跡よりも、彼女は俺を傷つけてしまったことを悔やんでいたのだ。
そのあまりにも優しくて、あまりにも健気な心に、俺の胸はぎゅっと締め付けられた。
俺は空いている方の右手で彼女の涙をそっと拭ってやった。
そして、彼女の潤んだ瞳を真っ直-ぐに見つめ返す。
「馬鹿だな」
俺は声と、そして手話で、はっきりと伝えた。
「俺はお前を守れて嬉しかったんだぞ。これくらい、かすり傷だ」
俺は大げさに包帯が巻かれた自分の腕を見せて、にっと笑ってみせた。
「それに、お前の声、聞けたしな」
俺は続けた。
「最高の、ご褒美だよ。ありがとう」
俺の心の底からの感謝の言葉。
それを聞いた彼女の瞳が驚きに大きく、大きく見開かれた。
そして、次の瞬間。
彼女の顔に全ての不安を吹き飛ばすかのような、ふわりとした、花が咲くような最高の笑顔が咲いた。
奇跡のあとさき。
それは決して楽な道のりではないのかもしれない。
でも、俺たちはもう何も怖くなかった。
二人で手を取り合ってさえいれば。
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夕暮れの空の下、俺たちはそう固く信じていた。
これから始まる新しい物語への確かな希望を胸に抱いて。
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