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第71話:王都への帰還と不穏な空気
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祭りの夜の甘い余韻は、王都からの緊急の報せによって、跡形もなく消え去っていた。
翌朝、アイゼンブルクの街はまだ朝靄に包まれているというのに、私たちはすでに出発の準備を終え、慌ただしく馬車に乗り込んだ。領主の館の前には、私たちの急な出発を知った街の人々が、心配そうな顔で集まってくれていた。
「公爵様! 何かあったのですか?」
「聖女様、もう行ってしまわれるのですか……」
その不安げな声に、アシュレイ様は馬車の窓から顔を出し、領主としての力強い笑みを浮かべてみせた。
「案ずるな。王都で少し、片付けるべき仕事ができただけだ。このアイゼンベルクの地は、私が必ず守る。またすぐに、顔を見せに来よう」
その言葉に、人々は安堵したように頷き、私たちの馬車が見えなくなるまで、力強く手を振ってくれていた。
馬車の中の空気は、行きとは全く違っていた。
軽やかだった会話は消え、重い沈黙が私たちを支配している。アシュレイ様は、窓の外を流れる景色を眺めながら、その思考を王都の情勢へと巡らせているようだった。その横顔は、もはや私だけに見せてくれていた優しい恋人のものではなく、国家の危機に立ち向かう、冷徹で威厳に満ちた『氷の公爵』そのものだった。
私は、そんな彼の邪魔をしてはいけないと思い、ただ静かに、隣に座っていた。彼が、どれほど大きな責任をその肩に背負っているのか。領地を旅する中で、私はその一端を垣間見た。だからこそ、今の私にできることは、彼を信じ、その傍らで静かに支えることだけだと分かっていた。
時折、彼が私の不安を察したように、何も言わずに、私の手をぎゅっと握ってくれる。その確かな温もりだけが、私の心を支えていた。
王都へ向かう道中、私はいくつかの小さな異変に気づいていた。
街道を行き交う商人や旅人たちの数が、明らかに減っている。そして、すれ違う人々の表情は一様に硬く、どこか怯えているように見えた。街道の要所要所に設けられた関所では、武装した兵士たちの数が増員され、普段よりも厳重な検問が行われている。
私たちの馬車は、アイゼンベルク公爵家の紋章を掲げているため、止められることはなかった。しかし、兵士たちが向ける視線には、疲労と、そして拭いきれない緊張の色が浮かんでいた。
「……何か、良くないことが起きているのですね」
私は、たまらず呟いた。
アシュレイ様は、私の問いに静かに頷いた。
「ああ。王都から漏れ出してくる不穏な空気が、すでにここまで広がっているということだ。……急がせるぞ」
彼は御者にそう命じ、馬車の速度はさらに上がった。
数日後、私たちはようやく王都の高い城壁の前に辿り着いた。
城門の周りは、これまで見たこともないほどの、物々しい雰囲気に包まれていた。城門を通過しようとする全ての馬車や荷馬車が長い列を作り、屈強な兵士たちによって、一つ一つ厳しい荷物検査を受けている。
「これは……まるで戦時中のようだ」
アシュレイ様が、苦々しげに吐き捨てた。
私たちの馬車が近づくと、門番の兵士長らしき男が慌てて駆け寄ってきた。
「アイゼンベルク公爵閣下! お早いお戻りで!」
「門を閉鎖しているのか」
「いえ、そういうわけではございませんが、近頃、街で原因不明の小火や騒動が頻発しておりまして……。王宮からの命令で、警戒レベルを最大に引き上げております」
その報告に、アシュレイ様の眉間の皺が、さらに深くなる。
私たちは、顔パスで城門を通過したが、その先に広がっていた王都の光景は、私の知っている活気ある街の姿ではなかった。
人々は足早に行き交い、その顔には笑顔がない。辻々には武装した兵士が立ち、互いを疑うような、猜疑心に満ちた空気が、街全体を重く覆っていた。私たちが領地で過ごしていた、あの温かく、平和に満ちた時間とは、あまりにもかけ離れた光景だった。
そのあまりのギャップに、私の胸は、言いようのない不安で締め付けられた。
ようやく公爵邸に帰り着くと、マーサさんやセバスチャンさんたちが、安堵と心配が入り混じった、複雑な表情で私たちを出迎えてくれた。
「閣下、リナリア様! ご無事のお帰りを、心よりお待ちしておりました!」
アシュレイ様は、彼らの労いの言葉に短く頷くと、すぐにセバスチャンさんを書斎へと伴った。詳しい状況報告を求めるためだろう。その背中には、一刻の猶予も許されないという、切迫感が漂っていた。
私は、マーサさんに案内されて自室へと戻った。旅の荷物を解きながら、私は彼女に尋ねた。
「マーサさん。王都で、一体何が起きているのですか?」
マーサさんは、私のためにハーブティーを淹れながら、声を潜めて答えてくれた。
「……私達にも、詳しいことは。ですが、どうやら王宮内で、第二王子殿下を支持する一部の貴族たちが、何やら不穏な動きを見せている、との噂でございます」
「エドワード王子を……?」
「はい。先の謁見で、王子とイザベラ様は、公爵閣下とリナリア様によって完全に面目を失いました。それを恨みに思った者たちが、水面下で徒党を組んでいるとか……。街で起きている騒ぎも、彼らが王宮の権威を失墜させ、民衆の不安を煽るために、裏で糸を引いているのではないかと、囁かれております」
その言葉に、私の心は冷たくなった。
やはり、あの人たちが。
私たちが領地で穏やかな時間を過ごしている間にも、彼らの悪意は、毒のように、この王都を蝕んでいたのだ。
そして、その騒動の根源の一端が、私を巡る一連の出来事にあることは、間違いなかった。
その夜、深い疲労と、厳しい決意の色を顔に浮かべたアシュレイ様が、私の部屋を訪れた。
彼は、私が眠りを妨げないように、静かな声で、しかし包み隠さず、現状を説明してくれた。
「セバスチャンからの報告でも、やはり黒幕はエドワードを担ぎ上げる反乱分子のようだ。まだ小規模な動きだが、その背後には、もっと大きな何者かがいる可能性が高い」
「大きな、何者か……?」
「ああ。おそらくは、我が国と敵対する、外国の勢力だろう」
その言葉に、私は息をのんだ。事態は、私が想像していたよりも、ずっと深刻だった。
「奴らの狙いは、王国内に混乱を引き起こし、その隙に乗じて、何らかの利益を得ること。そして、その混乱の中心に、君を据えようとしている節がある」
「私を……?」
「そうだ。『聖女の出現が、国の平穏を乱した』と、民衆に信じ込ませたいのだろう。君への反感を煽り、私達を孤立させようという、浅はかな考えだ」
私は、自分の存在が、この国の危機の発端になってしまっているという事実に、唇を噛みしめた。
そんな私の様子を見て、アシュレイ様は、私の手を優しく握った。
「君が、責任を感じる必要はない。これは、君が現れるずっと前から、この国が抱えていた、古い病のようなものだ。君の出現が、その膿を表面化させる、きっかけになったに過ぎない」
彼は、私を安心させるように、そう言った。
「私に、何かできることはありますか」
私が、決意を込めてそう尋ねると、アシュレイ様は、待っていたとばかりに、私の手を強く握り返した。
「今は、ただ私の傍にいてくれ。君の存在そのものが、私の力の源だ。だが……」
彼は、そこで一度言葉を切り、真剣な瞳で、私を見つめた。
「もし、奴らが本格的に動き出した時。その時は……君の、その聖なる力が必要になるかもしれない。国を守るための、最後の切り札として」
その言葉は、私に、新たな戦いの始まりを、はっきりと予感させた。
穏やかな旅は、終わった。
けれど、私はもう、何も怖くはなかった。
この人の隣で、この国を、そして彼が愛する人々を守る。
それこそが、今の私に与えられた、聖女としての、新たな使命なのだから。
私は、彼の瞳をまっすぐに見つめ返し、静かに、しかし力強く、頷いた。
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その不安げな声に、アシュレイ様は馬車の窓から顔を出し、領主としての力強い笑みを浮かべてみせた。
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馬車の中の空気は、行きとは全く違っていた。
軽やかだった会話は消え、重い沈黙が私たちを支配している。アシュレイ様は、窓の外を流れる景色を眺めながら、その思考を王都の情勢へと巡らせているようだった。その横顔は、もはや私だけに見せてくれていた優しい恋人のものではなく、国家の危機に立ち向かう、冷徹で威厳に満ちた『氷の公爵』そのものだった。
私は、そんな彼の邪魔をしてはいけないと思い、ただ静かに、隣に座っていた。彼が、どれほど大きな責任をその肩に背負っているのか。領地を旅する中で、私はその一端を垣間見た。だからこそ、今の私にできることは、彼を信じ、その傍らで静かに支えることだけだと分かっていた。
時折、彼が私の不安を察したように、何も言わずに、私の手をぎゅっと握ってくれる。その確かな温もりだけが、私の心を支えていた。
王都へ向かう道中、私はいくつかの小さな異変に気づいていた。
街道を行き交う商人や旅人たちの数が、明らかに減っている。そして、すれ違う人々の表情は一様に硬く、どこか怯えているように見えた。街道の要所要所に設けられた関所では、武装した兵士たちの数が増員され、普段よりも厳重な検問が行われている。
私たちの馬車は、アイゼンベルク公爵家の紋章を掲げているため、止められることはなかった。しかし、兵士たちが向ける視線には、疲労と、そして拭いきれない緊張の色が浮かんでいた。
「……何か、良くないことが起きているのですね」
私は、たまらず呟いた。
アシュレイ様は、私の問いに静かに頷いた。
「ああ。王都から漏れ出してくる不穏な空気が、すでにここまで広がっているということだ。……急がせるぞ」
彼は御者にそう命じ、馬車の速度はさらに上がった。
数日後、私たちはようやく王都の高い城壁の前に辿り着いた。
城門の周りは、これまで見たこともないほどの、物々しい雰囲気に包まれていた。城門を通過しようとする全ての馬車や荷馬車が長い列を作り、屈強な兵士たちによって、一つ一つ厳しい荷物検査を受けている。
「これは……まるで戦時中のようだ」
アシュレイ様が、苦々しげに吐き捨てた。
私たちの馬車が近づくと、門番の兵士長らしき男が慌てて駆け寄ってきた。
「アイゼンベルク公爵閣下! お早いお戻りで!」
「門を閉鎖しているのか」
「いえ、そういうわけではございませんが、近頃、街で原因不明の小火や騒動が頻発しておりまして……。王宮からの命令で、警戒レベルを最大に引き上げております」
その報告に、アシュレイ様の眉間の皺が、さらに深くなる。
私たちは、顔パスで城門を通過したが、その先に広がっていた王都の光景は、私の知っている活気ある街の姿ではなかった。
人々は足早に行き交い、その顔には笑顔がない。辻々には武装した兵士が立ち、互いを疑うような、猜疑心に満ちた空気が、街全体を重く覆っていた。私たちが領地で過ごしていた、あの温かく、平和に満ちた時間とは、あまりにもかけ離れた光景だった。
そのあまりのギャップに、私の胸は、言いようのない不安で締め付けられた。
ようやく公爵邸に帰り着くと、マーサさんやセバスチャンさんたちが、安堵と心配が入り混じった、複雑な表情で私たちを出迎えてくれた。
「閣下、リナリア様! ご無事のお帰りを、心よりお待ちしておりました!」
アシュレイ様は、彼らの労いの言葉に短く頷くと、すぐにセバスチャンさんを書斎へと伴った。詳しい状況報告を求めるためだろう。その背中には、一刻の猶予も許されないという、切迫感が漂っていた。
私は、マーサさんに案内されて自室へと戻った。旅の荷物を解きながら、私は彼女に尋ねた。
「マーサさん。王都で、一体何が起きているのですか?」
マーサさんは、私のためにハーブティーを淹れながら、声を潜めて答えてくれた。
「……私達にも、詳しいことは。ですが、どうやら王宮内で、第二王子殿下を支持する一部の貴族たちが、何やら不穏な動きを見せている、との噂でございます」
「エドワード王子を……?」
「はい。先の謁見で、王子とイザベラ様は、公爵閣下とリナリア様によって完全に面目を失いました。それを恨みに思った者たちが、水面下で徒党を組んでいるとか……。街で起きている騒ぎも、彼らが王宮の権威を失墜させ、民衆の不安を煽るために、裏で糸を引いているのではないかと、囁かれております」
その言葉に、私の心は冷たくなった。
やはり、あの人たちが。
私たちが領地で穏やかな時間を過ごしている間にも、彼らの悪意は、毒のように、この王都を蝕んでいたのだ。
そして、その騒動の根源の一端が、私を巡る一連の出来事にあることは、間違いなかった。
その夜、深い疲労と、厳しい決意の色を顔に浮かべたアシュレイ様が、私の部屋を訪れた。
彼は、私が眠りを妨げないように、静かな声で、しかし包み隠さず、現状を説明してくれた。
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彼は、そこで一度言葉を切り、真剣な瞳で、私を見つめた。
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その言葉は、私に、新たな戦いの始まりを、はっきりと予感させた。
穏やかな旅は、終わった。
けれど、私はもう、何も怖くはなかった。
この人の隣で、この国を、そして彼が愛する人々を守る。
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