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第70話:敵国の影
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アシュレイが王都からの緊急の報せに眉をひそめていた頃。
王国とは山脈を隔てた隣国、魔術国家ゼノビアの薄暗い一室でもまた、一つの報告がなされていた。
部屋の中央には黒曜石で作られた巨大な水晶玉が不気味な光を放っている。その周りにはフードを目深にかぶった数人の人影があった。
「……以上が、かの国で我が諜報員が掴んだ情報の全てにございます、ゾルディアス様」
フードをかぶった一人、密偵らしき男が跪いたまま水晶玉の前に立つ人物に報告を終えた。
水晶玉の前に立つ男――魔術師長ゾルディアスは、長く骸骨のように痩せこけた指で自らの顎を撫でながら、興味深そうに目を細めた。その顔はフードの影に隠れてほとんど見ることができない。
「……ほう。聖剣エクシードが復活した、と」
その声は、まるで地の底から響いてくるかのように低く、そして老獪な響きを持っていた。
「にわには信じがたい話だな。あの剣は百年前、我が国の先達たちが多大な犠牲を払ってようやく破壊したはず。それをいかなる手段で……」
「それが、ゾルディアス様。報告によりますと、聖剣を修復したのは一人の若い娘だとのことにございます」
「娘だと?」
ゾルディアスの声に、初めて明確な驚きの色が浮かんだ。
「はい。名をリナリア・エルフィールド。元は伯爵家の『出来損ない』と蔑まれていた娘だったとか。しかし、その娘が持つ【修復】というスキルが今回の奇跡を引き起こした、と。今やかの国では『聖女』と呼ばれ、崇められている様子」
「【修復】……。壊れたものを元に戻すだけの、ありふれた地味なスキルのはず。それが伝説級の聖剣にまで干渉できるというのか……」
ゾルディアスは腕を組み、深く考え込んだ。
彼の長い人生と膨大な魔術の知識をもってしても、その現象はにわには理解しがたいものだった。
だが、もしそれが事実だとしたら。
「……厄介なことになったな」
彼の呟きに、部屋の空気が一層重くなる。
聖剣エクシードの復活はゼノビアにとっては看過できない脅威だった。百年前、大陸の覇権をかけて争った両国は今もなお冷たい緊張関係にある。かの国に強力な切り札が一つ増えることは、ゼノビアの軍事的な優位を根底から覆しかねない。
そして、それ以上にゾルディアスを苛立たせたのは別の情報だった。
「……して、アシュレイ・フォン・アイゼンベルクはどうしている」
彼が忌々しげにその名を口にした。
「はっ。その娘リナリアは現在、アシュレイ公爵の絶対的な庇護下にございます。公爵はその娘を『運命の相手』と呼び、片時も側から離さず過保護なまでに甘やかしている、とのことにございます」
その報告に、ゾルディアスの口元に歪んだ笑みが浮かんだ。
「……そうか。あの男の、呪いが」
彼は全てを悟ったようだった。
アシュレイにかけられた『心を凍らせる呪い』。それは他ならぬ、このゾルディアスが数年前の戦で自らの手で放った最高傑作の呪詛だった。
いずれあの氷のように美しい男が、全ての感情を失い、ただの人形と成り果てる様を彼は心待ちにしていたのだ。
「あの呪いを解くことができるのは、『万物をあるべき姿に戻す』力を持つ者のみ。……なるほど、そういうことか。あの男、己の呪いを解くためにその娘を見つけ出したのだな」
全てが繋がった。
リナリアという娘の持つ【修復】スキルは、ただの物理的な修復能力ではない。呪いや人の心といった概念的なものにまで干渉できる、規格外の癒やしの力なのだ。
「……危険すぎる」
ゾルディアスは結論を下した。
その娘の存在はゼノビアにとって、聖剣エクシード以上の脅威となり得る。
彼女がアシュレイの呪いを完全に解いてしまえば、あの男は本来の、そしてそれ以上の力を取り戻すだろう。そうなれば、もはや誰にもあの男を止めることはできなくなる。
そして彼女の力があれば、聖剣だけでなく、かの国に眠る他の古代遺物をも次々と復活させてしまうかもしれない。
「……その娘、排除せねばなるまいな」
ゾルディアスの声はどこまでも冷徹だった。
「あるいは……」
彼は新たな、さらに悪辣な考えに口元を歪ませた。
「……こちら側へ、奪い取るか」
その規格外の癒やしの力をゼノビアのために利用する。その考えは彼の心を暗い興奮で満たした。
「ゾルディアス様。いかがいたしますか」
密偵が次の指示を仰ぐ。
ゾルディアスはしばらくの間、黒曜石の水晶玉をその痩せこけた指でゆっくりと撫でていた。水晶玉の中では、まるで未来を映し出すかのように不気味な靄が渦巻いている。
やがて、彼は決断を下した。
「……まずは様子を見る。アシュレイとその娘は今、アイゼンベルク領にいるのだろう? 王都に戻る道中で、少しばかり『挨拶』をしてやろうではないか」
その声には、蛇のようなねっとりとした悪意が込められていた。
「かの国の王宮内部にも我らに与する者たちがまだ残っているはずだ。彼らにも動くよう指示を出せ。……アシュレイがリナリアという聖女から気を逸らすための陽動が必要だろうからな」
王宮内の陰謀。それもまた、この男が裏で糸を引いていたのだ。
「御意」
密偵は深く頭を下げると、音もなく闇の中へと姿を消した。
一人残されたゾルディアスは、再び水晶玉を覗き込んだ。
「リナリア・エルフィールド……。聖女、か。……どれほどの光を持つのか、この目でじっくりと見定めてやろう。そして、その光が我が闇に呑まれる様を楽しませてもらうとしよう」
部屋の中に、彼の不気味で乾いた笑い声が低く、低く響き渡った。
穏やかな旅路の裏で、敵国の最も邪悪な影が静かに、しかし確実にリナリアとアシュレイにその魔の手を伸ばし始めていた。
二人の運命に、新たな、そして最も危険な嵐が近づきつつあった。
王国とは山脈を隔てた隣国、魔術国家ゼノビアの薄暗い一室でもまた、一つの報告がなされていた。
部屋の中央には黒曜石で作られた巨大な水晶玉が不気味な光を放っている。その周りにはフードを目深にかぶった数人の人影があった。
「……以上が、かの国で我が諜報員が掴んだ情報の全てにございます、ゾルディアス様」
フードをかぶった一人、密偵らしき男が跪いたまま水晶玉の前に立つ人物に報告を終えた。
水晶玉の前に立つ男――魔術師長ゾルディアスは、長く骸骨のように痩せこけた指で自らの顎を撫でながら、興味深そうに目を細めた。その顔はフードの影に隠れてほとんど見ることができない。
「……ほう。聖剣エクシードが復活した、と」
その声は、まるで地の底から響いてくるかのように低く、そして老獪な響きを持っていた。
「にわには信じがたい話だな。あの剣は百年前、我が国の先達たちが多大な犠牲を払ってようやく破壊したはず。それをいかなる手段で……」
「それが、ゾルディアス様。報告によりますと、聖剣を修復したのは一人の若い娘だとのことにございます」
「娘だと?」
ゾルディアスの声に、初めて明確な驚きの色が浮かんだ。
「はい。名をリナリア・エルフィールド。元は伯爵家の『出来損ない』と蔑まれていた娘だったとか。しかし、その娘が持つ【修復】というスキルが今回の奇跡を引き起こした、と。今やかの国では『聖女』と呼ばれ、崇められている様子」
「【修復】……。壊れたものを元に戻すだけの、ありふれた地味なスキルのはず。それが伝説級の聖剣にまで干渉できるというのか……」
ゾルディアスは腕を組み、深く考え込んだ。
彼の長い人生と膨大な魔術の知識をもってしても、その現象はにわには理解しがたいものだった。
だが、もしそれが事実だとしたら。
「……厄介なことになったな」
彼の呟きに、部屋の空気が一層重くなる。
聖剣エクシードの復活はゼノビアにとっては看過できない脅威だった。百年前、大陸の覇権をかけて争った両国は今もなお冷たい緊張関係にある。かの国に強力な切り札が一つ増えることは、ゼノビアの軍事的な優位を根底から覆しかねない。
そして、それ以上にゾルディアスを苛立たせたのは別の情報だった。
「……して、アシュレイ・フォン・アイゼンベルクはどうしている」
彼が忌々しげにその名を口にした。
「はっ。その娘リナリアは現在、アシュレイ公爵の絶対的な庇護下にございます。公爵はその娘を『運命の相手』と呼び、片時も側から離さず過保護なまでに甘やかしている、とのことにございます」
その報告に、ゾルディアスの口元に歪んだ笑みが浮かんだ。
「……そうか。あの男の、呪いが」
彼は全てを悟ったようだった。
アシュレイにかけられた『心を凍らせる呪い』。それは他ならぬ、このゾルディアスが数年前の戦で自らの手で放った最高傑作の呪詛だった。
いずれあの氷のように美しい男が、全ての感情を失い、ただの人形と成り果てる様を彼は心待ちにしていたのだ。
「あの呪いを解くことができるのは、『万物をあるべき姿に戻す』力を持つ者のみ。……なるほど、そういうことか。あの男、己の呪いを解くためにその娘を見つけ出したのだな」
全てが繋がった。
リナリアという娘の持つ【修復】スキルは、ただの物理的な修復能力ではない。呪いや人の心といった概念的なものにまで干渉できる、規格外の癒やしの力なのだ。
「……危険すぎる」
ゾルディアスは結論を下した。
その娘の存在はゼノビアにとって、聖剣エクシード以上の脅威となり得る。
彼女がアシュレイの呪いを完全に解いてしまえば、あの男は本来の、そしてそれ以上の力を取り戻すだろう。そうなれば、もはや誰にもあの男を止めることはできなくなる。
そして彼女の力があれば、聖剣だけでなく、かの国に眠る他の古代遺物をも次々と復活させてしまうかもしれない。
「……その娘、排除せねばなるまいな」
ゾルディアスの声はどこまでも冷徹だった。
「あるいは……」
彼は新たな、さらに悪辣な考えに口元を歪ませた。
「……こちら側へ、奪い取るか」
その規格外の癒やしの力をゼノビアのために利用する。その考えは彼の心を暗い興奮で満たした。
「ゾルディアス様。いかがいたしますか」
密偵が次の指示を仰ぐ。
ゾルディアスはしばらくの間、黒曜石の水晶玉をその痩せこけた指でゆっくりと撫でていた。水晶玉の中では、まるで未来を映し出すかのように不気味な靄が渦巻いている。
やがて、彼は決断を下した。
「……まずは様子を見る。アシュレイとその娘は今、アイゼンベルク領にいるのだろう? 王都に戻る道中で、少しばかり『挨拶』をしてやろうではないか」
その声には、蛇のようなねっとりとした悪意が込められていた。
「かの国の王宮内部にも我らに与する者たちがまだ残っているはずだ。彼らにも動くよう指示を出せ。……アシュレイがリナリアという聖女から気を逸らすための陽動が必要だろうからな」
王宮内の陰謀。それもまた、この男が裏で糸を引いていたのだ。
「御意」
密偵は深く頭を下げると、音もなく闇の中へと姿を消した。
一人残されたゾルディアスは、再び水晶玉を覗き込んだ。
「リナリア・エルフィールド……。聖女、か。……どれほどの光を持つのか、この目でじっくりと見定めてやろう。そして、その光が我が闇に呑まれる様を楽しませてもらうとしよう」
部屋の中に、彼の不気味で乾いた笑い声が低く、低く響き渡った。
穏やかな旅路の裏で、敵国の最も邪悪な影が静かに、しかし確実にリナリアとアシュレイにその魔の手を伸ばし始めていた。
二人の運命に、新たな、そして最も危険な嵐が近づきつつあった。
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