この聖水、泥の味がする ~まずいと追放された俺の作るポーションが、実は神々も欲しがる奇跡の霊薬だった件~

夏見ナイ

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第96話 英雄の帰還

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謁見の間は期待に満ちた静寂に包まれていた。誰もが俺の言葉を待っている。辺境から現れた若き英雄が、大神殿の頂点に立ち、新たな伝説を紡ぎ始める。その歴史的瞬間を誰もが見届けようとしていた。

俺は玉座に座る国王陛下と、その隣で微笑む聖女セシリアの顔をまっすぐに見つめた。そして、ゆっくりと、しかしはっきり告げた。

「……その儀、謹んでお断り申し上げます」

その言葉は静かだったが、広大な謁見の間にいる全ての者の耳に明瞭に届いた。

一瞬の沈黙。

人々は今、自分たちが何を聞いたのか理解できなかった。

やがて、その沈黙は信じられないというどよめきへと変わった。

「な……! 断っただと!?」
「神官長の地位を蹴ったというのか!」
「正気か、あの男は……!」

貴族や大臣たちが口々に囁き合う。老神官長ですら驚きに目を見開いている。国王も予想外の返答にわずかに眉をひそめた。

「……ルーク殿。それはどういう意味かな」

国王が真意を問う。

「何か不満でもあるのか。地位か、名誉か、金か。望むものがあるのなら何でも与えよう。お主の功績はそれに値する」

その言葉には純粋な困惑が滲んでいた。彼には俺がこの最高の栄誉を断る理由が理解できなかったのだ。

俺は静かに首を振った。

「いいえ、陛下。あなた様と聖女様のお気持ちは痛いほど伝わっております。これ以上ない光栄な申し出。心から感謝いたします」

俺は改めて深く頭を下げた。

「ですが、俺にはその大役は務まりません。俺は英雄でも聖者でもありませんから」

俺は顔を上げ、穏やかに、しかし揺るぎない意志を込めて微笑んだ。

「俺はただのポーション屋です。ミストラル村の小さな店の、しがない店主ですよ」

その言葉に謁見の間は再び静寂に包まれた。だが、今度の静寂は先ほどのものとは違っていた。人々は俺の言葉の真意を、その表情に浮かぶ一点の曇りもない誠実さを感じ取ろうとしていた。

俺は続けた。

「俺の居場所はこの壮麗な大神殿にはありません。俺の居場所は仲間たちがいて、俺を必要としてくれるあの小さな村にあります」

俺の脳裏にミストラルの温かい光景が浮かんでいた。エリアナの笑顔、リゼットやノエルとの他愛もない会話、ギムリの打つ槌の音、村人たちの笑い声。

「俺はそこへ帰りたい。そして、またいつものように店のカウンターに立ちたいのです。訪れる人々の話を聞き、彼らの小さな痛みや悲しみを癒す。そして代金として焼きたてのパンや採れたての野菜をもらう。……俺の幸せはそこにしかありません」

俺の言葉は飾り気のない、ありのままの想いだった。

権力も名誉も富も、俺は望んでいない。俺が望むのは、ただあの穏やかで温かい日常。

「……なんと、いう……」

国王は呆然と呟いた。彼の瞳には、俺という人間への理解を超えた深い感銘の色が浮かんでいた。

玉座の隣で聖女セシリアが、くすくすと楽しそうに笑った。その笑い声は鈴の音のように清らかに響き渡った。

「……それでこそ、あなたですわ。ルーク」

彼女は俺の選択を最初から分かっていたかのように優しく頷いた。

国王は大きく深いため息をついた。そして、その顔には諦めと深い尊敬が入り混じった穏やかな笑みが浮かんでいた。

「……そうか。お主はそういう男であったな。……分かった。お主の意志を尊重しよう」

彼は玉座から立ち上がった。

「だが、これだけは受け取ってもらいたい。王としてではなく、この国の民を代表しての心からの感謝の印だ」

彼が合図をすると、侍従が一つの豪奢な箱を俺の前に捧げ持ってきた。

箱の中には純金でできた一枚のプレートが入っていた。そこにはこう刻まれている。

『ミストラル村は王国最高の友好都市とし、その自治と平和をテオラシア王家の名において永久に保証する』

それはミストラル村に国王から与えられる絶対不可侵の権利だった。今後、どんな貴族もどんな組織もミストラル村に不当に干渉することはできなくなる。

俺は、そのプレートを静かに受け取った。これ以上にありがたい贈り物はない。

「……感謝いたします。陛下」

俺は心からの敬意を込めて頭を下げた。

叙勲の儀はこうして前代未聞の形で幕を閉じた。

英雄は王都の栄誉を全て固辞し、辺境の村へと帰ることを選んだ。

その話は瞬く間に吟遊詩人たちの格好の題材となった。「富よりも愛を選んだ聖者」。その物語は尾ひれがつき美化されながらも、長く長く人々の間で語り継がれていくことになる。

俺たちはその数日後。

王都の人々の熱狂的な見送りを受けながら、ミストラル村への帰路についていた。

リゼットは聖剣騎士の称号は受け取ったものの、騎士団への復帰は固辞し俺の護衛として村へ帰ることを選んだ。
ノエルも王宮魔術師団の最高顧問という地位は名目上だけ受け取り、「基本的にはミストラルの研究所から出ないからね」と宣言していた。

俺たちの居場所はもう決まっていた。

帰りの馬車の中は行きとは違い、穏やかで明るい空気に満ちていた。

「しかし、本当に良かったのか? ルーク」

リゼットが少しだけ心配そうに尋ねる。

「大神殿の神官長だぞ。お前を馬鹿にしていた連中を顎で使える最高の地位だったのに」
「興味ありませんよ」

俺は窓の外を流れる景色を見ながら笑って答えた。

「俺はただのポーション屋ですから」

その言葉にリゼットとノエルは顔を見合わせ、そして優しく微笑んだ。

馬車は西へ、西へと進んでいく。

俺たちの本当の故郷へ。

温かい仲間たちが待つ、あの泥の味がする日常へと帰るために。

英雄の帰還。だが、俺の心はただ家に帰るだけの、ごく普通の男の穏やかな喜びで満たされていた。
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